学校における本質的な問題点について ①教師の中心性 ②テストのための勉強 ③成功・完成主義 の3点からつぶやきます
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①教師の中心性 教室という空間は40個の机が 前方の黒板と先生の方を向いている 黒板の前に立つとよくわかるが この配置は教師が 誰が授業に集中していないかを 監視するためには最も適した配置なのだ つまり教室においては 教師と黒板が絶対であり その他の学びは 認めていない構造だということ
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①教師の中心性 教師の中心性は 子どもたちの挙手からも見られる 先生からの質問に「ハイっハイっ」と アピールして教師に当てられるのを 待つ子どもたち 当てられた1人は 優越感の中で質問に答える 教師は挙手をさせることで理解度を測る 子どもからすれば 「理解できてない」が一目瞭然のシステム
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①教師の中心性 教室での学びの多くは 「知ってる教師」と「知らざる子ども」 において行われる 本来のコミュニケーションとは 「相手が知らない情報を伝え、自分が知らない情報を聞く」ことの上に成り立つ 「これはなに?」→「りんご」は コミュニケーションという その舞台の外側の行為なのだ
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②テストのための勉強 「どうして勉強をしなくてはいけないの?」 「将来の可能性を拡げるためためだよ」 誰もが一度は見たことがある問答である これは間違いだと 否定できる人は少ないだろう なぜなら 6年生になれば私立中学の入試 公立中学へ行っても 中3になれば公立高校の入試がある
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そのようなシステムが この社会に存在する以上 先ほどの 「将来の可能性を拡げるためだよ」 という考え方には強い説得力が生まれる 事実として偏差値が高い学校を卒業した方が就職の幅は広い では、学校とは より高いレベルの学校へと進学するためにあるのだろうか それでは学習塾と変わらない
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しかし学習塾と変わらないことを 否定することはなかなか難しい 学校での知識というのは 学校以外で使われることが極端に少ない 学校での学びは生活に活きにくい そのいい例が 【テスト】である 生活からかけ離れたところで 先生が問題を出す 学校ではテストで いい点数を取ることが求められている
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テストがあることで 学ぶことの意味は生活からかけ離れる 学校で学んだ力は 【シャーレの中で純粋培養された力」 であり テストという培養液が切れれば その力は死滅する 力とは活かす場があって 初めて「活きた力」になる しかし 学校の学びの多くは テストでしか活きないので 力として付きにくい
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しかし学校では 力が付いたどうかを確認するために テストが行われる そのテストでいい点数を取ることが 「将来の可能性を拡げる」ことになる ひらがなや漢字が活きた力になるのは それを活かす場があるから テストでしか活きない力は 子どもたちに学びへの 歪んだ認識を与えてしまっている
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③成功・完成主義 学校に根付いている感覚だ つまり学校の教育活動は 【成功・完成】が 目標として捉えられている 悪いことではない 問題なのは先生側の 「がんばればできるという考え」である 「できないのは、その子がやらないから」 この先生の意識が強烈な圧力となって 子どもにのしかかる
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絵の苦手な子が 無理矢理に筆を持たされ どうしても描きたくない絵を描かされる こんな経験を繰り返すうちに 子どもたちは自分の心を守るために 【無気力を学ぶ】のではないか この学びのすれ違いが 様々な教育活動で起こっている
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学校の教育活動は 細かく設定されており 一つでも遅れると他のすべての活動に 影響を及ぼす だから先生は何としても 【成功・完成】させたい たとえ子どもたちの 休み時間や放課後の時間を奪ってまでも 成功・完成主義は 子どもたちに 学びにおける過程よりも 結果の方が大事だと伝えている
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④おわりに 以上が10年前にぼくが書いた 【卒業論文】の一部です ぼくは小学校中学校時代を 有名なオルタナティブスクールで 過ごしました 公立学校とはまったく違う 教育観で育てられました そんなぼくが大学生になり 公立小学校を見たときに感じた違和感を まとめたものが これらのツイートです
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現場批判ばかりで提案性がないことは 重々承知しています 【この論文はまだ発展途上】であり 新しい学びの提案は 【学校の先生として体現していくこと】 だと思ってます 特別支援学級の子 不登校で悩む子 ぼくが気になるのは 学校の中で【困っている子たち】 目の前の子を1人でも多く救うために
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私は高校教師をしていますが、なんなら高校の3年間も工場のレーン上と同じだと思います。 なんのための高等教育か? それは、社会の中でより有能な歯車になるための高等教育ですから。 だからといって別に批判もしません。社会にとって必要なことだと思いますし。
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画一性は大切なんです 北海道から沖縄までどこで受けても 同じような教育が行われているおかげで 日本という国は発展してきた側面もある と思います 問題は有能な歯車に なりたくてもなれない子どもたち‥ いや、歯車という概念も古いですね もはや歯車では生きていけない社会です
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全くその通りだと思います。 そして、「社会」と「学校」、変わるべきは学校であり教育なのでしょう… ただ、変えるにしてもどこから変えていけばいいのか、変わろうとして変われるものなのか、そもそもどう変わっていけばいいのか… 自分にできることは何だろうと、毎日自問自答しています。
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その自問自答の日々から 新しい教育が生まれるはずだと信じてます ぼくたちは目の前の子どもたちを救うことから始めましょう
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自己実現とともに社会が求める人になる、イイじゃないか!それこそ win winな関係。そう思うねんけど!
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問題は そのレーンに乗ることができない 子どもたちへの 支援がないということかなと 多様性を認める社会 と言っておきながなら 学校が最も画一性を求めてる事実
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普通の公立校の中の支援学級では難しいでしょう。大空小学校みたいなのが普通になれば違うと思います。これぞ公教育って感じですよ!
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その実践はまた勉強したいと思います! 公立校に勤めるぼくとしては 目の前の子どもたちを救っていきたいと思います
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