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薬屋のひとりごと 作者:日向夏

壬氏編2

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三、抜けた数字 前編

 

 本という物は手入れが必要だ。紙魚のあとだらけの本を広げつつ、猫猫マオマオは一心不乱に書き写していた。


 古い本は湿気と日焼けによって、ある物は字が滲み、ある物はぱりぱりに風化しかかっていた。木簡ではなく紙の本が多い。木簡にすると嵩張って部屋に収まり切れないと判断したからだろう。おかげで質の悪い紙に書かれた本はこうして書き写す羽目になっている。


「猫猫、食事どうしますか?」


 燕燕エンエンがやって来た。


「いらない」


 それよりも本を読み込むことが大切だ。


(ここの記述はいらないと)


 おやじは猫猫に勉強させるために手習い書をいくつか書いてくれた。しかし、すべてを書き写すことはなく、今ここにある蔵書は猫猫が見たことがない記述も多い。字からして、おやじだとわかるが、内容はより細かく書いてある。


 猫猫が習ったものもあれば、習わなかったものもあり、中には記述が変わっているものもあった。


 技術の進歩により、過去に正答とされていたものが間違いだとわかることは少なくない。この部屋を使っていたのは二十年くらい前だろう。少なくとも二十年以上経てば、おやじの中の医療知識は新しく追加修正されている。


 筆を咥え、ページをめくる。知識と言うのは糧だ。没頭している間は食事などいらなくなる――が……。


「夕飯よ!」


 耳元で大きな声を上げるのは姚だ。猫猫は猫なら毛を逆立ててしまいそうな姿勢になってしまった。


「いらな……」

「食べるの」


 姚の目は据わっていて猫猫の言うことを聞いてくれる様子はない。着物の衿を持って引き摺っていく。猫猫はせめて読みかけの書を持って行こうとしたが、それも奪われた。


「燕燕、ちゃんと猫猫も食事をさせて」

「すみません、お嬢さま。猫猫が集中しているので邪魔したら悪いかと。それにたまには二人きりも悪くないかと思いまして」


(後者が絶対主な理由だ)


 燕燕の舌打ちの音が聞こえた。最近、燕燕が作る食事が美味しくて毎回、ご馳走になっている。


「二人きりじゃないわよ。燕燕が食事の材料取りにいっているときに、羅半ラハンさんが来たわ」

「お、お嬢さま? 私、聞いていないのですけど」


 他所の男と二人きりで話していたことが衝撃だったのだろうか。燕燕の顔は引きつっている。


 対して姚は、気にしていない。どちらかと言えば、男性にも仕事では負けたくないと思って、つんけんな態度をとりがちな姚だが、羅半はさして気にならないらしい。なんだかんだで怪しい仕事を毎回持ってくるうちに慣れたのかもしれない。


「使用人にはちゃんと四人分の材料を渡すようにしていると言ってたから、てっきり呼んだものだと思ったわ」


 姚が円卓の上に盛られた料理を示す。二人分には多すぎるし、三人分にもちょっと多い。卓には四つの椅子が配置されている。


 真ん中の主菜メインは大きな家鴨の丸焼きがてらてら輝いていた。


 思わず猫猫はごくんと唾を飲み込んだ。


「……もう少し、薄餅バオビンを焼いてまいります。猫猫、野菜切るのを手伝ってください」


 燕燕は、ちょっと不機嫌だ。


「私も手伝うわよ」

「いえ、お嬢さま、すぐすみます」


 ぴしっとした態度で姚の申し出を断る燕燕。


(あーあ)


 姚はむくれている。


 燕燕はお嬢さま命なのはわかるが、妙なところでお嬢さまの気持ちがわかっていない。距離が近いからこそわからないこともあるのだろう。


 猫猫は葱をきざみ、皿に盛る。家鴨肉と薬味を薄餅で巻いて、たれをつけてぱくんと一口。


 本を読むのを中断してくれた姚に感謝しないといけない。


 台所には、食器の類は最初から準備してあったようだが、どれも四で割り切れる数があった。


 猫猫は半眼になって皿を見る。


「そうやって薄目になると、羅半さまと似ていますよ」


 燕燕の言葉で猫猫は目を見開いた。


「他人なので、似ているはずがありません」


 はっきり言っておく。


 粥は夜食の分まで用意していたのだろう。追加する必要はなかった。


 食後の水菓子デザートについては、最初から三つしか用意してなかったようで、羅半が帰ってから食べようと軽く打ち合わせをする。


「一応、聞いておきますけど、今からこの屋敷を出て行っても大丈夫だと思いますよ」


 過保護な従者に一応聞いておく。


「その点は問題ありませんと言ったじゃないですか。何より、姚さまが乗り気なので」

「そこが意味わからない」

「お嬢さまはできる子でしたので、同年代は莫迦しかいなかったのです」


 きっぱりはっきり言いながら、燕燕はどんどん薄餅を焼いていく。猫猫はくっつかないように冷ましつつ、皿にのせる。


「勉学に勤しみ、男たちにも負けないと言っておりましたので、正直入試で猫猫に負けたときは余程悔しかったようで、がらにもない態度を示していましたから」


 猫猫を転ばせたり、嫌がらせをしたことだろうか。どちらかと言えば、ほとんど取り巻きの官女たちがやっていたのでどうでもいいが。


「それは悪いことをしました」


 まさかそこまでいい成績を取れるとは思っていなかった。


「叔父さんが原因とは言え、姚さんはなぜそこまで出世したがるのですか?」


 ふと猫猫は口にしてみる。


「……姚さまのお母さまが原因ですね」


 少しためらいながら、燕燕が口にする。


「姚さまにとって、お母さまはもう死んだも同然です。お館さまが亡くなったとともにいなくなったと」

「なぜ?」


 猫猫も母親というものに関しては、情などほとんどない。だが、姚と猫猫の育った環境は違うのだ。


「お館さまが亡くなったあと、一人で屋敷を切り盛りできない奥方さまはどうするかわかりますよね」

「叔父が継いだと」

「そして、奥方さまはまだ奥方さまなのです」


 お館さまの妻が奥方さま。


 姚の母親は、叔父と再婚したのだろう。さほど珍しくもない話だが、娘にとっては複雑で、時に嫌悪の対象となる行為だろう。


「そうですか」


 猫猫は野菜と薄餅の皿を持って、一言だけ返した。






「いやあ、お招きいただきありがとう」


 にこにこしながらやってくるのはうっとおしい頭をした眼鏡の小男だ。


(招いてねえよ)


 猫猫と燕燕の心は、この点だけは一致しただろう。ご丁寧に手土産を持ってきたが、何故か雪蛤はすもだった。姚の好物だが、ずいぶん羽振りがいい。


 ちなみに姚が何か確認しようとしたら、燕燕がすかさず隠した。未だお嬢さまは好物の点心が蛙だと知らない。


(この間の碁大会、余程稼いだんだな)


 甘藷かんしょを使って商売もしているようだし、本業は他にもある。体がいくつあっても足りないのに、こなしているところだけは誉めてやらなくもない。


「花に囲まれての食事は嬉しいな。薔薇に、菖蒲に、あと酢漿草かたばみ


 酢漿草が誰か言わなくても理解できた。


「燕燕女士の料理については色々、うわさを聞いていて、一度食べてみたいと思っていたんだ」

「それはそれは」


 燕燕の表情が凍っている。でも、給仕を忘れないだけ偉い。


(燕燕の料理の噂って、どこで聞いたんだよ)


 猫猫の疑問はすぐ解決された。


「兄君の店は人気で、妹君の料理も引けをとらないと聞く」

「ええ。燕燕の料理は美味しいわ。料理長の腕に負けないくらいよ」


 ごく自然にべた褒めする姚。


 前に、燕燕の兄は姚によって助けられたと聞いた。姚の家で料理人をしていたはずだが、その後独立したようである。


(家主が代わったせいかな?)


 燕燕が姚の叔父に対して、悪印象しか持たない理由の一つがわかった気がした。


「兄君の飯店では、三回ほど食事させてもらったが、いやあ、この料理もまた美味い」

「三回ですか? どの季節に行きました? 季節ごとに食事がかわるのよね、燕燕」

「はい、月ごとに旬の食材を用意して作っているはずです」


 燕燕の兄の話を持ち込めば、姚が食いつく。姚が話を振るので、燕燕も会話に加わる。


 猫猫はひたすら家鴨の皮のぱりぱりを堪能する。脂がのった皮と薬味の風味が、薄餅に閉じ込められる。そこに甘辛いジャンを付けて食べる。咀嚼するほどに肉のうま味と香ばしさ、薬味の歯ごたえ、素朴な薄餅が絶妙に混ざり合って唾液の分泌を促す。


 一言で表すと美味い。


「いやあ実に美味だ」


 羅半も同じ意見だ。


 もう一つ、羅半には褒められるところがあった。なんだかんだで会話が上手い。どちらかと言えば人見知りをする姚にここまで打ち解けているのは、燕燕がちょっといらっとする理由もわかる気がした。


 黙々と食事をしているうちに、猫猫はお腹いっぱいになった。点心は出さない手筈になっているので、もう本を読んでいいだろうかと、本棚がある部屋のほうをちらちら見る。


「猫猫、さっさと本を読みたいなんて言わないわよね?」


 姚が猫猫を睨んでいる。会話に加わらなくても、いろということらしい。


「……」


 猫猫は大人しく座って、暇つぶしに葱を食んだ。


(そういえば)


 本棚の並びで気になるところがあった。


「羅半、本棚の本はどこか持って行ってないか?」

「本棚の本?」


 羅半は首を傾げる。


「僕は知らないな。義父上は大叔父さまに関しては何かやるわけでもないし。むしろ、使用人に定期的に部屋を掃除させていたくらいだから」


 変人軍師にしては異例の気遣いだ。道理で、この離れが綺麗にしていると思った。


「本が歯抜けになっているとでも言うのかい? あるとすれば、掃除している使用人が怪しくなるけど、変な人間はまず義父上が雇わないと思うよ。あの人、敵にすると本当に厄介だから」


 本は貴重品なので盗まれることもあるが、変人軍師のところで働く使用人にそれができるだろうか。


(難しい)


「何が無くなっていたの?」

「何がというか、ちょっと気になったのが」


 猫猫は一度席を立つと、本棚から本を二冊、書き写しに使っている紙と筆記用具を取ってきて戻る。


「背表紙を確認してください」

「なにこれ?」


 姚が首を傾げる。


『三―Ⅵ―1』

『四ーⅡ―3』


 と書いてある。つまり三巻の六番目の本の一冊目。意味がわからないだろうが、分類ごとに追記するたびに数字を増やして細かく分けているのだ。


 本棚には最低でも数百冊以上同じように番号を振られてある。


「最初の数字は読めるけど」

「西方の数字ですね」


 多少なら西方の言葉がわかる燕燕が答える。


「はい」


 猫猫は紙に数字を書いていく。


『1、2、3、4、5、6、7、8、9』

『Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ』


 数字と聞いて目を輝かせるのは羅半だ。


 姚は、『Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ、Ⅷ、Ⅸ』と書いた紙に反応を見せる。


「もしかして、次の数字は『Ⅹ』と書くのかしら?」


 姚は、卓に指先でなぞって見せる。


「正解です、さすがですお嬢さま」


 燕燕が猫猫のかわりに答える。


「おやじはちゃんと数字ごとに書いた本を並べていた。でも、一巻と二巻に歯抜けがあったんだよ」

「そうなのか」

「数字が大好きなおまえなら、一発で気づくと思ったんだけど」

「生憎、この離れにはめったに来ないんだ。忙しいからね」

「じゃあ、のんきに飯食うなよ」


 思わず本音が漏れる。


「猫猫、姚さまの前で汚い言葉はやめてください」


 燕燕の教育的指導が入った。


「数字が入っているってことは、系統ごとに書かれているわけよね?」

「はい。一巻と二巻には基礎的なことが書いてありました。一巻には人体の構造について。二巻には外科的な処置方法について」


 猫猫の専門分野は生薬だが、人を治すという観点を考えると、知っておきたい。


「生憎、僕はわからないが気になるねえ。ちょっと使用人にも聞いてみるよ」


 眼鏡をくいっと上げながら羅半が席を立つ。皿の上は綺麗に片付けられ、満足のようだ。


「僕は明日ちょっと用事があるから、何かあったら誰か適当に呼んでくれ」

「わかりました」


 燕燕が素っ気なく返事する。


「ごちそうさま。大変美味しかった。疲れているだろう。使った食器はそのままにしておいてくれ。使用人を呼んでおくから」


 猫猫は片付けもするつもりでいたのだが、しないでいいならそのほうがいい。早く本の続きを書きうつしたい。


 羅半が出て行くとともに、本棚がある部屋へと向かおうとしたが、肩を掴まれた。


「どうしました?」

「まだ点心があるわよ」


 逃がさないと笑う姚がいた。




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