東の名探偵・工藤新一としてのかつての栄光をどのようにして取り戻すかということについて、小学生・江戸川コナンは幾通りもの空想をしてきた。しかしながら現実の経緯は、思い描いていたどんな夢よりも、盛り上がりに欠けていたのだった。
一年にわたる熱心な捜査の末に黒幕が逮捕され、組織は崩壊した。ただしFBIの提案により、コナンはその後も、自分の正体については口をつぐんだまま過ごしていた。
「モグラども、つまり一部の潜伏している組織員たちがまだ捜索中だ」と、赤井秀一は諭してきた。「実際に大人の身体に戻れるようになるまでは、例の薬のことは秘密のままにしておくほうが安全だろう。それに、もしきみについての真相がおおやけになってしまったら、十歳も若返ることができる薬に、世間はどんな反応をすると思う?」
コナンは、この赤井との会話について、灰原には一切、語ることはなかった。ただ単に、引き出すことができたAPTX-4869の情報をすべて渡しただけだ。そして、そのままコナンとしての生活に戻った。なんといっても、黒の組織を倒す過程において、敵を欺くにはまず味方からだということを、彼は学んでいたのだ。身近な人々――蘭、小五郎、高木、目暮など――が、コナンに対する態度を変えなければ、誰かの注意を引きつけてしまうこともないだろう、と。
夏に入ったばかりのある日、郵便物を抱えた蘭が毛利家のリビングに入ってきて、コナンに小さな包みを手渡した。薄くて平べったい、小説の本くらいの大きさのものだ。
「コナンくん宛てよ」と、蘭は言った。「なにか注文した?」
「ううん、してない」コナンはゆっくりと返答した。少しいぶかしげに、小包を眺める。住所ラベルの下の部分に、おかしな走り書きのようなものがいくつかあった。それが暗号によるメッセージだと気付くまでには、そう長くはかからなかった。「ええっと、ぼく、ちょっとトイレ!」
飛び上るように椅子から降りて、コナンは階段を駆け下り、小五郎の探偵事務所に向かった。遠ざかるその後姿に、蘭は戸惑ったような視線を投げかけ、自分の右側を指差して「でも、トイレならそこに……」と言いかけたが、肩をすくめ、ほかの郵便物に目を戻した。
コナンは事務所のドアを開け、周囲に誰もいないことを確かめたうえで鍵をかけ、小包を覆う紙を破り取った。「他人がいないところで開けるように」と、メッセージには書かれていたのだった。
息を詰める。爆弾かなにか、あるいは罠、あるいは謎かけ、あるいはFBIからの手掛かりかもしれないのだから。しかし出てきたのは、小さな金属製の箱だけだった。ミントタブレットが入ったケースみたいなやつだ。コナンはゆっくりとそれを開けた。中には、薄紙に包まれた、赤と白のカプセル。
小包に手紙は同封されていなかったが、コナンは自分が手にしているものがなんであるかを、確信を持って悟っていた。これ以上にはなり得ないほどの大きな笑みが、彼の顔に広がった。これは、あの日トロピカルランドで失ったものすべてを取り戻すための鍵だ。
ケースをぱちんと閉じて事務所をあとにすると、コナンは階段の上に向かって「蘭姉ちゃん、博士んち行ってくるね!」と叫んでから駆け下りて外に出て、米花町二丁目二十一番地にある自分の家を目指した。
工藤邸は、ちょっとばかり埃っぽくはあったが、記憶していたままの状態だった。コナンは階段を駆け上がって自室に入り、水もなしに薬を飲み込んだ。身体がもとの大きさに戻っていくときの、馴染んだ痛みが湧き起こる。数分後には、白熱のような感覚の最後の名残をやり過ごし、その激しさに意識を失うことがないよう、胸を押さえながら耐えていた。
自分の身体を見下ろし、笑みを浮かべる。十八歳の身体に戻ったのだ。しかも願わくば、今度こそ、ずっとこのままでいられるはず。
まずは、衣服を身につけた。
それから、ふたたび玄関を走り抜け、大急ぎで毛利探偵事務所に戻って行った。幼馴染みのあいつを、びっくりさせてやるんだ。
蘭との再会には、一回のハグと、大量の涙と、月まで吹っ飛ばされるほどの空手の技をかけられそうになること数回が伴った。その結果、新一は事務所に置いてあったコーヒーテーブルを小五郎に弁償する羽目になった。加えて、新一が実はコナンだったという説明を受けた蘭が、自分のいささかプライベートな部分を彼にさらけ出してしまっていたと悟るに至ると、さらに小五郎のデスクまでもが弁償の対象となった。
それでも、新たに始まったふたりの関係における蜜月期は、大して損なわれることはなかった。たった一年のブランクだったが、あまりにも多くの出来事があって、新一にとっては、ずっとずっと長かったかのような感慨があった。最初の二週間、彼はできるだけ多くの時間を、蘭とともに過ごした。ただ口には出さなかったけれど、ちょっとばかりギクシャクしているというのは自覚していた。新一はともすればうっかり「蘭姉ちゃん」と呼びかけてしまったりするし、蘭のほうも、いくらそれが蘭の安全のためだったのだと正当化されても、新一が秘密を打ち明けるほどには自分を信頼してくれていなかったのだという事実を強く意識しつづけていた。
新一の復活から三週間目に入った頃、園子から、ふたりで一族の会社のパーティに来ないかという招待があった。蘭が行きたいと言ったので、新一も行くことになった。
蘭が新一に言わずに歩美、元太、光彦をも誘っていたと知ったのは、ホテルのパーティ会場に着いてからのことだった。
彼らに(改めて)紹介されるのは、おかしな気持ちだった。新一は彼らのことを、本当に、本当によく知っているのだ。歩美の好きな色も、なにが怖いのかも、新一は知っている。元太の食習慣や、光彦の不安の種だってなんでも知っている。なのに彼らは、工藤新一のことをまったく知らないのだ。本当は、ずっと一緒にいたというのに。これは、新一がいつもどこかに行ってしまっていると蘭がコナンに愚痴ってきたときに感じた気持ちと、同じだった。三人は、新一と言葉を交わすのに少々気後れしてさえいた。蘭が、新一お兄ちゃんはとってもとってもいい人なのよ、と言ってくれたにもかかわらず。
しかし、一人の女性が悲鳴を上げながら会場に入ってきたとき、状況は一変した。ホテル内にいた誰かが、殺害されたのだ。新一は、振り返りもせずに現場に駆けつけた。
一時間後には、目暮とその部下たちが犯人に手錠をかけ、事態を収束させていた。
「ありがとう、素晴らしい推理だったよ、工藤くん」警察官たちが現場を片付けるなかで、高木が声をかけてきた。
「お役に立ててよかったです、高木刑事」新一は応じた。ふたたび新一として事件を解決するのは、まだちょっと慣れない感じだった。コナンの子供らしい外見が利用できないと、容疑者たちから秘密を聞き出すのもそう簡単にはいかないのだ。「佐藤刑事とは、その後どうですか?」
「はぁ?」
「ほらほら」と、新一は答えを急かした。「プロポーズするって言ってたじゃないですか」
高木は一瞬ぽかんとした顔で見つめ返してきてから、手をぶんぶん振って新一を黙らせた。「なんで知ってるの?」刑事は、ヒソヒソと言った。「打ち明けたのは……ふたりほどしかいないのに」
げ、まずい。
「あー、えーと、コナンくんから聞いたんです」新一はつじつまを合わせた。馬鹿みたいだ。コナンだったときは、新一から聞いたと言ってあれこれ誤魔化していた。そして本来の身体に戻ったいまは、コナンから聞いたと言ってあれこれ誤魔化している。
「そうか。あ、そういえばコナンくんは、どうしたんだい?」高木は、小さな探偵を探して周囲を見渡した。「いつもなら、捜査現場のど真ん中に出張ってくるだろ」
腕を振り上げて「ここにいるぞ!」と言うわけにもいかない。そこで新一は咳払いをして嘘をついた。「その、数週間前にご両親が立ち寄って、連れ帰ったんです。長いあいだ離れて暮らし過ぎたって思ったそうです」
高木はうなずいた。「ああ、なるほど。でもなにも言ってくれなかったのは残念だね。あの子、うちの本部では、かなり有名になってたんだよ。まあとにかく、ぼくはそろそろ皆と一緒においとまするよ。きみが戻ってきてくれてよかった、工藤くん」
新一は警察の面々が去っていくのを見送りながら、自分が突如として、警察官の集団のなかにいるのをどんなに居心地悪く感じるようになっていたかを思い返していた。きびすを返して建物の中に戻ろうとしたとき、蘭と子供たち三人にばったり出くわした。
「新一」欄は眉をひそめた。「せめて、駆け出す前にどこに行くつもりなのか言ってよ。わたし、てっきり……」
ああ、そうだった。蘭はコナンが姿を消すのには慣れっこだったけれど、新一がそうするのには慣れていないのだ。コナンは大半の場合、どこに行くつもりなのかを正直に話すわけにいかなかったので、そのままなにも言わず走り去っていた。でも以前の新一は、実際に駆け去っていく前に、少なくともその場を離れることくらいは蘭に伝えるようにしていたのだ。習慣を戻すには、少しばかり時間がかかりそうだった。
「ごめん」と、新一はたじたじとしながら言った。「でもさ、どうせオレなら犯罪現場にいるって、分かってたはずだろ」
蘭が戸惑った表情になって、今度は新一が眉をひそめる番だった。もちろん、オレを探すならまずは犯罪の現場じゃないか。灰原なら、コナンだったときいつもそばにいたあのもう一人の少女なら、ふたつ目の選択肢を考慮することすらなかっただろう。
「まるでコナンくんみたいね!」そのとき、歩美が声高に言った。
新一は、歩美の前に膝をついた。「うん、そうかな」と、微笑む。歩美が話しかけてくれたのが、嬉しかった。
「それに、コナンと同じくらい、謎解きが上手いな」元太が付け加えた。「この兄ちゃんに手伝ってもらおうぜ」
歩美と光彦が、そろって同意するようにうなずいた。新一は好奇心を刺激されて、彼らを見やった。「手伝うって、なにを?」
「実はですね、新一お兄さん」光彦が、かしこまって言った。「ぼくたちの親友ふたりが、行方不明なんです」
「自分たちで、すごくがんばって探したの」歩美が悲しげに引き継いだ。「でも、ぜんぜん見つからないの」
「そいつらの名前は江戸川コナン、それから、灰原哀っていうんだ」元太が締めくくった。
新一は、愕然として目をしばたいた。そう、コナンの居所なら自明だ。でも、灰原がいないってどういうことだ? 前回、見かけたのはつい……待て。最後に直接顔を合わせたのがいつだったのかを、慌てて思い出そうとした。そして、そう長くはかからずに、気がついた――あの薬を郵便で受け取るよりも前だ。実のところ、あれ以来、阿笠の家にも行っていない。自由になる時間はすべて、蘭と一緒に過ごしてきたのだ。
「灰原って、阿笠博士のところで暮らしてる子だろ?」用心深く、三人に尋ねた。
「そう」歩美が答えた。「だけど、もう二週間以上も学校に来てなくて、博士のおうちに行ってみたら、病気だって言われたの」
「でも、玄関に灰原さんの靴がないって気付いたんです。いつも読んでる雑誌も、テーブルの上にありませんでした」と、光彦。
「だから、なにかが起こってるんだ」元太が結論付けた。
新一は、口元がゆるみそうになったのをこらえた。ほとんど親のような誇らしさを感じたのだ。こいつら、どんどん鋭くなってきてやがる。「調べてみるよ」と、約束をした。「でも、きっと心配するようなことはないと思うな」
そう言ったのが、自分を納得させるためだったのか、それとも子供たちを納得させるためだったのかは、定かでなかった。灰原は、絶対にいまでもこの辺にいるはずだ。なにも言わずにいなくなったりするはずがない。あり得ない。だって灰原はオレの……新一は眉間にしわを寄せた。相棒、だ。そうとしか言えないよな、と彼はひとまず考えた。そして相棒は、ひとこともなく片割れを置き去りになんかしないものだ。
阿笠博士の家を訪ねてみた結果、子供たちの主張のうち、ひとつは正しかったことが判明した。灰原は、十中八九、もうここでは暮らしていない。光彦が言ったとおり、灰原の靴が玄関から、雑誌が居間から消えていた。さらに、阿笠邸の中は以前より雑然として、テイクアウトした食品の空き箱がキッチンのゴミ箱に捨ててあったし、コーヒーテーブルの上にはチョコレートが散らばったままになっていた。どれもこれも、灰原がいたら許すはずがないことばかりだ。
「博士」と、新一はキッチンのカウンターでなにかをいじくりまわしている阿笠に呼びかけた。
阿笠は顔を上げた。「新一」と、にこやかに言う。「久しぶりじゃな」
「うん、なんか忙しくて」新一は応えた。「なあ、ちょっと訊きたいんだけど……灰原はどこ行った?」
阿笠は新一をじっと見つめたまま、しばらくのあいだ黙っていた。「なにか……哀くんに用かね?」
なぜ、いきなりこんな気まずい空気に?
「ああ……その、歩美ちゃんと元太と光彦が、灰原を見つけてくれって」
「……すまんのう、新一。哀くんの居場所は知らんのじゃ」阿笠は真面目な顔で答えた。
新一は眉をひそめた。「引っ越したのか? 次にこっちに顔を出すのはいつ頃になるか分かるか?」
阿笠は使っていた道具を置いて、新一のほうに向きなおった。「新一、哀くんは引っ越したんじゃない。出奔したんじゃよ。帰ってくるつもりがあるのか、それがいつになるのかは、ワシには分からん」
博士の言葉を正しく理解するまでには、少し時間がかかった。そして理解したときには、まるでぶん殴られたような気がした。
「出奔した!? どこへ?」
「知らん。なにも言わずじまいじゃった」
「でも……」
阿笠は、問いかけるような視線を向けてきた。「新一、哀くんがいなくなってから、もうかれこれ三週間近く経つ。いまになるまで気付かなかったということは、その……」博士は、指摘をせずにはいられなかったのだ。
新一は黙ったままだった。まだショックが醒めていなかった。ある朝、目が覚めると左腕がなくなっていた、というような気持ちだ。なぜだか分からないけれど、これまで、灰原がいなくなるなんて想像してみたこともなかった。もしかしたらそれは、父親同然の存在となった博士がいる以上、灰原に出て行く先なんてあるはずがないと思っていたからかもしれなかった。あるいはまた、あまりにも灰原がすぐ隣にいることに慣れきって、まだそこにいるのかどうかを確認しようなどとは、考えもしなくなってしまっていたからかもしれなかった。
あれだけのことをすべて一緒に乗り越えてきたあとで、あっさりと新一のそばを離れるなんて灰原にはできっこないし、そんな意思もないだろうという感覚でいたのだ。
そんなのは、思い込みにすぎなかったのに。
その後の数週間で、新一は非公式の灰原捜索作戦に乗り出した。米花町から始めて、やがて東京全域にまで手を広げた。それほど遠くに行っているとは思わなかった。だいたい、たかだか八歳の少女がどこへ行けるというのか。
目暮、佐藤、高木らからの、警察の捜査への協力要請は引き続き入ってきたが、新一はこれをいつもどおりの有能さでこなした。ただ厄介なのは、警察官たちと警視庁で過ごせば過ごすほど、自分がパラドックスのなかで生きていると感じられることだった。
コナンは彼らについて、新一が知るはずのないことを知ってしまっていた。
そして、いまの自分がどの情報を知っているべきで、どの情報を知っていてはいけないのかを把握しておくことが、だんだん難しくなってきていた。
なんだか、周囲の人々が動き続けている傍らで、自分の人生が一時停止されていたみたいだった。ふたたび「再生」ボタンを押されたいま、ほかのみんなと自分の進み方が、ずれてしまっているのだ。さらに悪いことに、刑事たちはコナンのことを誇らしげに語るのだった。新一を面白がらせようと、小学生探偵のおかしな言動を真似ながら。自分のことを、その場にいなかった人間に教えるようにして語られるのは、奇妙な体験だった。とりわけ、彼らより自分のほうがよほど、話の内容については詳しく知っているのだから。
蘭と一緒のときでさえ、この不協和音は徐々にはっきりとしたものになっていった。蘭はちゃんと新一がコナンだったことを知っているので、微妙にマシではあったが、それでも、蘭が新一に知られたくなかったこと、たとえば生理周期などが分かってしまうのは問題だった。コナン化する前の新一なら、そんなことをあまり気に留めはしなかった。蘭は怒りに駆られやすい空手チャンピオンだから、もし機嫌が悪そうなら、ちょっと離れたところにいるようにしたりはしていたが、深く考えたことはなかったのだ。しかしコナンは蘭と同じ屋根の下で暮らしていたわけで、そこそこ長く居候しているうちに、普通に周期に気付いてしまっていた。そしていま、新一にそれが分かってしまうことを、蘭は非常に気まずく感じていた。
そんな日々の体験の総仕上げとして、幻肢のような感覚があるというのも問題だった。もはや誰も、犯罪現場に一緒に来てくれはしない。以前なら、(たとえ少年探偵団の全員ではなくても)少なくとも灰原が傍らに控えていて、支援が必要なら必ず手を差し伸べてくれた。また、誰かがすごくイラッとくる発言をしたときなど、つい自分の隣の、なにもない空間に振り向いてしまう。とある少女科学者とのあいだで、乾いた笑みや皮肉めいた意見を共有したくて。そして、そこに彼女はいないということに気付くのだ。
もう捨てられた小動物を助けるために振り回されることもないし、最近では比較的きつい意見を口にするたびに、蘭から驚きの目で見られたり(そのあと非難されたり)する。脳裏に浮かぶもう一人の少女が、同じくらい辛辣な表現で切り返してくるのとは裏腹に。もう誰も新一が言いかけたことや、つらつらと考えたことを引き継いで文章を完成させたりしないし、双方が言い合いをしたいという欲求に駆られたせいで抽象的でとりとめのない話題について議論が始まることもない。そうやってせき止められたエネルギーはすべて、事件を解決することに向けられた。そしてほどなくして、新一はまたしても蘭に断りを入れることなく事件現場に駆けつけるようになり、より多くの時間を灰原の捜索に費やすようになった。捜索に芳しい結果が得られないため、新一は思い悩むことが多くなり、蘭は新一に対して腫れものに触るように接することが増えた。
「新一」帝丹高校からふたりで下校していたある日、蘭が呼びかけた。
不機嫌そうにぼんやりとしていた新一を現実に引き戻すには、腕を引っつかまなければならなかった。「なんだよ?」新一は溜息をついた。
蘭は唇を噛んだが、そのまま続けた。「わたし、ずっと考えてたの。あの……わたしたちのこの……関係……について、新一はどう思ってるんだろうって」口ごもりながら、言う。
新一は足を止め、不審そうに蘭の顔を見た。「なにそれ?」
今度は、蘭が溜息をついた。「新一とは子供の頃からずっと一緒にいたけど……付き合うって想像したときには、こんなふうになるとは思ってなかった」
「じゃあ、どんなふうになるって思ってた?」新一は困惑して言った。「もっとふたりで過ごす時間が増えるとか?」そうは言っても本音では、一緒に暮らすのをやめてしまったいま、新一は蘭と過ごす時間をこれ以上増やせるという気はしていなかった。
「違うの!」と、蘭は言い返した。「そうじゃなくて……えっと、コナンくんが新一に戻ってから、実はなんだか、おかしな感じがするの。わたし、自分で思ってたほど、新一のこと分かってなかったなって。ただの友達じゃなくなったから、これまでとは違うことを期待してるせいなのか、それとも、高校生活最後の一年だから、受験やらなにやらでストレスを感じてるせいなのか、自分でも分からないんだけど」
新一は、蘭が言ったことを反芻しながら、長いあいだ沈黙していた。たしかに、ここしばらくはおかしな感じがしている。ただ新一にとって、それは蘭との関係だけの話ではなかった。あんなにずっと、元の生活を取り戻したいと夢見ていたのに、それが実現したいま、その生活に馴染むのに困難を感じているのだ。
「で、どうしたいんだよ?」ようやく、蘭に問いかけた。
蘭は不安そうな表情だった。「あのね、もしかしたらわたしたち、ただの友達同士に戻ったほうがいいんじゃないかな? いまの状態よりは、まだ……前のほうがよかった気がする」
心の一部では、新一は反論したかった。だって、蘭とは本当にずっと前から、こうなりたかったんだから、いまさら手放したいとは思えない。でも残りの部分では、馴染んだ状態に戻ることに、強い安堵感があった。
「分かった」あっさりと同意する。
「ほんとに?」蘭は、なにも反論されなかったことに、とても驚いているようだった。
「うん、ほんとに」新一は微笑んだ。話しているあいだにも、ふたりを取り巻く空気が徐々に快適になっていくように感じられた。
蘭はホッとして息を吐いた。「ああ、よかった! 園子に電話しなくちゃ。話し合いがどうなったか気にしてるだろうから」
「マジかよ?」新一は呆れ顔になった。どうして女の子って、そんなになんでもかんでも共有したがるんだろう。まあ、ほとんどの女の子って、ということだけど。灰原なら、ふたりで話したことを、うしろを向いて他人に中継したりなんか、絶対にしなかった。とはいえ、灰原とコナンのあいだの会話における、主題の抽象性や長々しさを考えると、その内容を第三者に聞いてもらうよりは、まだしも日記にぶちまけるほうが現実味があっただろうが。
新一は手を振って蘭に別れを告げ、自宅に向かった。角を曲がって家の前の道に入ると、阿笠博士が、阿笠邸の郵便受けをそうっと覗きこんでいるのが目についた。
直感的に、新一はしゃがんで博士の視界に入らないようにした。
阿笠は左右の道路を確認してから郵便受けに手を入れ、郵便物の束を取り出した。そして、門を開けていそいそと中に入って行った。
新一は立ち上がって、眉をひそめた。怪しい。博士が受け取った手紙のなかに、誰にも見られたくないものが含まれていたのだろうか? そういえばもうひとつ、阿笠に灰原の居場所を尋ねたとき以来、新一の心に引っかかっていることがあった。阿笠は、灰原が「出奔した」ということ以外は、なにも知らないと主張していた。だが自分の意志で去って行ったのだと分かっているのなら、灰原はなんらかのかたちで、博士に別れを告げたはずだ。だとすれば、まったくなにも知らないなんてことはないんじゃないか? 加えて、阿笠と灰原は、いつも親密だった。なのに、博士は灰原が消えても、まったく心配しているようすがなかった。それが当たり前のこととは、新一には思えなかった。
若き探偵は、阿笠家の門の前に立って、郵便受けを覗いてみた。現在は、なにも変わったものは入っていない。
「博士」門の前で、新一はつぶやいた。「オレに、なにを隠してる?」
それからの数週間、新一は、長い付き合いのこの隣人を、注意深く観察するようになった。そしてすぐに、いくつかのことに気が付いた。阿笠博士は、まったく普段どおりの行動を取っていた……例外は、郵便物を取り込みに行くときだけなのだ。
もちろん博士は、なにか食べ物を選んだとき誰かから文句を付けられるのではないかと身構えているように見受けられる瞬間があったし、新一と同じく、幻肢のような問題――その場にいない誰かに話しかけるために振り返ってしまったり――を抱えていた。それでも総合的に見て、阿笠の言動は、極めて普通だった。
しかし、郵便を取りに行くときの博士はいつも、周囲に人がいないかどうかを確かめているのだった。一度、新一は博士と一緒に買い物に行ったあと、郵便を取り込んで来ようかと申し出て、この推測を確かめてみたことがあった。阿笠は慌てて拒絶し、新一を急き立てて自分の家に帰らせた。
こういった秘密主義を見せつけられて、新一はその探偵のさがを発揮し、自分にできるただひとつの行動を取った――すなわち、盗み見。
一週間ほど、新一は博士が郵便を取り込むのに先んじて、阿笠家の郵便物にこっそり探りを入れつづけた(それまでの観察を通じて、博士が郵便を取りに行く時間帯はすでに把握していた)。残念ながら、請求書や広告以外のものは配達されていなかった。しかしそろそろ諦めて、爺さんの突飛な行動がまたひとつ増えただけだと結論付けかけていたある日、美しい浜辺の写真の絵葉書が届いていた。好奇心をそそられ、新一はその葉書を裏返し、内容に目を通した。
《博士へ。この新しい生活にはまだしばらく慣れなさそう。バリは、本当に特別なところです。どこまでも続く青緑色の水面と、真っ白な砂。わたしがいないからって、家を燃やしてしまったり、食べすぎたりしてないでしょうね。身体に気を付けて。哀》
新一は、もう少しで郵便物を束ごとごっそり取り落としてしまうところだった。バリ!? インドネシアの!? 灰原が、そこまで遠いところへ旅立ってしまっているとは、想像もしていなかった。それに「新しい生活」って、どういう意味だよ? 帰ってくるつもりがないってことか?
「新一?」阿笠の声が聞こえた。「なにをやっとる?」
新一が顔を上げると、阿笠が顔をしかめてこちらを見ていた。その視線は、新一の顔から、手にしたままだった絵葉書に、素早く移った。「灰原が国外に出てるって、なんで教えてくれなかったんだ?」探偵は詰め寄るように言った。
阿笠の眉間のしわが深くなった。「ワシの手紙を盗み見しとったのか?」
「博士は、オレに嘘をついた」新一は言い返した。「あいつの居場所は知らないって言ったくせに」
阿笠は新一とのあいだにあった数歩の距離を詰め、その手から絵葉書もろとも郵便物の束をもぎ取った。新一は絵葉書から手を離したくはなかったのだが。「嘘はついとらん」と、博士は真剣な顔で言った。「どこにいるのかは、分からんのじゃ。なにも知らされておらん」
「なにかは言ってたはずだろ」新一は食い下がった。「博士からも手紙を出してんのか? オレが連れ戻しに行くって書いてくれよ!」
「哀くんは、もうそこにはおらんよ」というのが阿笠の返事だった。
「それ、つまり居所を知ってるってことじゃねえか!」新一は責め立てた。「教えろよ!」
「なぜかね?」
「なぜかねって、なにが?」
「なぜ、知りたいと思うのかね?」阿笠は問いかけた。
「だって、灰原は……オレは……オレは、事件を未解決のままにしておくわけにはいかねえんだ」連ねた言葉は、説得力に欠けていた。「それに、こんなあっさり……オレの前からいなくなるだなんておかしいよ」
「哀くんがいないと気付くのに、三週間もかかっておったではないか」博士は、決してやさしくはない口調で指摘した。「しかもそれだって、子供たちが気付いて尋ねてきたからというだけのことじゃった。哀くんは、解決されるべき事件などではない」
阿笠は身体の向きを変えて、家の中へと戻りかけた。博士からこのような扱いを受けたのは、新一にとっては初めてのことだった。いつだって、博士は陽気に歓迎してくれていたのだ。
「待てよ、博士!」
初老の科学者は、振り返って年若い探偵を見やった。数秒ののち、新一は博士のその顔がなにを想起させるのかということに思い至った。これは、蘭がこちらに失望したときに見せるのと、同じ表情だ。
「博士、怒ってる?」新一は、小さな声で問いかけた。
阿笠は溜息をついた。「いいや、これはきみが普段からやっておることと大差なかろう。ただのう、ワシのことを、事件の容疑者よりは信頼してくれてもよかったのにとは思ったよ。ワシ宛ての私信を盗み見る必要なんかなかったんじゃ、新一。哀くんがたまに手紙をくれることを、ワシは報告したじゃろうよ。きみはただ、尋ねるだけでよかった」
そう言うと、博士は背を向けて家に入った。残された新一は、ひんやりとした孤独な気持ちだった。
二週間くらいのあいだ、新一は博士を避けていた。その理由は主に、失望されたということをどう受け止めればいいのか分からなかったからだ。新一はいつだって聡明で、人並み以上の成功を収めてきた。みんなの尊敬を受け、仰ぎ見られることが多かった。たとえ(些細な)法を犯す行為をしたときでさえ、それは正義のためだったから、ちょっとした違反はおおむね、より大義ある結果が得られることに免じて見逃されてきた。
これまで、本気でなんとかしたいと思ったのは、蘭に失望されたときだけだったし、そしてそのような場合、物事は(ほとんどいつも)新一の意思でどうこうなるものではなかった。プライバシーを侵害されていたと知った博士が新一を見つめてきたときの表情は、若き探偵の心に焼きついていた。そして、阿笠が言ったことが正しいと分かっていたので、新一は罪悪感を抱いた。博士は、思い出せるかぎりの昔からずっと、新一の人生のなかにいるひとだった。阿笠を信頼できなければ、いったい誰を信頼するのか。ただ普通に、灰原から連絡をしてくることはあるのか、と尋ねればよかったのだ。
いま、灰原にも蘭にも時間を取られることがなくなって、新一には暇な時間が増えた。阿笠に会わないでいると寂しかった。それにまた、灰原の出奔についての真相には、博士を通じてしかたどり着けないのだ。だから、知りたければ、謝りにいかなければならない。
ちょうどそうすることにしたタイミングで、郵便が配達されてきたのは、運としか言いようがなかった。郵便配達人は新一に手を振りながら去っていき、新一は博士宛てに届いたばかりの手紙の束を見下ろした。
一番上に、ライオンの石像の写真が印刷された絵葉書があった。
新一は、裏になにが書いてあるのか知りたかった。
溜息をついて、誘惑に抵抗する。見てしまったら、またしても阿笠と灰原、ふたりとものプライバシーを侵害することになる。意志を強く持って、新一はドアを押し開け、家の中に入った。
「博士!」彼は呼ばわった。うろうろするうちに、阿笠の作業場がある地下に降りていた。ドアを押して開く。博士は机の上に乱雑に積み上げられた紙の山に目を通している最中だった。「博士」と、新一はふたたび声をかけた。
「新一」博士は、溜息とともに応えた。
探偵は部屋を横切って、郵便物の束を手渡した。阿笠は驚いた顔をしたが、やがて一番上に載っている写真に目を留めた。
「オレが入ろうとしてたとき、ちょうど配達の人とかち合ったんだ」新一は慌てて説明した。「誓って言うけど、読んでないから。それと……こないだのは、オレが悪かったよ」
阿笠はうなずいて絵葉書を手に取り、裏返して通信面を読んだ。新一は、知るかぎりでは二通目の灰原からのメッセージを博士が受け取っているということに、ちょっとばかり嫉妬を感じずにはいられなかった。新一には、別れの言葉さえかけてくれずじまいだったのだ。ずっと、自分の存在は灰原にとって、もう少し意味あるものだと思っていたのに。眺めているうちに、博士の顔が諦めの表情から面白がるようなものに変化していった。そしてクックと笑い声さえあげながら、葉書を新一に差し出してきた。
新一はおずおずとそれを受け取り、文面を読んだ。宛先は米花町二丁目二十二番地の阿笠博士となっていたが、メッセージは、新一に向けたものだった。
《工藤くんへ。博士宛ての手紙を盗み見するのはやめなさいね。余計なお世話な危ない探偵さんになっちゃうわよ。》
新一は、目を白黒させながらも笑ってしまった。マジであいつ、オレのこと把握しすぎ。
ふたたび顔を上げると、阿笠はほかの手紙を確認しているところだった。
「博士」新一は、もう一度、訊いてみることにした。「オレ、灰原の居所を探ってみたんだけど、あんまりうまく行かなかった。どこにいるか、知ってんのか?」
博士は、手紙を置いた。「本当に、知らんのじゃよ」と、彼は答えた。「なんでまた、そんなにしつこく見つけようとするんじゃね? 解毒剤は、ここを発つ前に渡していったじゃろう」
新一は溜息をついた。「なんでかって、灰原は友人だからだよ。オレの相棒だ。いつまで経っても、なにか言おうとして自分の隣にあいつの姿を探しちまうんだ。もういないんだって気付くだけなのに。解毒剤の問題じゃないんだ。誰よりもオレのことをよく分かってくれてたあいつが、さよならも言わずに国外に行っちまったってことが、堪えてるんだ」
「新一、ワシは、本当に知らんのじゃよ」阿笠はもう一度言った。「この絵葉書……哀くんは、それまで滞在していた街を去る間際に、空港から送ってくるんじゃ。だから届くのは時たまじゃし、同じ街から二度送られてきたこともない。次の行先がどこなのかは、このあとの絵葉書が届くまで、ワシには分からん」
「ああ……つまり、もしオレが……」新一は目をすがめて、まだ手に持っていた絵葉書の右下の隅を読んだ。「……シンガポール、に飛んでもそのときにはもう、あいつは次の街にいるってわけか」
「そういうことじゃな」
「なぜ、そんなことを?」
「哀くんは、自分でもどこを目指しておるのか、分かっておらんのじゃ」
「そもそも、なんでどこかを目指さないといけないんだよ?」新一は渋い顔をした。「あいつがいるべき場所は、米花町だろ」
阿笠はしばらくのあいだ、新一の顔を黙ってじっと見つめていたが、やがてなにかを決意したかのような表情になり、説明を始めた。「哀くんとワシは、解毒剤が完成した日の晩に、長い話し合いをした。きみが分かっとるかどうか知らんが、APTX-4869はそれまで、哀くんの全人生を占めておったんじゃよ。物心ついた頃から、あの毒薬の、そしてのちには解毒剤の、開発に取り組んできた。ふたつのプロジェクトのどちらもが、もはや人生の一部ではなくなってしまった時点で、哀くんが突然、目標を失ったように感じただろうことは、想像がつくじゃろう。たとえるなら、新一にとってはこの世から解決すべき殺人事件がなくなってしまうようなものじゃ」
新一は、恐慌に近いまなざしを博士に向けた。解くべき謎が存在しない――しかも永遠に――そんなことになったら、いったいどうやってその後の余暇を過ごせばいいんだろう。
「哀くんは、外の世界に出て、黒の組織にも、そしてAPTX-4869にも縛られない、本来の自分を見つけたいと考えたんじゃ」
「でも、あいつはそんなものに縛られてなんかない」新一は反論した。「過去の一部ではあるさ、でも、未来は自分の手で作っていけばいいんだ」
「そのことに哀くんは、自分で気付く必要があるんじゃ」阿笠は指摘した。
「分かったよ。でもさ、もしそうだとしても、なんでオレになにも言わずに? 挨拶くらいあってもよかっただろ」
「そうじゃな。ふむ、実はのう、ワシもそう思う。実際ワシは、少なくとも新一には伝えていけと言ったんじゃ」博士は言った。「でも哀くんは、新一が出しゃばってきて行かせまいとするのではないかと懸念しておった」
新一はしかめ面になった。そのとおりだったかもしれない。おそらく自分は、ありとあらゆる手段に訴えて、灰原の出立を阻止しようとしただろう。
「それからのう、哀くんには、ワシの口からこういったことを伝えるのは、新一が自発的に尋ねてきた場合のみにするようにとも、約束させられた。なにも訊いてこなかったり、訊いてきたとしても歩美くんや蘭くんに頼まれてのことだったりした場合は、なにも言うな、と」と、阿笠は告白した。「だから、ワシもすまんかったよ、新一。どうやら哀くんは、ワシよりもきみのことをよく分かっておったようじゃな」
「ああ、そうみたいだな」新一は、葉書をもう一度見ながらつぶやいた。「そのうちオレが嗅ぎまわり始めるだろうって、あいつは承知してたんだ」そしてひとしきり沈黙してから、勇気を出して頼んでみた。「なあ、博士宛てに届いた、ほかの葉書も、見ちゃ駄目か? なんかさ、ここ数ヶ月のあいつがどこにいたのか、気になるんだ」
「別にかまわんじゃろ」阿笠は肩をすくめた。「なんとなく哀くんは、そのうち新一の目に触れることを想定しておったような気がするよ」
博士は椅子から立ち上がって、部屋の奥の本棚のところに行った。靴箱くらいの大きさの箱をひとつ棚から取って戻り、新一に手渡す。箱を開けると、中には、さらにひとつかみの絵葉書が入っていた。
「あいつ、そのうち帰ってくるかな?」新一は、葉書をじっと見つめながら、静かに問いかけた。
「帰ってきてほしい」阿笠は本心を漏らした。「しかし、なにも言ってはおらんかった。前回、訊いてみたとき、旅をするのが楽しいとは言っておったから、しばらくは戻って来そうにないのう」
「おい待て、『訊いてみた』ってなんだよ?」新一は博士の言葉を繰り返して、彼の顔をふたたび見上げた。「博士からも連絡を?」
「あ、いや、新一が考えとるようなことじゃない。哀くんは、たまに電話をかけてくるんじゃ。たぶん、暇をもてあましておるようなときにな」阿笠は肩をすくめた。「哀くんがここを離れてから、話をしたのは、二回だけじゃ。二回とも、番号は非通知じゃった」
「あいつが電話してきたとき、オレも出ていいかな?」新一は勢い込んで尋ねた。灰原との会話が懐かしかった。なんの役に立つわけでもない議論で灰原と小競り合いをするのは、新一にはない、コナンの特権だった。まとまっていない思考を、まだ言語化しようと試みることすらしないうちに理解される心地よさも、初めてそれを実感したときには、まだまだ過小評価していたのだ。失いたくなかったと思うものはほんの少しだけれど、これらのことはそのなかに含まれていた。
「哀くんに訊いてみることはできる」阿笠は同意した。
新一は顔を輝かせた。これで、今後の楽しみができた。電話、そしてこれから全部読む、新たに手に入れた数枚の葉書。
阿笠にもらった靴箱に入っていた新たな絵葉書は、十枚だけだったが、新一は自分でも説明できない、ある種の厳粛さをもって、これらのメッセージに固執した。灰原との、最後の物理的なつながりなのだ。だから、博士に宛てて書かれたこれらの便りを、何度も何度も、繰り返し読んだ。ほとんどが個人的な心情には触れない挨拶文だったが、いくぶん哲学的な内容のものも一通あった。すべての葉書は、阿笠が言ったとおり、それぞれ異なった都市から発送されており、それを根拠として新一は、きっと灰原はいつまでも戻ってこないわけではないはずだと信じた。要するに、まだ移動しつづけているということは、ずっと定住したいような場所が見つからないということだ。これまでのところ、灰原が訪ねた場所はすべてアジア圏内だったが、おそらくいずれは、さらに遠くに行くのだろうということは想像に難くなかった。
それから数週間が経つうちに、新一は博士の家で過ごすことが多くなった。阿笠の家に郵便が届く時間は把握していたので、その頃に立ち寄り、阿笠が手紙の束をめくって新たな絵葉書がないかどうか確かめるのを、そわそわと待った。さらには、宿題も阿笠家でやるようになった。その時間帯にかかってきた灰原からの電話を逃すといけないので。
ある日、学校が終わってから立ち寄ると、阿笠が待ち受けていた。
「新一」博士は、気遣うような微笑みを浮かべていた。
「なんか悪いことでもあったのか?」新一は即座に尋ねた。
「あ、いや。そう、悪いことではない」阿笠は説明しようとした。「哀くんが、ついさっき電話してきたんじゃ」
博士が口にするよりも前に、新一にはその続きが分かった。「あいつ、オレとは話したくないってか」博士の代わりに、結論を言った。
阿笠はギョッとした表情になった。「なぜ分かったんじゃ?」
探偵は溜息をついて、博士の向かい側のソファに腰を下した。「あいつがオレと話すことに同意してたら、博士はそんな顔でオレを見ないだろ」と、説明する。「それか、あいつからオレに電話がかかってきててもおかしくない」
一瞬の沈黙のあと、新一はふたたび口を開いた。「たぶん、理由は言わなかったんだろうな」
「哀くんは、自力でなにかを見つけようとしておる。しかしきみは、とても個性が強い」阿笠は仮説を立てた。
「つまり、オレのせいで迷いが生じるって?」新一は、弱々しく微笑んだ。「あいつが聞いたら、うぬぼれないでちょうだい、とか言いそう」
阿笠はクスクス笑った。「まあまあ。新しく届いた絵葉書がキッチンの調理台の上にあるから、見たければ見ていいぞ。ワシは、取り組み中の発明があるから、もう行くよ」
新一はうなずいて、博士が鼻歌とともに地下に降りていくのを見送ったあと、立ち上がって絵葉書を確認しに行った。葉書は、カンボジアのシェムリアップから発送されていた。灰原が旅をした場所のリストに、さらにもうひとつ国が加わったということだ。
《博士へ。もう今後十年はお腹いっぱいというくらいたくさんの寺院を見ました。人の生活における、宗教の役割について考えさせられたわ。ご存知のとおりわたしは信心深い人間ではないけど、テーマとしては興味が湧くわね。博士がいまも元気でいてくれていますように。》
新一は、寂しい笑みを浮かべた。これは新一こそが、灰原と議論(あるいは論争)を繰り広げそうな話題だった。新一があるひとつの立場をとれば、灰原はわざとその反対の立場をとって、ふたりは日が暮れるまで言い合いを続けるのだ。そして、新一がそろそろうんざりし始めた頃になって、灰原は皮肉っぽい笑みとともに、新一の主張のうちのこの点には同意する、ということを述べ、面食らった新一を残して立ち去っていくのだ。
突然、胸があまりにもキリキリと痛んで、新一はカウンターの前の椅子に坐り込まなくてはならなかった。洞察力を誇ってきた人間にしては、いまの新一は、どう考えても愚かだった。灰原の存在がどんなに自分の生活に深く根を下していたかということに、新一はとっくに気付いているべきだったのだ。
そして灰原の不在をどんなに寂しく感じているかを、本人に伝えることすらできないのだということが、このとき初めて、身にしみた。
新一にとって、驚愕するようなことというのは、そんなに多くはなかった。なんと言っても、箱が開けられる前に、その中身を予測するのが、新一の仕事なのだ。しかしながら、灰原が自分の生活のなかでどんな役割を果たしていたかということに思い至った二週間後、彼は思いも寄らぬ事態に驚愕することになった。自分に届いた郵便物を一通ずつ確認していたとき、請求書や広告の狭間に、カモノハシの絵葉書を見つけたのだ。裏面の短いメッセージを読んで、新一は笑顔になりたい気持ちと渋面になりたい気持ちを同時に味わった。
《これを見たら、あなたを思い出したの。ところで、わたしの絵葉書のために博士の家に入り浸るのはやめてよね。》
署名はなかったが、差出人は明らかだった。現在オーストラリアに滞在している(あるいは、この葉書が送られた時点ではオーストラリアに滞在していた)可能性がある知り合いは、たった一人しかいない。またそれだけでなく、短い文章ふたつで新一をいまのような心境にさせてしまう人物も、ただ一人だけだった。まず脳裏に浮かんだのは、新一が阿笠家で過ごす時間が、とりわけ阿笠が普段、手紙を取り込みに行く頃を中心に増えていることを、阿笠がなんらかのかたちで灰原に伝えたのだろうかということだ。しかし、新一の滞在時間が増えていることに阿笠が気付いているかどうかは疑わしい。なにせ、歩けるようになって以来ずっと、新一はあの家の常連なのだ。結論を言えば、灰原は本当に、新一のやりそうなことを把握しきっているのだとしか考えられない。そう思うと笑いたくなった。
次に考えたのは、よりにもよってカモノハシが、いったいなぜ新一を思い出させるのかということだ。葉書に印刷されたカモノハシをにらみつける。うぬぼれと言われるかもしれないが、オレはカモノハシよりはイケてると思うぞ。
とはいえ、これは灰原が、出立以来初めて、新一に直接送ってきたメッセージだった。たとえカモノハシと言われても、気落ちなんかするはずがない。
数日後、オーストラリアから絵葉書がもう一枚、届いた。小さな葉書の紙面のなかで、巨大なエアーズロックが、赤くそびえ立っていた。
《これの実物は、写真とまったく同じように見えたの。変でしょう。普通は、実物を見たら、もっとずっと感慨深いはず。人間が、直接会ったほうがずっと興味深いのと同じくね。あなたには、このことについて別の視点があるかもしれないけど。いつもそうだもの。》
新一は笑った。たしかに、これについては自分なりの視点があるが、返事を出せるわけじゃなし。博士に頼んで、次に電話があったときに伝言してもらうことはできるだろうか。
新一は葉書をほかのと一緒に仕舞おうと、家に持って入った。しかし例の箱を開けたとき、灰原が送ってきた葉書が、かなり溜まっていることに気付いた。脳裏に描く、灰原の旅路も、どんどん長くなってきている。書斎の片側の、なにもない壁をぼうっと見つめながら、新一は灰原の行方を把握しておく、もっといい方法はないだろうかと、とりとめなく考えにふけった。
数分後、新一はなにもない壁の寸法を測って、コンピューターに向かい、その壁に貼り込めるいちばん大きい世界地図を探していた。
これから、部屋の模様替えだ。
クリスマスのちょうど一週間前に受け取った絵葉書は、ペルーのマチュピチュを撮った美しい写真のものだった。謎めいた都市を見ていると、灰原の旅をちょっとだけ羨ましく感じるということは、認めざるを得なかった。この世界には、あまりにも豊かな歴史、あまりにも多彩な謎を秘めた場所が、あまりにもたくさん存在していて、新一はそれらのいくつかを自分の目で見る機会が欲しいと思った。時には、たとえばちょうどその瞬間のように、新一は自分がコナンに戻って、それらのすべての場所を灰原と一緒に訪れ、建造物や文明について講釈しているところを空想するのだった。それから脳裏の映像は、灰原の姿に切り替わる。ちょっと黙ってくれない、ゆっくり景色を楽しませてほしいんだけど、なんて言っている。
目に見えるような気がして、笑いが込み上げた。いまでも灰原の声は、はっきりと思い浮かべることができる。そして、もし本当にふたりで旅をしたとしても、現実はほぼこの空想どおりになるだろうことは疑いようもなかった。
葉書を裏返して、短い文章を読み取る。
《この場所で日が昇るのを見たの。信じられなかった。あんなのを見たのは初めてだった。この世には、決して答えが見つからない、ありとあらゆる類いの謎があるんだと思い知らされた。こんなこと言ったら、あなたは反発するかもしれない。でも、そう思うの。この葉書はたぶんクリスマスの頃に届くわね。メリークリスマス。できれば博士が食べすぎないように注意しててね。》
新一は微笑んで、絵葉書を置こうとしたが、そのとき、葉書の下の部分に、いくつかの点と線が書いてあるのを目に留めた。なんだろうかともっとよく見てみて、すぐにそれがモールス信号だと気付いた。明らかに、三つの文字だ。それぞれのあいだが、斜線で区切られている。最初の一文字は、三つの点で「S」を意味していた。次が「C」、そして最後は「L」。
新一は眉をひそめた。SCL? なにかの頭文字だっただろうか? なぜ灰原は、こんな暗号でなにかを伝えてくるんだろう?
ほかの郵便物を放置したまま、新一は絵葉書を持って考え込みつつ、書斎に入った。郵便で送ってくるということは、緊急の用事ではないはずだ。電話やメールのほうが、ずっとずっと速い。だから、灰原が無事だということはたしかだ。つまり、これは遊び心で送られたものだ。なにかを知らせる、あるいは面白がらせる目的で。事件のことで灰原がなにか情報を握っているというのは考えられない。そして、灰原が返信を求めていないことは明白だ。だって新一は、次の目的地を知らないのだから。灰原は、街を離れるときに空港から葉書を送ってくるだけなのだ。
待て……空港。空港は、三文字のコードで表わされるんだったよな?
わくわくしながら、即座にネットにつないで、その直感の裏をとった。すぐに、SCLとはチリのサンティアゴ国際空港のことだと判明した。灰原の次の行先に違いない! 新一はほとんど飛ぶようにして玄関と門を駆け抜け、道を急いで阿笠の家に突入した。
「博士!」玄関扉を叩きつけるように閉めて呼びかける。
博士はキッチンで自分のおやつを用意しているところだったが、新一が意気込みもあらわにやってきたのを、きょとんと見上げた。
「新一」阿笠は、微笑みながら応じた。「事件になにか進展でもあったかの?」
「いや」新一は否定した。「まあ、近いと言えば近いんだけど、別に事件ってわけじゃないからな」阿笠が知りたそうな顔をしたので、言い足した。「灰原の居場所が、分かったんだ」
「そうかね?」博士は突然、用心深げな声音になった。
「そうさ! 見ろよ!」新一は絵葉書を阿笠の顔の前に突きつけた。「下のところに書いてあるモールス信号はSCL、チリのサンティアゴにある空港だ」
「新一」
青年は、阿笠の声が耳に入らないかのように先を続けた。「ペルー、つまりこの絵葉書が投函された場所とも近い。次の行先はサンティアゴで間違いない」
「新一」
「いますぐネットで航空券を押さえれば、オレたち明日にはサンティアゴに向かって出発できるぜ!」
博士の浮かない表情は、新一の喜びいっぱいの顔とはまったく対称的だった。若き探偵は、阿笠のようすをもう少し注意深く見てみて、そのことに気付いた。
「どうしたんだよ、博士?」
「新一」話し始めた博士の声音は、真剣だった。「ワシは絶対に、哀くんを探すために渡航したりはせんよ。それに、もしワシの忠告に少しでも耳を傾けてくれるなら、きみも行ってはならん」
「なんだって? なんでだよ?」新一は眉をひそめた。「あいつを連れ戻さなきゃ。あいつは、米花町にいるべきなんだ」
「かもしれん」と、博士は認めた。「じゃが、それはワシらが決めることではない。哀くんは、自分がどういう人生を送っていきたいのかを知るために旅立った。哀くんの人生、じゃ。新一のでも、ワシのでもない。目下のところ、哀くんは折に触れてワシに電話をくれるし、新一には葉書を送ってくる。つながりを断ち切ることはできずにいるということじゃ。いまでも、哀くんは自分の人生のなかにワシらの存在を必要としておる。電話のたびにワシは、これからもずっと哀くんはここにいてよいんじゃということを伝えておる。哀くんは、自分が帰りたいと思えばいつでも戻ってきてここで暮らせることを理解しとるよ。ただ実際、まだそう思えるようになっておらんのじゃ。つまり、まだ探しているものが見つかっておらんのじゃ」
「じゃあ、追いかけてほしいんでなかったら、なんで次の行き先なんか教えてくるんだ?」新一は、途方にくれて問いかけた。
「さあのう」と、博士は答えた。「しかしな、哀くんには明らかに戻ってくる意思がないのに、追いかけていって連れ戻したりしたら、どうなると思う?」
新一は暗い顔になった。「灰原のことだ。きっと、オレが目を離すなり、気を取り直してまた出て行くだろうな」渋々ながら、認める。
「そして、二度と連絡してくることはなかろう」阿笠が続けた。「よく言うじゃろ、執着をしすぎるとどうなるか」
「時には、しがみつけばしがみつくほど、ものごとは手からすり抜けていく」新一は、ささやくように言った。
阿笠はうなずいた。「哀くんは戻ってくる。こここそが、哀くんの居場所じゃからな。ただ、それを実感するまでには、時間が必要なんじゃ」
「でも……」新一は言葉を切った。オレは、いま、あいつにここにいてほしい。オレが、あいつを必要としてるんだ。オレはあいつに会いたい。もう一度、絵葉書を見下ろした。「待ち続けるって、嫌なもんだな」と、つぶやく。「蘭に、もっと謝っておかないと」
阿笠はクッと笑った。「ま、少なくとも、解くべき謎は新しく得られたということじゃ」
「そうか?」新一は、長らくの隣人を、驚きとともに見やった。
「哀くんが、自分の次の行先を知らせることにしたのは、なぜじゃと思う?」
「オレは、追いかけてほしがってると思ったんだ」
「そりゃまた、とんでもなく自己中心的なことじゃのう」
新一は博士に向かって顔をしかめて見せ、帰宅しようと席を立った。「そもそも、あいつが電話してくる頻度って、どれくらいなんだよ? 博士までだんだん灰原みたいなこと言うようになってんじゃん」
阿笠は、新一が帰っていく後姿を見ながら、にっこりと笑った。新一のことはとても大事な甥っ子のように溺愛してきたが、成長して、多少の落ち着きを身につけていくようすを目にするのはいいものだった。博士自身もたしかに、哀がいなくて少し寂しくはあったし、自分の娘代わりである哀が帰ってきてくれたなら大喜びするだろう。しかし哀の不在によって、新一が自らの行動や判断を、より注意深く顧みるようになっていることが嬉しかった。これは大人になっていく過程での、貴重な経験だ。
灰原の行方について新しく分かった情報で、なにをすべきかということに思い至るまでには、三日かかった。まずは、最も簡単な疑問から取り組むことにした。なぜ、これは暗号で伝えられなければならなかったのか。論理的な回答としては、灰原は、偶然これがほかの人間の目に触れて、自分の居場所を知られてしまうことを避けたかったのだろう。灰原には、まだこっちに戻ってくる心の準備ができていないという、阿笠の説がこれで補強される。つまり、と新一は結論付けた。灰原の居所は、新一に、新一だけに向けて伝えられたものだ。
では、もし新一によって米花町に連れ戻されたくないのであれば、なぜ知らせようと思った?
灰原が同行してほしがっているという可能性を検討してみたが、電話でしゃべることも拒否しているのに、顔を合わせる気はあるなんて理解不能だ。加えて、新一は灰原と違い学校があって、欠席できないということを、灰原は承知しているはず。次に考えたのは、これはテストなのではないかということだ。新一をからかうために、自分の居場所などを知らせてきて、こちらがどんな行動をとるか試してみるというのは、いかにも灰原らしい。もしかしたら灰原はサンティアゴなんかにはいなくて、新一が電光石火で日本に連れ戻しに行くかどうか、たしかめようとしているのではないか。
ようやく自分にできることを思いついたのは、前回、博士にことづけた灰原への伝言を思い出してからのことだった。阿笠には、灰原からこちらには連絡できるのに、こちらからそれに反応する手段がないなんて不公平だと言ったのだ。
灰原が滞在している街が判明したいまなら、手紙を出せる。
住所は分からなくても、定住先のない人は局留めにした手紙を受け取ることができるということを、新一は知っていた。灰原は、これがこの情報の使い道だと明言したわけじゃない。でもどういうわけだか、かつてふたりが、常に互いの考えを理解し合っていたときのように、これが灰原の意図したことだと分かっていた。
そこで新一は、机の引き出しから無地の便箋を一枚出して、書き始めた。
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灰原へ
お前が先日の葉書で言いたかったのは、こういうことじゃないかと思ってる。合ってるといいんだけど。なあ、おかしいか? 以前なら、お前の伝えたいことを、もっと自信を持って推測できてた。もし次に来る葉書で、この件について馬鹿にするようなことが書かれてなかったら、この手紙はお前に届かなかったということだな。
お前は正しい。たしかにオレは、この世には解けない謎があるという意見には反対だ。でも、自然の美しさって、別に謎じゃないだろ。とりあえず、オレが思うような謎とは違う。年末年始まで博士にダイエットさせるのはお断りだ。そんなのとにかく残酷だ。博士に念押ししたいなら、自分でやれよ。これが届くのはクリスマスが終わってからになりそうだな。楽しく過ごせたのならいいと思う。真夏のクリスマスって、どんな感じだ?
新一
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新一は便箋を折りたたんで、なんの特徴もない封筒に入れた。相手がどんな名前を名乗っているだろうかと考えることすらせず、手紙の宛先は「灰原哀」とした。新一にとっては、いつだって彼女は灰原哀だった。それ以外の彼女の顔を、本当に知ったことはなかった。翌日の早朝、新一は手紙を投函した。灰原の手元に届くだろうかと心配しながら。
新一の推理が報われたのは、約十日後のことだった。
郵便物の中に見つけた絵葉書には、山々を背景にした大都市が印刷されていた。そして右下の隅に、流れるような書体で「Santiago」と書いてあった。
《警視庁の救世主さんが、推理に自信ないですって? サンティアゴの新聞が、謳っているほどグローバルじゃなかったか、あなたが自分で思うほど重要人物じゃなかったかのどちらかね。夏のクリスマスは奇妙な感じだけど、不愉快ではなかったわ。クリスマスには、雪のほうが似合うと思ったけど。砂は厄介、どこにでも入り込むし。》
五つの文のなかでどういうわけか二回も馬鹿にされたという事実にもかかわらず、新一はこれ以上ないというくらい大きな笑顔を浮かべた。この葉書の下部には暗号はなかった。つまり、灰原はまだそこにいる、あるいはしばらく滞在するつもりでいるということだ。
これは、直接会ったり、連れ戻せたりするのには、ほど遠い状況だった。しかし、とっかかりではあった。これからは、博士をあいだに挟まなくても、灰原に言葉を伝えることができるのだ。
年が明けてからの数ヶ月は、入試や高校卒業の準備で埋まっていた。新一の周囲では、生徒たちは勉強したり課外活動の帳尻を合わせたりするのに大忙しだった。みんな自分の将来について、かつてないくらいにストレスを溜めていた。新一はしかし、多忙ではあったが、蘭や園子ほどには不安を感じていない自分に気付いた。蘭は、塾や放課後の補講に参加して、自分がやってきたことを確実にしようとしていた。新一は塾の最初の授業に蘭と一緒に行ってみたが、上級レベルの生物の復習が始まると居眠りしてしまい、その後は、一度も参加しなかった。
新一は怠けているわけではなかった。ただ、直観的に記憶する能力があり、もともと読書家だったことが幸いして、国語や英語の復習に支援を必要としていなかった。また、灰原が博士の家に、大学院レベルの生物学や化学のテキストを置きっぱなしにしていた。誰にも白状したことがなかったが、いつもにも増して灰原の存在を懐かしく思うときなど、新一はこれらに読みふけっていた。おかしなことだが、そうしていると、なぜだか灰原が身近に感じられた。そして灰原がいなくなってからの数ヶ月で、新一はほぼすべての書物を読み終えていた。だから実際のところ、理科系科目でも支援は不要だった。ただひとつ、数学だけは、ほかの科目より少しだけがんばっていたが、正直なところ、黒の組織を追い詰める過程で経験した生死の境をさまようような状況によるストレスのあとでは、ちょっと数学をやるくらい、まったく大したことではなかった。
勉強の合間には、捜査一課の事件捜査に助力したり、本を読んだり、灰原の新しい絵葉書を待ち受けたりして過ごしていた。
バレンタインデーには、蘭が手作りのハート型のチョコレートをくれた。恋人同士でなくなってしまったからには、ほかの友達に渡すものと同じような市販のチョコしかくれないだろうと思っていたので、驚いた。
「えっと……サンキュー」新一は、どう反応すべきか迷って戸惑い気味に言った。
蘭は自分の顔の前で落ち着かなさげに手を振って、どもりながら言った。「べ、別に、こ、告白とかじゃないんだからね!」
「うん?」新一は困惑した。
「ただ……つまり……」蘭はいったん言葉を切って、大きく息を吸い、改めてちゃんと説明しようとした。「なにが言いたいのかっていうと――前のときは、わたしたち、あんまり付き合い始める心の準備ができてなかったよね。学校のこととか、事件のこととかでプレッシャーもあったし。でも、生活に一区切りつくいまなら、もしかしたらって……でも、新一の気持ち次第よ!」
新一は無言で蘭をじっと見つめた。目の前の蘭は、これまでの素晴らしい思い出のなかにいる蘭とまったく変わらなかった。若々しく、溌溂とした、美しい少女。闇の世界とは無縁で、出会う人みんなに光をもたらす存在。もしかしたら前回うまくいかなかったのは、黒の組織を追ううちに、新一が闇に染まりすぎていたからだったのではないか。蘭の言うとおり、事態が前より少し落ち着いたいまなら、新一の状況もよくなっているのではないか。
「オレ……」新一は口を開いた。しかし、なにを言おうとしているのか自分でも確信が持てず、その先を続けることができなかった。いきなり、頭痛がし始めた。
「返事はいますぐじゃなくていいの」と、蘭は慌てて言った。頬を染めて、足元を見下ろしている。
「蘭」声をかけると、彼女は顔を上げた。「ちょっと……時間をくれないかな」
蘭は悲しげな淡い笑みを浮かべた。「もちろんよ。じゃあ、わたし塾に行くね。誰かさんと違って、本気で受験が心配だから」
新一は手を振って、道を歩いて去っていく蘭を見送った。もらったチョコレートに視線を戻す。またしても、頭がズキズキと痛むのが感じられた。身体の向きを変えて、自宅のほうに向かう。
蘭を好きでないというわけではなかった。実際のところ、まったくその反対だ。生まれてから出会ったなかで、蘭は最も魅力的な女性の一人だった。長い、長いあいだ、新一は自分が蘭に恋をしているのだと確信していた。その気持ちは、変わっていない。蘭のことは、とても大切だ。ただしかし、前と比べて、なにかが……違っていた。蘭はそれが、黒の組織のことや、学校に馴染もうとするなかで、新一がストレスを抱えていたせいだと思っているが、新一自身には、そうではないと分かっていた。
解毒剤が手に入ったときには、黒の組織の崩壊から一ヶ月近くも経っていたから、その時点で、ほとんどの後処理は終わっていた。それに、組織を倒すための準備期間と比べれば、終わってからの仕事は、ずっとストレスが少なかった。準備をしていた頃の新一と灰原は、ときおり不眠症に悩まされるせいで、何週間も、ものすごく異常な睡眠パターンに陥っていたものだ。また学校については、まあ、悩みというほどのことはなかったとだけ言っておこう。
家にたどり着くと、新一は郵便受けの中に手を突っ込み、けっこう分厚い手紙の束を取り出した。書斎に入り、ペーパーナイフをつかむ。思ったとおり、手紙の大半は、バレンタインデーにかこつけたファンレターだった。新一はそれらをざっと見て、無造作に脇に退けた。コナンになって以来、ファンレターに対する関心は薄れていた。もらえば嬉しくはあるが、前と同じような情熱はなくなっていた。
ただ、最後の一通は、ふたりの男が恐ろしくいい加減に描かれた絵葉書だった。おそらく(虫眼鏡や往診鞄から判断して)ホームズとワトソンのつもりなのだろうと推測されたが、羽根やスパンコールに覆われた衣装を身に着けている。「Rio de Janeiro loves you!(リオ・デ・ジャネイロはあなたを愛してる!)」という、ギラギラした金色の文字も入っていた。
《これを見たら、絶対にあなたに送らなくちゃって思ったの。どうせ、バレンタインに欲しいのは、こういったものなんでしょう。もしそうじゃなくても、まあ、リオ・デ・ジャネイロには愛されてるわけだし。せいぜい失恋させないようにしてあげて。》
新一はフンと鼻を鳴らした。灰原の皮肉っぽい声が聞こえてくるようだ。そもそも、いったいブラジルのどこで、こんな絵葉書を見つけてきたんだか。ホームズとワトソンと言えば、どう考えてもイギリスだろ。彼は新しい便箋を出して、返事を書いた。
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灰原へ
お前、葉書が届くタイミングを計算してんのかよ? 最新のやつは、ちょうどバレンタイン当日に来たぞ。たしかにホームズとワトソンは好きだけど、バレンタインにもらうなら、もうちょっと実体のあるもののほうがいいかもしれない。言いたくないけど、書物の外では、ふたりともいまいち生気がないから。ところで、いまの時点でもうシャーロック・ホームズのグッズを送ってくるってことは、いずれお前がロンドンまで足を伸ばしたときには、貨物箱が届くと期待すべきか?
じゃあな。
新一
P.S. リオ・デ・ジャネイロを失恋させるのは不可能だ。不合理だろ。都市に感情はないから、オレを愛することもあり得ない。この文章の解釈は、「リオ・デ・ジャネイロにいる誰かがあなたを愛してる」としたほうが筋が通る。なんてな。
-----------------
手紙を封筒に突っ込んで住所を書いた。それから、葉書の滑稽な絵をもう一度見て、微笑んだ。
頭痛は、もうしなかった。
二月の終わり頃、新一は夕食と映画のデートに蘭を誘った。
論理的に言って――と新一は判断した――蘭の主張には筋が通っている。ふたりがまだ互いを大切に思っているのは明白だし、自分は子供の頃から、いつかは蘭と結婚するのだと思って育ってきた。少なくともあと一度くらい、やり直してみもしないなんて、馬鹿げた話だ。たとえ最初にやってみたとき、思ったほどうまく行かなかったという事実があっても。
最初のうちは、前途多難とまでは言わなくても、ぎこちなさがあった。新一はいまだにこれまでとの違いに混乱していたが、蘭は前回からの続きをそのまま始めるつもりでいた。新一は、付き合っていくなかで、より一層、蘭の期待に応えようとがんばった。前よりも蘭の機嫌を気にするようにしたり、自分が行きたいところより蘭が行きたいところを優先したり。警視庁本部で過ごす時間を減らす努力すらした。とても早いうちに、新一は自分があるひとつのパターンに落ち着いていくのを感じた。蘭の気持ちを解読するのがどんどん巧くなり、蘭の期待に応えるためにどんな言動をとればいいのかが正確に分かるようになったので、状況は簡単になっていった。
ただし、数週間が経つうちに、気付いたことがいくつかあった。
ひとつ目は、新一のほうが、蘭よりずっと、ずっと、相手をよく知り、理解しているということ。そう、蘭はやさしく、新一を幸せにするために全力を尽くそうとしてくれる。問題は、新一を幸せにするのが「なに」なのかを、彼女が本当には分かっていないことだ。あるときは、蘭が手の込んだ(しかも美味しい)夕食を作ってくれたのに、新一のほうはいつもの例の気分に嵌ってしまって、ラーメン一杯で済ませて延々とホームズ談義をしていたかったり。あるときは、蘭が高校のサッカーの試合を観に行こうと誘ってくれたのに、新一の本音では、いかにも怪盗キッドが次の獲物にしそうな大きなルビーが出品されているという理由で、美術館の新しい展示を観に行きたかったり。灰原とは、しばしば自然に同じ考えにたどり着いていたことを思うと、もどかしかった。
ふたつ目は、蘭は前よりも幸せそうだったが、新一はそうではないということだった。認めづらいことだったが、いくつかの事柄は、面倒な雑事に近く感じられた。特定の時刻に蘭に電話をするために、新一は携帯に毎日アラームを設定していたし、家に帰って郵便をチェックしたり、次の手紙を書いたり、ミステリ小説の最新刊を読んだりしたくて、デート中に早く時間が進まないかとそわそわし続けていることもあった。
やがて蘭の目にも、最初のときにうまく行かなかったのは、「黒の組織の事件や学校のことによるストレス」のせいだけではないということが、はっきりし始めた。新一の最大限の努力があってさえも、蘭はふたりで出歩いているときに新一が事件や謎をいったん置いておけないことに苛立っていたし、新一のほうは、いちいち蘭にあれこれ説明しまくらなければならないことに苛立っていた。以前なら、新一は自分の知識を才気たっぷりに嬉々としてひけらかしただろう。しかしいまの彼は、相手――相棒と言ってもいい――が、ただ「分かって」くれたらいいのにと思ってしまうのだった。黒の組織について調査をしていくなかで、入り組んだ計画や過剰な情報量に対処し、複雑な状況に直面してきたあとでは、なにも言わずとも理解されることと、その心地よさがありがたいと感じるようになっていた。
大学が始まったことも、事態の改善にはつながらなかった。ふたりとも東京大学に通っていたが、それぞれ専攻は違っており、講義のスケジュールは大きく異なっていた。蘭は、毎日新一の顔を見ることを当たり前に思っていたので、入学後もそれまでどおり会う時間を作りたがった。ところが新一は、スケジュールが前より自由になったため、気が付けばますます事件に関わる時間が増えていた。そして講義と事件と灰原からの次の便りをそわそわと待つことに追われるうちに、ゴールデンウィークまであと少しという時期になり、問題は表面化した。その日、蘭は新一の家までわざわざやってきたのだった。新一が書店に行って帰ってくると、蘭が待ち受けていたのだ。
「よう」新一は挨拶をしながら、郵便を取り込み、門を開いた。
「うん」蘭は微笑んだ。「どこ行ってたの?」
「んー」新一は心ここにあらずといったふうに小声で反応しながら、郵便物の束をめくった。「ちょっと用事」届いていたのは請求書、それからチラシが何枚か、さらに、なにかのプレミアのチケットが同封された母親からの手紙。そして、一枚の絵葉書。
「新一ってば、聞いてるの?」新一の物思いに、蘭の声が割り込んできた。見上げると、蘭のむっとした表情が目に入った。
「そうだった、ごめん――なんだっけ?」
「園子が、ゴールデンウィークに家族で沖縄に行くから一緒に来ないかって誘ってくれたの」蘭は説明した。「鈴木財閥で、新しい系列会社のオープニングセレモニーかなにかがあるらしいよ」
「無理だよ」新一は返答した。「いまやってる事件が――」
蘭は両手を振り上げた。「いつもいつも、事件って」腹立たしげに言う。「たまには事件のことは忘れて、わたしのために時間を割いてくれたっていいんじゃないの!?」
「そうしてるよ!」新一は反論した。「オメー、自分が気付いてねえからって――」
「あら、わたしが気付いてないんだとしたら」蘭は言葉をかぶせた。「それって、あんまり意味ないよね!」
「ああもう!」新一は怒鳴り返した。「なんで、普通に『分かって』くれねえんだよ、灰原みたいにさ!」
新一が感情を暴発させると、長い沈黙が降りた。それから蘭が、小さな声で尋ねた。「灰原って、哀ちゃんのこと?」
新一は溜息をついた。「うん」
「あの子もコナンくんと同じなのね。違う?」蘭はささやいた。「見た目より、大人なんでしょ」
「オレたちと同世代だ」新一は認めた。
さらにもう一度、長い沈黙があった。それから、蘭は言葉を続けた。「新一、そもそもわたしのこと、いまでも好き?」
新一は額に手を当てた。ここ最近、蘭との関係を解読しようとするたびに生じる、いつものあの頭痛だ。「好きだと思うよ」彼は本心から言った。「ただ、前のときオメーが言ったとおりだったかもしれないとも思うんだ。オレたち、友達同士でいたほうがうまくいくんじゃないかって。昔とは、なにかが変わっちまってる。蘭のことはいまでも好きだけど、昔と同じように好きというのとは違うのかも」
蘭は手を伸ばして新一の肩に触れ、視線を合わせた。そして、静かに問いかけた。「哀ちゃんが、好きなの?」
新一は目を丸くして蘭をまじまじと見た。まさか。オレが灰原哀を、あの皮肉屋の科学者、言い合いばかりしている相手を、好きだなんて、あり得ない。突然、脳裏にいくつもの記憶の断片がひらめいた。新一の気持ちや言いたいこと、やりたいことを、まだなにも言動に出していないのに、灰原が理解していたこと。事件捜査の際、いちいち指示を出さずとも、灰原がサポートしてくれたこと。新一がまたひとつ謎を解いたと悟ったときの、彼女の微笑み。こちらをからかってくるときの、瞳に宿る輝き。コナンだったとき灰原に自分の眼鏡をかけさせて励ましたことも、ハイジャックされたバスで自分の命を危険にさらして灰原を救ったことも思い出した。灰原があの電車に乗って立ち去ってしまったと誤解したときに、身体を突き抜けた喪失感も。その喪失感は、彼女が本当になにも言わずにいなくなってしまったのだと気付いたときにも襲ってきた。今年で十九歳になる新一は、十七歳だったときと比べて、あまりにも多くのものによって形作られていた。そこまでの困難に満ちた過程において、灰原はずっと彼とともにあった。彼の好敵手として、友人として、そして相棒として。
そのとき突如として、頭痛が薄れ始めた。新一は、なにが変わってしまったのかを悟ったのだ。彼自身。新一は十七歳の頃とは、別の人間になっていた。だからこそ、蘭との関係も変わってしまったのだ。この二年間で新一が成長し、大きく変化した一方で、蘭はこれまでと同じだった。自分と同じ経験を他人にさせたいとは思わない。しかし、たとえ自分をもっとよく理解してもらいたいからと、相手に同じ経験をさせようとしたって、そもそも無理なのだ。
「わ……からない」新一はようやく蘭の問いに答えた。蘭の目を見て、続ける。「灰原は、オレがあんまり得意じゃないことをやってのけるやつなんだ。警戒を忘れなかったり、支援を呼んだり、行動に移す前に熟考したり。ほかのみんながオレのことをすごいって褒めてくれるときも、あいつは反論してきたり、からかってきたり、舞い上がらないように水を差したりする。だいたいいつも言い負かされるからムカつくんだけど、でもあいつは……コナンと新一のどっちも知ってて、どっちも受け入れてる。オレはあいつの前なら、意図的にそうするんじゃないかぎり、嘘をついたり、弁解したり、自分を正当化したりせずにすむ。いまでも、最後に会ったときに、あいつがどんなふうだったかを思い浮かべられる。もう一年近く経つのに。あと、オレの頭の中の声が、あいつの声そっくりなんだ」
蘭の微笑みには、寂しさがにじんでいた。「新一の頭の中の声が、わたしそっくりだったことは、ある?」
「へ? 蘭とオレは、オレが頭の中の声とするみたいな言い争いはしたことないだろ」新一は、少しばかり困惑したふうに返答した。「……って、オレわけ分かんないこと言ってるよな」
蘭は声をたてて笑った。新一の知らないなにかを理解したかのように。「で、その哀ちゃんは、いまどこにいるの?」
新一はうつむいて手に持った郵便物の束をめくり、さっきの葉書をふたたび見つけ出した。パイプを吸っている男性の絵が描かれており、隅のところに「221B Baker Street」という文字があった。新一はニカッと笑って顔を上げ、蘭を見た。
「ロンドン」と、答えてから、葉書を裏返し、短い通信文を読む。
《貨物箱は届きません》
というのが全文だった。しかし新一はプッと吹き出した。
新一の顔に浮かんだ喜びの表情を目にして、蘭はいきなり、状況を受け入れたようだった。もうずっと、彼がこんなふうに笑うのを、見ていなかったのだ。蘭は一歩前に出て、友情を込めて新一を抱きしめた。少々の驚きとともに、新一は抱き返した。
「グッドラック、新一。これからも、たまには会いたいな」
新一は、蘭が門を押し開けて出て行くのを見送った。自分のあずかり知らぬところで、なにかが解決したような気がした。でも、蘭は怒っているようには見えなかったし、それはいいことだ、と思っておこう。怒り狂った空手チャンピオンなんて、絶対に不吉なんだから。
書斎に入って、壁に貼った世界地図を眺めた。絵葉書が投函された都市を示す、色とりどりのピンがその上に点在している。なにかが足りないと感じた。この地図は新一のものだけれど、同じくらい灰原のものでもあるはずだ。これらの場所を訪れたのは灰原なんだから。なのに、灰原の声が反映されていないように思えた。新一の視線は、手にした絵葉書から、机の上に置いた絵葉書入れの箱に移った。
アイディアがひらめいた。机のところに行って、ふたつのピンと、紐を一本、取り出す。片方のピンを、地図の上のロンドンのところに刺し、もう片方で「ベーカー街221B」の絵葉書を留めつける。それから、ふたつの画鋲を紐でつないだ。うしろに下がって、出来栄えを確認。前よりも色づいて見えた。箱の中の絵葉書をぜんぶ同じようにしたら、書斎の壁は灰原の旅日記みたいになるだろう。絵葉書はたくさんあるし、手間はかかるが、灰原と精神的に同行している気分を味わえるなら、やる価値はある。とりあえず、もうゴールデンウィークに入るので、時間はある。灰原の、暇をもてあましてるのね、と嘲笑し馬鹿にしてくる声が聞こえる気がした。そのくせ、あいつは目の奥が嬉しさできらめくのを隠すことはできないんだ。
絵葉書を全体の三分の一ほど処理しおえたときだった。何度読んだか分からないくらいになった文面をまた読み返して、思い出にひたっていると、あるひとつの考えが浮かんできた。
これは、友人だと思っている相手のためにする行動としては、普通じゃない。
やべえ。オレ、灰原が好きだ。
新一は、ゴールデンウィークのほとんどを、捜査一課とともに、とある事件に取り組みながら過ごした。事件ファイルに目を通していないときには、自覚したばかりの気持ちにどう対処したものかと頭を悩ませていた。
いまの新一には、彼女を追いかけていって連れ戻すに足る、これ以上ないほどの理由がある。また、シャーロック・ホームズの愛読者である新一がロンドンに現れたとしても、さほど不自然には思われないだろう。しかしながら、まだ大いなる疑問が残っていた。新一は哀(頭の中で灰原ではなく哀と呼ぶのがこんなにも自然に感じられるようになったのが不思議だった)に恋愛感情を抱いているとしても、哀のほうが同じ気持ちかどうかは分からない。恋心を告白した自分を、茶髪の少女が、このひと東京とロンドンのあいだのどこかに正気を落としてきたんじゃないの、という目で見つめてくるのを、新一はまざまざと思い描くことができた。
ゴールデンウィークが終わる前日に、新一は阿笠の家を訪ねた。博士は、哀が出て行く前に彼女から教わった、なにかのパスタ料理を作っているところだった。
「博士」年配の相手がカウンターの前に座るのを見ながら、話しかけた。「博士はオレに、灰原を追いかけるなって言ったよな?」
博士はソースとパスタを混ぜ合わせる手を止めた。「そして新一は、追いかけないことにしようと判断したんじゃろ?」
「うん、でもさ……状況が変わったんだ」
「どう変わったというんじゃ?」
「オレ……あのときよりもっとあいつに会いたい理由ができたんだ」新一はあいまいに言った。少女科学者本人より前に阿笠博士に気持ちを打ち明けるのは間違っているように感じたのだ。
阿笠は考え込みながら、パスタを混ぜ合わせるのを再開した。しばらく沈黙したのち、彼は新一が口に出さずにいた質問に答えた。「新一にとっては、状況は変わったかもしれん。しかし、哀くんにとっては、そうではない。もし変わっておったなら、とっくに戻ってきておるじゃろう。きみの言う新たな理由とは、果たしてそのあと二度と哀くんから連絡が来なくなってしまうという危険を冒すほどのものか、それを考えるべきじゃ」
新一は渋い表情になった。
阿笠はパスタをふたつのボウルに分けてよそって、片方を新一に差し出した。それから自分のボウルを持ってカウンター前の新一の横の席についた。「新一」と、口を開く。「ワシも哀くんがいないのは寂しい。しかしな、毎朝、あの子はまだここにいるじゃろうか、それとも夜のうちに荷物をまとめて出て行ってしまったじゃろうかと、怯えながら目を覚ますのも嫌なんじゃ。哀くんが自分で、ここを居場所と定めるのでないかぎり、安心できん」
新一は溜息をついた。阿笠が言わんとするところは理解できる。本当に。ただ、理解できるからといって、受け入れるのが容易になるわけではなかった。「なあ、博士。あいつがオレのことをどう思ってるか、聞いたことある?」代わりに、話題を変えて尋ねてみた。
「偉そう、知ったかぶり、無責任その他いろいろの悪口以外で?」阿笠は冗談めかして言った。
「それ、本当にそう思ってたかな?」
「そうじゃの、ワシは、哀くんがああいうことを言っておったのは、本心を隠すためだったのではないかと考えておる」博士は認めた。「きみは黒の組織を追っていたあいだ、かなり無茶をしておった。哀くんは、ワシらの前で見せていたよりもずっと、気にかけておった、新一を心配しておったと思うよ。いつも怒ったり苛立ったりして見せるほうが、やりやすかっただけで」
「いまでも、オレのこと気にかけてるかな?」
「気にかけておらんかったら、新一に手紙を書いたりせんじゃろ」と、阿笠は指摘した。「なにか困ったことでも? なんでまた、いきなり哀くんが自分をどう思っているかなどということを気にしとる? とっくの昔に分かっとると思っておった。哀くんのほうは、どう見てもきみのことをとてもよく理解しておるからの」
新一は黙ったまま、パスタの山にフォークを突き刺した。そう、たしかに哀はとてつもなく新一のことをよく分かっていた。新一の思考や行動のほとんどを正確に予測することができた。つまり、彼女はこちらにいた頃、新一をかなりしっかりと観察していたに違いない。楽観的な部分では、新一は哀が自分に対して多少は好意を抱いていたのではないかと思うことができた。そうでなければ、それほどの注意を払いはしなかっただろうから。しかしそれでも、新一の悲観的な部分は、それはAPTX-4869の影響について記録を取るためだったのかもしれないと反論してくるのだった。でもじゃあ、いまになってもかまってくるのはなぜだ?
「あいつ、ちょっとくらいはオレのこと好きだったんじゃないかな」新一は声に出して言った。
阿笠は、きょとんとして新一の顔を見た。「そりゃそうじゃろ?」
新一は博士に向かって微笑んだ。互いの意味するところが、厳密には、ずれていることは明白だったが、それでよかった。「気にしないで」と話を終わらせる。「そうだ、新しい発明の話、しばらく聞いてなかったよな」
阿笠は嬉しそうににんまりとして、自分の最新のアイディアについての独演状態に突入した。新一は晩ご飯の続きを食べながら耳を傾けた。いまのところは、哀がここにいなくても大丈夫だ。こんなに遠くに離れていても、哀は新一を自分の人生から閉め出すことはできずにいる。これは、よい兆候に違いなかった。博士を話し相手にして、ふたりで哀が帰ってくるのを待っていればいいんだ。遅かれ早かれ、哀は自分の居場所は米花町だと気付いて、新一のもとに戻ってくるだろう。そしてそのときには、全力を尽くして、このままここに留まるよう説得しよう。
夏休みに入る一日前、家に帰ると工藤邸の門のところで服部平次が待ちかまえていた。西の名探偵は野球帽を頭に載せ、歯が覗く笑顔で、のほほんと門に寄りかかっていた。
「よっ、工藤!」新一が角を曲がって自宅前の道に入るなり、声をかけてくる。
「服部!」新一は応じた。「なんでまた東京へ?」
色黒の青年は、二件の殺人を予言した、とある噂に名高い霊能者に関する事件調査について語りはじめた。その霊能者が現在、東京郊外に住んでいるのだという。新一は半ば聞き流しながら門を開き、郵便受けを確認した。
いつもの請求書や広告の狭間に絵葉書が混じっているのに気付き、微笑みを浮かべる。今回のは、白いテラスと、その手前にどこまでも広がる青い海の写真だった。写真からは美しさと平穏、そして静謐さが感じられた。裏返すと、いまとなっては見慣れた筆跡が目に飛び込んできた。
《サントリーニはわたしにとって、世界中でも特に好きなところのひとつになったかも。なんだかすごく落ち着くの。この世界がなにもかも許してくれそうに思える。工藤くんは、そういう場所に行ったことってある?》
新一は、これまでの人生で訪れたことのあるすべての場所の記憶をたどろうとした。日本にも、静かで印象深く感じた場所があるのはたしかだ。けれども哀の言葉が意味しているのは、単に美しい場所という以上のなにかなのだろうと思えた。
「もしもーし、工藤!」服部のムッとした声が割り込んできて、新一の熟考は中断された。
顔を上げると、友人がしかめ面でこちらを見ていた。「あー、悪い。考え事してた。いまなんて言った?」
「もうええわ」服部はそう言うと、新一の手から絵葉書をもぎ取った。「なに見とったんや?」
「おい! 返せよ!」
新一は絵葉書を取り返そうと手を伸ばしたが、長年の剣道の修行に助けられ、服部はあっさりとそれをかわした。
「サントリーニ?」服部は問いかけてきた。その一瞬、相手の動きが止まり、新一は絵葉書を奪い返すことができた。「お前、ギリシャに知り合いなんかおったっけ?」
新一は溜息をついた。「灰原だよ」渋々と答える。
「あのちっさい姉ちゃんか? そういや、なんや両親が『連れ戻しにきた』らしい、みたいなこと、和葉が言うとったわ」服部は思い返しながら、連れ戻しにきた、の部分を強調して言った。新一も服部も、それが真実でないことを知っていたからだ。「どこへ引っ越して行ったんやろかと思てたわ」
「引っ越ししたわけじゃないんだ。まあ、厳密に言えばな」新一は、哀の新生活がどうなっているのかを、どんなふうに説明したものかと迷って眉間にしわを寄せた。
「ほな、バカンスってやつか?」服部は困惑した表情になって先を促した。
新一は首を横に振った。手振りでついて来いと合図し、図書室の横の小さな書斎に友人を招き入れる。服部は即座に、壁に貼られた巨大な世界地図に気付き、その各所に刺さったピンの数を見て、小さく口笛を吹いた。新一は机の上から新たなピンを取った。服部はもう一人の青年が高いところに手を届かせるために脚立を使い、ギリシャの島々のひとつにピンを留めるのを見守った。絵葉書も同じようにピン留めされ、地図内に広がる無数のほかの絵葉書たちの仲間入りをした。
少しのあいだ、ふたりとも黙ったままだった。それから、服部が口を開いた。「姉ちゃん、えらいいろんなとこへ行っとんやなあ」
新一はうなずいた。
「行く先々から葉書を送ってくるんか?」
「そういうわけじゃないと思う」新一は不本意ながら言った。「絶対、時々はぜんぜん知られてないような町に滞在してると思う」
「そやけど、お前は姉ちゃんの行き先を追跡しとるんか」
「まあな。特になにか目的があってのことじゃないんだけどさ」新一は説明を試みた。「どこにいるのか把握しておきたいだけなんだと思う。探偵の本能ってやつだよ」
「電話して訊いたらええやん?」
新一は首を振った。「手がかりなしだ。博士には電話があるらしいけど、オレが出るのは駄目だってさ。オレとはあんまり話したくないんじゃないかな」
「そやのに、葉書は送ってくるんか?」
新一はうなずいた。
「そらまた……けったいやな」
新一は声を出して笑った。「哀がおかしなやつじゃなかったことなんてないだろ」
服部は、新一がうっかりと漏らした呼び名に、片眉を上げた。考え込みながら、数え切れないほどのピンが刺さった地図と、それぞれの都市に丁寧に留めつけられたすべての絵葉書をもう一度見た。新一は地図を眺めながら微笑んでいたが、ただ会話をしていただけなのに、彼のまなざしにはどことなく哀しげなところがあった。
「お前、姉ちゃんに惚れとるんか」服部は結論を口に出した。
新一はギョッとして目を丸くし、色黒の友人のほうに向き直った。「なんで……?」
「ったく、しっかりせんかい」服部はせせら笑った。「この部屋におる探偵はお前だけとちゃうで。こんなでっかい世界地図で、姉ちゃんの行った場所、いちいち記録してからに。向こうは話もしとうないっちゅうてんのに。絵葉書かて一枚一枚こないに飾って、アタリの宝くじかっちゅうねん。ただの友達相手に、こんなんせえへんわ。和葉のとこかて、よう旅行中の友達から絵葉書が届きよるけど、どうせ三日もしたら箪笥の奥のどっかにしまい込まれとるわ」
新一は溜息をついた。「オメーのこと、鈍感野郎だと見くびってたよ」
「おい! なんやねんそれ?」
「なんかとにかくさ、誰にもバレないと思ってたんだ」新一は正直に答えた。
「この地図、誰かほかのやつにも見せたか?」
「いや」
「見せてみい。バレバレやと思うで」
「コナンになってた件から説明しなくちゃいけなくなるじゃん」新一は指摘した。「じゃないと、ロリコン扱いだ」
服部はニカッと笑って友人の肩に腕を回した。「ほんで、姉ちゃんはどない言うてんの?」
新一は首を振った。「あいつは知らないんだ」と白状する。
「言うてへんのか?」服部は眉をひそめた。
「なんて言えばいいんだよ?『オメーが好きなんだ、そろそろ帰ってきてくれよ』ってか? 次に来る葉書には『ふふっ、おかしな冗談ね、工藤くん』とか書いてあるに決まってる」新一は予想してみせた。「阿笠博士の言うとおりなんだ。あいつが自分で戻ってきたいと思わないと駄目だ。世界中を回ってあれだけたくさんの美しい場所を見てそこで過ごしても、自分がいるべきなのは米花町なんだって、自分で気付かないといけないんだ。たとえそれが、ほかのみんなにはとっくに分かってることでも」
束の間、服部は友人の大人びたようすに驚嘆していた。新一と灰原のあいだの関係は、以前の蘭との関係とは著しく違っていた。二年近く前、出会った頃の工藤は、コナンの姿であってさえも、必死で蘭にしがみついていた。できうるかぎり蘭のそばにいようとするさまは、まるで手を放せばあっという間に失ってしまうと恐れているかのようだった。いま目の前に立つ工藤は、想いを寄せる女性を、好きなだけ放浪させている。手を放すのを拒否することは愛情ではないと理解し、相手がいつか自分の意思で戻ってくると信じているからだ。
「なあ」服部は静かに言った。「姉ちゃんも、お前のこと好いとると思うで」
「そうかな?」新一は期待を込めて友人の顔を見た。
服部は手振りで、壁に展示された絵葉書のほうを示した。「悪うとらんとってな、工藤。そやけどオレ、お前のこといくら親友や思てても、もしこうやって世界旅行してたとして、わざわざこんなアホみたいにぎょうさん葉書送ってきたり、ようせんわ」
「かもな」新一は物思いに沈み込んだような表情のまま、薄く微笑んできた。
服部も笑い返した。ちっさい姉ちゃん、はよ帰ってきて、こいつのこんな寂しそうな表情ちょっと消したってくれたらええのに。でもとりあえず、いまは……。
「それはそうとな、工藤。さっきオレが言うてた、心霊殺人事件の話やけど……」
服部と一緒に連続心霊殺人事件を解決した一週間後、新一のところに新たな絵葉書が届いた。今回は、意外性のないアテネのアクロポリスの写真だった。もともと哀はギリシャ国内を観て回るつもりなのではないかと思っていたのだ。頭の片隅で、彼女が古代文明に関心を寄せていたことを記憶していた。
《この場所は好きよ。なにもかもに物語があって、よかれ悪しかれ、なんらかの意図が感じられる。もしわたしがひとつの物語だったとしたら、どんなふうに受け止められるのかしらね。》
手紙の左下の部分には長い数列が、右下にはそれよりずっと短い数列が書かれていた。新一はニヤリとして机の上からノートを取り、白紙のページを開いた。左側の数列をざっと書き写し、頭の中で数字を移動させながら熟考に入る。二十分後には暗号の鍵を解読して、右側の短い文字列に当てはめていた。答えは、CTA。コンピューターに向かってまもなく、次の手紙の送り先が判明した。CTAは、シチリアのカターニア・フォンタナロッサ空港だ。
新しい便箋を取り出して、書き始めた。
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世界有数の面白い物語になると思うよ。悲劇的な子供時代、造反、自由への道、そしてやがて逆境に打ち勝ち、自分自身ですら思いも寄らなかったような、どんな者にだってなれるんだ。まるで製作途中のハリウッド映画じゃないか。
灰原、お前は、自分がなりたいと思うとおりの人間なんだ(そうなることができるんだ)。人はみんな、自分自身で道を切り開く。時には少し、周囲の手を借りながら。お前が、自分がどうなりたいのか分かったら、教えてほしいと思ってる。
ところで、ギリシャはどうだった? アクロポリスに行ったのは驚かなかったけど、お前が太陽の下でくつろぐタイプだとは思ったことない。シチリアなんかに行ったらキレそう。あっちはのんびりした土地柄だと聞いてるから。
ちょっと前に、服部とふたりで事件を解決した。心霊殺人――オレたちが話し合いをしてるところにお前がいたら、鼻で嗤っただろうな。
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新一は手を止めた。せめて、哀がいなくて寂しいということくらいは伝えたかったが、あいつのことだ。そんなことを書いたら馬鹿にされそうな気がする。好きだと伝えたい気持ちもあった。でも、なにかが違うように思えた。それに、きっと冗談にとられてしまうと服部に言ったのも、嘘ではなかった。溜息をつきながら、次の行き先として提示された暗号に目を落とす。
微笑んで、新一は机の前から立ち上がった。いきなりの動きで、椅子が倒れた。図書室に急ぎ、父親の暗合作成術に関する蔵書を見て回る。独自の暗号文を作る参考にしたかったのだ。
三十分後、いくらかの作業の末、真っ白だった紙を埋め尽くす走り書きを見下ろして、新一はにんまりとした。暗号作成は、意外と骨が折れるものだ。次に怪盗キッドに出くわしたときには、これまで出会った誰よりも高い創造性がお前にあることは認めると、あのいかれたコソ泥に伝えるだけの時間は足を止めてやろう。
暗号化した「I love you」を、手紙のいちばん下に書き入れる。手間隙かけたことが分かるメッセージなら、哀もまともに受け止めるかもしれない。イタリアのカターニアで局留めになるよう宛先を書いて封をし、明日は郵便局に行くのを忘れないようにしないと、と思った。
次に送られてきた絵葉書数枚はみんなイタリア西海岸からのもので、新一は思わず声に出して笑いそうになった。どういうわけだか、すべて同じ日に届いており、それぞれアマルフィ海岸、フィレンツェ、ローマのコロセウムの写真だった。パラパラとめくってみると、アマルフィ海岸のとフィレンツェのが同日に投函されており、コロセウムのもわずか一日後の発送になっているのが分かった。順番を直してから、読み始める。
《きっといま、あなたは笑いながら「ほら言ったとおりだ」って思っているでしょうね。シチリアには、あまり長居はしなかった。浜辺は素敵だったけど、ギリシャ(ちなみに美しいところだった)で浜辺は堪能してしまったの。歴史には価値があると思うわ。説明しがたいようなことをする人が多かったという点に目をつむればね。》
《アマルフィ海岸は素晴らしいところよ。いまでも、行く先々の美しさに驚いてしまうことがあるわ。同じようなところはふたつとなくて、びっくりするようなものをすでにたくさん見てきているのに、やっぱり息を呑んでしまう。ある意味、あなたに似てる。あなたにはできないだろうと思うことがあっても、毎回、予想が裏切られるから。ルービック・キューブみたい。あなたのことを理解したつもりでいても、毎回、分かってなかったって思う。》
新一は手を止めて二枚目の葉書をもう一度読み、首を振った。「ルービック・キューブはオレじゃねえよ、哀」と、つぶやく。「オメーだ。ほかの誰よりもオメーのことを分かっているつもりだけど、それでもすべての面が見えてこない」
それから最後の絵葉書に進んだ。
《また書き忘れちゃった。あなたの暗号は解けてない。暗号解読が得意だったことは一度もないのよ。まあ、大事な話なら博士経由で言ってくれたらいいわ。》
「いや、無理だし」新一は最後の一行をにらみつけながら、手にした葉書に向かって言った。「オメーが好きだなんて、博士に伝言させられるわけねえだろ、ヤな女だな」
葉書の下のほうには、小さな棒人間の絵が描いてあった。新一にはすぐに、それがシャーロック・ホームズに出てきた踊る人形の暗号だと分かった。数秒で「BCN」という答えを割り出し、インターネットで即座に検索して、それがスペインのバルセロナ国際空港を表すコードであると調べあげた。便箋を引き寄せて、書き始める。
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哀
お前は自分を過小評価してる。お前は、自分で思うよりもオレを理解してるんだ。そうじゃなきゃ、いまこうやって手紙のやりとりだってできてない。
イタリアはどんなところか教えてくれよ。ずっとずっと小さい頃、母さんに一度、連れて行かれたきりだ。魅了されたという記憶はあるんだけど、いま思い返せば、ガキっぽい熱狂に過ぎなかったかも。イタリアでは、なにがいちばんよかった?
それから、暗号の答えを博士から言ってもらうなんてズルだろ。お前なら解けるって信じてる。
じゃあな
新一
-----------------
新一は、自分の名前の下に、例の暗号をもう一度書いた。哀に暗号を思い出させる必要があるからというより、自分が、哀を好きだと言いたかったから。封をしてバルセロナの住所を記入した。
手紙のなかで、「哀」と下の名前を呼んでしまったことには、まったく気づかないままだった。
そのときには分かっていなかったのだが、新一は本人から実際に知らされる前に、新聞で哀の動向を知る羽目になった。最後に届いていたのはエジプトのピラミッドの絵葉書だったので、哀の旅路が南下してアフリカ大陸に入っていることは把握していた。ある土曜日の朝、阿笠家のキッチンで座って新聞を読んでいると、問題の記事が目に留まった。
《ケニアに天使のごとき救世主出現の噂》という見出しだった。
少々の戸惑いとともに、新一はケニアのとある村についてのその記事を読んだ。村長の談話によると、一人の女性が訪ねてきて、村人、とりわけ子供たちの病気を無料で診てくれたそうだ。村人たちの説明では、彼女は美しく、助けた患者たちから受け取った報酬はといえば、野生動物に関する質問への答えのみだったらしい。女性は数日後に村を去ったが、残された村人たちは彼女のことを天から遣わされた救世主と信じているという。
新一は、この一部始終を、ちょっとばかり馬鹿げたものと感じた。超自然現象にはいささか疑問を持っていたからだ。しかしまあ、その他の重苦しいニュースと比べれば、気持ちのいい素敵な話ではあるだろう。
ただ、このいわゆる救世主の話題は、これだけでは終わらなかった。その後の数週間で、タンザニアの町々でも同じような事例、つまり高度な医療知識のある女性が一時的に滞在して住民、特に子供たちの医学的状態について助けの手を差し伸べたという話が報告されたのだ。それからウガンダ、そしてルワンダでも、同じような報道が出た。
その時点で、新一のところには一ヶ月近くも絵葉書が届いていなかった。
夏休みが半ば終わったあたりで、蘭と園子に会って近況を報告しあっていたとき、園子がマスメディアで最近話題のこの件に言及した。
「本当でも嘘でもいい、天使だって信じていたいな」蘭が微笑みながら言った。「素敵なニュース報道ってすごく少ないでしょ」
「でも捉えどころのない人物であることはたしかよね」園子が、目を細めて自分のアイスクリームを見つめながら応えた。「誰も写真を撮ったり正確に描写したりできてないんだもの」
「園子、ブロンドの髪って言ってなかったっけ?」と、蘭が尋ねた。
そこで新一も話の内容に注意を引かれた。「へえ、ブロンド?」
「言いようによってはね」と、園子が補足した。「わたしが読んだ雑誌によると、村人の説明はみんなちょっとずつ違ってるんだって。金髪だという人もいれば、茶色っぽい赤毛だったという人もいるし、色が混ざってたという人もいて。とにかくはっきりしないのよね」
金髪に、茶色っぽい赤毛?
「もしかして赤みがかった茶髪ってことはないかな?」と、新一。
園子は考え込んだ。「だよね、報道されてる説明をぜんぶ合わせると、赤みがかった茶髪っていうのも、わりといい線いってるかも」
新一は、自分を引っ叩きたい気分だった。オレはなんて馬鹿だったんだろう。アフリカ界隈を放浪している高度な医療知識を持つ女性で、野生動物に興味があり、各地への滞在を短期間に留めて絶対に自分の姿をカメラにとらえさせない。しかもたったいま、赤みがかった茶髪だと判明した。そんなやつほかにいるか?
その日、家に帰ると、郵便受けには何枚もの絵葉書が入っていた。まるでアフリカ大陸が、過去一ヶ月間の絵葉書はまとめて送り出そうと決めていたかのようだ。いそいそと確認していく。思ったとおり、謎の救世主がニュースになっていたのと同じ場所から送られていた。いちばん新しいものを読んでみる。
《こんなの完全に予想外だった。実際に持っている医療用品はとてもわずかだし、わたしは実践の経験もほとんどないのに、これまで本当に簡単に思っていたような、たとえば傷に包帯を巻いてあげたりといったことをするだけで、みんなすごくありがたがってくれるの。いままで信じていたことを、すべて考え直さずにはいられなかった。工藤くん、わたし、こんなふうにみんなの役に立ちながら生きていきたいかも。次の手紙は、南アフリカのヨハネスブルクに送ってくれる?》
新一は突然、引き裂かれるような気持ちになった。哀が人生の目的を見出したのは嬉しいが、一方で彼女がもう二度と帰ってこないのではないかと考えるとひどく落ち込んだ。もし哀がアフリカに留まりたいと言い出したら、どうすればいいのか分からなかった。
「落ち着け」新一は荒くなりかけた呼吸を抑えようとしつつ、小声で自分に言い聞かせた。あいつがあっちで暮らすようになったとしても、オレが会いに行けばいいんだ。顔を見せるなり逃げ出されることはないという前提でだけど。そもそも、どうやら哀は、いまも移動を続けている。まだ住み着く村を決めたりはしていないということじゃないか。
新一が書いた暗号の解読を、哀は諦めてしまっただろうか。
もしかして、あれが解けたら哀は、アフリカに留まるという考えを変えてくれるのではないかと、新一は希望をつないだ。
蓋を開けてみれば、さほど心配することもなかった。哀は実際に、その後も移動し続けていた。マダガスカル、セイシェル、モルディブ、インドなどから絵葉書が送られてきた。返事を書くたびに、新一は末尾に例の暗号によるメッセージを付け足した。そしてそのたびに、哀はもう解読を諦めてしまっただろうかと思うのだった。いや、もしかしたら、哀はすでにあれを解いてしまっているのだけれど、自分のほうは新一に対して恋愛感情がないということを、どんなふうに伝えたものかと迷っているのかもしれなかった。
秋も半ばに入り、肌寒くなり始めたばかりの頃、香港から葉書が届いた。いつもなら哲学的な内容だったり、新一をからかうような内容だったりするのに、今回のものには、暗号が書かれているだけだった。
たっぷり三分かけて、新一はそれを解いた。解読すると、「NRT」となった。
この空港なら、調べなくたって分かる。
NRTとは、成田国際空港だった。
哀は、東京に戻ってくるつもりなのだ。
暗号を解読した数分後には、新一は航空各社に電話をかけ、自分の名前とコネを駆使して香港から東京へのフライトの乗客者名簿を手に入れていた。哀がいつ飛行機に乗るのかは不明なので、数日後までのリストに目を通して、哀の名前を探した。「灰原哀」という名前は、どこにもなかった。
新一は眉をひそめた。すでに帰国しているということはないだろう。だとしたら阿笠から連絡があったはずだ。別の名前を使っているかもしれない。「志保」や「シェリー」を探してみたが、やはり見つからなかった。必死に走らせていた目がようやく留まったのは、翌日の昼下がりに東京に到着する予定のフライトの乗客者名簿にあった名前を見たときだった。
《アイリーン・アドラー》
こんなにも、こんなにも確信を持てている理由は自分でも分からなかった。でも、間違いない。新一が現代のシャーロック・ホームズなら、アイリーン・アドラーは哀に決まっているのだから。常に新一のやろうとしていることを見抜く、頭脳的に対等な、唯一の女性。ただ違っているのは、アイリーン・アドラーはホームズから逃げおおせたが、新一はもう二度と哀を逃す気はないということだった。
いったいどうして、哀のほうも解毒剤を飲んだだろうということを、これまで想像せずにいたのか。とにかく、くすんだ薔薇色の秋物ジャケットを羽織り、キャリーサイズのスーツケースひとつを引いて到着ゲートを抜けてくる、成長した灰原哀を見て、新一はすっかり面食らってしまった。ゲートから出てきた若い女性は優雅で美しかった。哀のことをきれいだとはずっと思っていたが、それでもこうやって魅力的な大人になった姿を見ると、衝撃的だった。
新一は、歩いて哀のもとに行った。十六ヶ月ものあいだ会えずにいたのだけれど。そして哀は、新一が哀を見つけたのと同じくらいやすやすと、新一の顔を見分けた。最後に直接顔を合わせたときには、ふたりとも七歳の身体だったのだけれど。
「よう」新一はささやいた。そのあいだにも、食い入るように哀を見つめていた。記憶にあるよりも髪の色が日に焼けて淡くなっており、金色の筋が増えている。また、以前よりも髪は伸びていた。瞳は、新一が覚えていたのよりはるかに透明な碧になっている。哀は、どこか静謐な空気を身にまとっていた。心穏やかに自分自身を受け入れている雰囲気があった。
「どうも」哀は静かに返事をした。聞き慣れた声のようでもあり、初めて聞く声のようでもあると新一は思った。彼が手にしているピンク色の薔薇の花束に気づいて、哀は問いかけるように片方の眉を上げた。「それ、わたしに?」
こういったことを、哀から皮肉っぽさがにじまない声音で尋ねてこられることに、あまりにも違和感があって、新一は思わずひねくれた返事で相手を挑発してしまった。「ちげーよ、東京に向かってるって葉書で連絡してきた別の茶髪の女に会いたくて、そいつのために持ってきたんだ」
哀は呆れた表情で新一を見やった。「じゃあ、わたしの勘違いね」と、肩をすくめる。実際にスーツケースを引いて離れていく素振りさえ見せた。
哀が三歩進んだところで、新一は噴き出してあとを追い、手を伸ばして彼女の腕をつかんだ。「おい、機嫌直してくれよ、こっち来いって」それから、哀を腕のなかに閉じ込めて、鼻先を彼女の髪に埋めた。抱きしめた哀の身体の小ささが、嘘みたいだった。コナンと哀は、ほぼ同じ身長だったはずだ。けれども大人になったいま、新一は哀よりも大きくなっていた。
「会いたかった」と、新一はつぶやいた。
哀からは同意するような小さな声が漏れたが、言葉にはなっていなかった。それでも、新一は哀が逃げようとはしていなさそうなので嬉しかった。哀を抱きしめている新一が幸せを感じているのと同じくらい、哀もまた、いまのこの状況を好ましく感じているのではないかと思えた。しかしながら、好奇心はうずいていた。本当に長いあいだ、待ち続けてきた答えを聞きたくて。いつもどおり、哀は新一が自分の思考を口に出す前に、それを察知したかに見えた。わずかに身体を離して新一の抱擁から逃れ、ポケットに手を入れて一枚の紙を取り出す。
持っていた薔薇の花束と引き換えに、新一は哀の手からその紙を受け取った。
紙片はくたくたになっていた。何度も折りたたんだり伸ばしたりされたみたいに。そしてまた、この紙はずっと哀とともに同じ距離を旅してきたのだった。そっと開いてみる。とりたてて特徴のないシンプルな便箋だったが、中央には、新一が毎回手紙の最後に書き添え続けてきた、あの暗号が走り書きされていた。その周りにはびっしりと覚え書きや、線を引いて取り消された思いつきの書き込みがあった。
これは、哀が新一の暗号を解読しようとした軌跡だった。哀が、新一の言葉に耳を傾けようとしていた証拠だった。新一が声に出しては言えなかった、最後のひとことまで。あんなにも遠く離れたところにいたというのに。
新一は紙面に目を走らせていって、最後にようやく、左端の狭い余白に押し込むように書かれた一文を見つけた――「I love you...?」
顔を上げると、哀がこちらをうかがっていた。その瞳には問いかけが浮かんでいた。膨大な数の組み合わせを試してみて、これが唯一つじつまの合う文章だったにもかかわらず、本当に正しい答えなのか、確信を持てずにいるのだろう。新一はニッと笑って、その無言の問いかけに対する返答となる、ただひとつの行動をとった。
前に乗り出して、哀の唇に自分の唇を合わせたのだ。哀は驚いて息を呑んだ。その隙に新一は、舌を滑り込ませた。なんだか甘い味がした――苺、それにワインか。唇の柔らかさが感じられた。ゆっくりと、哀も反応を示して身動きし、舌を触れ合わせてきたので、キスはますます甘くなった。初めての、そして混雑した空港のど真ん中という公共の場での、しかもどちらにとっても唐突なキスだったのに、新一はそれをまったくおかしく感じなかった。哀にキスするのは自然で、直感的なことだった。まるでこれまでに何度もしてきたこと、そして、これから死ぬまでのあいだに、何度でもするに違いないことのような。
ようやく渋々と身を引いたとき、胸の中で心臓がどくどくと脈打っているのが感じられた。新一は自分の額を哀の額にくっつけて、両手を哀の頬にそっと滑らせた。
「探してたものは、旅先で見つかったのか?」と、静かにささやく。
哀が微笑むと、お互いの吐息が混ざりあった。その瞳のなかからは、言葉で伝えられるよりもずっと豊かな感情があふれ出していた。だから哀は、この長かった十六ヶ月間で新一にとって重要だった、たったひとつのことだけを口にした。
「ただいま」
このひとことで、新一は哀が言いたかったことをすべて理解した。彼女の帰るところは米花町。彼女の帰るところは、新一のそばだ。
新一は微笑みかけた。「おかえり、哀」
〔了〕
改めて、翻訳と公開を許可してくださったHikari-chanさまと、ここまで読んでくださった皆さまに、多大なる感謝をささげます。ありがとうございました!
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【※以下、原著者であるHikari-chanさまのあとがきコメントです。】
このお話では、主役ふたりのうち片方がほとんど作中に登場しない恋愛ものに挑戦してみたかったのでした。新一と哀(志保)が一緒に登場するシーンはひとつしかありませんし、彼女のセリフはたぶん4行(単語でいうと10個未満)ほどです。果たしてうまく行ったでしょうか。
余談:書いていていちばん楽しかったのは、新一と服部のシーンでした。最初に書いたのは、カモノハシ絵葉書のところです。
また、指摘を受ける前に弁解しておきますが、郵送のシステムや経済的な観点から見ると、作中での旅やメッセージのやりとりはおそらく実現不可能だということは承知しています。でも紛失した手紙や飛行機のチケット代にまで言及していくとロマンティシズムが失われてしまうだろうということにご同意いただければと思います。そういう部分があっても楽しんでもらえていますように。