2019年01月21日

■正義の名の下に言論封殺:後

日之丸街宣女子デカバナ
『日之丸街宣女子』(ジャパニズム掲載)最新情報はこちら← 旧作はこちら↑

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 すまん。二か月寝かせた。
 そしてその間に、コミケがあり、年が明け、現在私自身が言論封殺されています。
 なので先に、それを上げておくよ。
20190115b

 
 もう既に三日前の事なんですがね(遅!)ツイ開けるとこんな画面になってました。
 何回目だっけ? 何だか「三回目だなBBA!」と言うDMが届いていたので3回目なのかな?
 一週間のお仕置きアカウントロックだそうで、内容を読んだら……ごめんマジで分からないんだが、この文章のどこがまずいの?????
 なので、該当のツイを削除せず、異議申し立てと言うのをやりました。文章は以下。
 
 
ツイッター異議申し立て
 「暴言や脅迫、差別的言動を禁止するルールに違反しています。」 とありますが、その「暴言」とはどれですか?
 指摘された二つのツイは、2017年の物は、「支那人は土地に交わらないのが強さだ」と言っているだけで差別も暴言もありません。
 2018年の物は、政治家を目指す個人(公人の立場)への批判で、政治に関する発言です。これもまた暴言とも差別とも取れません。
 となると、「支那」「支那人」の言葉自体が差別的と言う事ですか?
 であるなら、「支那」はCjhinaの日本語読みであり、支那竹(シナチク)、東シナ海などに使われているのと同じ意味です。その地域の人を「支那人」と言うのも同じです。
 日本では昔から使われてきた言葉ですので、ツイッターが差別語のレッテルを貼り、言葉狩りをするのは好ましくないと思います。
 また、文章に表れない私個人の考えで言っても、差別の意図はありません。政治的危険性を平易な言葉で訴えているのに過ぎず、これは「ヘイトスピーチ対策法」基準でも、ヘイトスピーチに含まれません。
 よって、私の二つのツイは差別にも暴言にも当たりませんので、即刻ロックの解除をお願いします。
 
 
 二、三日中にはお返事しますと言う画面が出たのに、もう四日全くお返事が有りません。
 返事する気がないなら、そう書けばいいのにね。
 次の日になったら、画面が変わり、「ツイッターを始める」ボタンが出たので入ったところ、これ。
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 ?? 該当ツイを削除してないのにカウントダウンが始まると言うのはどういう意味なんだろうか?勝手にツイが削除するの?それとも七日様子を見て、削除してなかったまた停止すんの???
 まったく状況が分かりません。
 とは言え、アカロックは表面上は第三者から見て何も変わりません。ただ私が手を付けられないと言うだけ。
 更新だけ止められてて表面上何もなしって言うのは、かなり性質が悪い。「もうロック解けてるよ」と言うガセ流す奴がいて、それに反論も出来やしない。
 折しも、次のジャパニズムの原稿で、まさしくこの「ネトウヨBAN祭り」について描いているので、是非ご覧下さいませ。来月10日発売です。
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 アカロック続行中ツイ↓
 ツイッター@A_T_GUN
 

 さて!!
 さくさく行こう。まずは二十日も過ぎて年頭のご挨拶にござる。
 明けましておめでとうございます!! 本年も何卒ご指導ご鞭撻のほど!

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 さぁ本題だ!
 昨年11月から引っ張ったので、まずは拙blog前編のリンク。
 ■正義の名の下に言論封殺:前
 既に2018年言論封殺を振り返るモードになっていますが、この、言論封殺事例その2、後編でござる。
 

 
 

 ↓ 本題 ↓ 

 
 あらかじめ確認しておきたいのは、これがほんの「一部」「氷山の一角」であると言う事。
 多くの人々の心の中に「ヘイトって良く分からないけどイクナイ!」「ヘイトは抹殺しても良い。むしろ正義」「ヘイトだ!差別だ!粛清だー!!」と言う気分が醸成されていなければこうはならない訳で、これらの事例に全く関わっていないからと言って、「私は無関係」にはならないのだと言う事。
 いいですか? だから声を大にして言いたいのだ。
 「よく分からないけど」で封殺に加担すんな。
 加担するなら、自らの行いが「封殺」で、「社会的抹殺」に手を染めるのだと理解の上加担しろ。
 ヘイトのレッテルを張られる側は、大概相手の言説を消そうとはしない。
 そこが不思議でもある所で、アンチ・ヘイトやら正義を標榜する側は、常に相手の言説を「消そう」とし、ヘイトレッテルを張られる側は常に対話を求める。これは以下の二例にもがっつり当てはまる。
 それだけでもどちらが異常かわかりそうなものだが、所謂「ポリコレ」はアンチ側にあるのだから、世界の凡ては疑ってしかるべきだ。
 では本題。
 
  

 
◆RADWINPS:HINOMARU◆
 この騒ぎも前述の「二度目の人生~」の騒ぎと、ほぼ時を同じくする6月8日。
 ゆずの「ガイコクジンノトモダチ」に続き、歌詞が騒ぎになったのがこの「HINOMARU」。
 軍歌的だ戦争賛美だ愛国的だと言う「非難」と言うからオドロキだ。
 「愛国」その物が責められるとか、この国の愛国/軍/戦争アレルギーは重症すぎるだろ。
 この騒動は、歌ってる本人が「謝罪」してしまうミスはあった物の、「ヘイト」も見つからず、既に名のあるバンドの作品だった事から、非難より擁護が遥かに多く、特に実害なく収まった。
 中核派の活動家がやたら許すなと騒いでいたが、これも大空振りに終わっている。

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 最初は「デモするぜ!」と言っていたのが、最終的にただのアピになり、結局誰も集まらず交差点でアピって警察に追い返されると言う、ただの困ったチャンになり果てていた。
 馬鹿なんだろうか…。
 だが、「愛国を歌ったら槍玉にあがるんだ…」と後続をビビらせる効果は充分過ぎる程にあったと思われる。

 
▼「さぁいざ行かん日出ずる国の御名の下に」RADWIMPSの愛国心を燃えたぎらせる新曲が話題に
2018.06.08 14:52 BUZZAP!
 ゆずに続いてRADWIMPSも愛国テイストの新曲を発表し、話題になっています。詳細は以下から。
 今や世界的にヒットした映画「君の名は。」の主題歌「前前前世」で日本人で知らない人のいなくなったバンドRADWIMPS。2001年に結成された4人組のロックバンドとしてその活動は既に17年目に入っています。
◆愛国心を燃えたぎらせる歌詞
 このRADWIMPSがリリースしたばかりの新曲のテイストが話題になっています。それが6月6日に発売されたニューシングル「カタルシスト」に収録されている「HINOMARU」。 「風にたなびくあの旗に 古よりはためく旗に 意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに」から始まる歌詞を見れば分かるように、この「HINOMARU」はもちろん日本国旗の「日の丸」を意味するもの。
 歌詞の中には「日出ずる国の御名の下に」「高鳴る血潮、誇り高く」「気高きこの御国の御霊」など、日本という祖国を敬い、誇りに思う気持ちがそこここに散りばめられています。なお、御霊とは神霊や祖先、特に高貴な故人の魂に対する尊称のはずですが、「僕らの燃ゆる御霊」と歌ってしまっているのはご愛敬といったところでしょうか。
 加えて「受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか」「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」「守るべきものが 今はある」など、捉え方によっては先の大戦を想起させるような表現が随所に顔を出しており、これまでにないテイストに話題が集まっています。
◆サッカーW杯テーマソングのカップリング曲という立ち位置
 ただしひとつ押さえておくべきなのは、「カタルシスト」が「フジテレビ 2018 FIFA ワールドカップロシア大会テーマソング」であるということ。つまりはサッカー日本代表の応援歌としての意味合いを持つため、そのカップリング曲とも呼べる「HINOMARU」が愛国心に火を付けるような楽曲であることにはそれなりの合理性があります。
 振り返れば2014年のFIFAワールドカップブラジル大会の際には、NHKから依頼された椎名林檎が「NIPPON」という曲を書き、「この地球上で いちばん 混じり気のない気高い青」などと歌って物議を醸していました。
 今回RADWIMPSが敢えてローマ字を使って「HINOMARU」というタイトルにしたのはある種のオマージュとも言えるのかもしれません。
◆愛国ソングに流行の兆し??
 もちろん4月にBUZZAP!で取り上げた、「TVじゃ深刻そうに 右だの左だのって だけど 君と見た靖国の桜はキレイでした」と歌うゆずの「ガイコクジンノトモダチ」の存在を考えても、愛国ソングが流行の兆しを見せていると分析することも可能なはず。
 だとすればメジャーアーティストらが愛国ソングを歌いたいと考えているのか、それとも愛国ソングを求めるリスナーが一定数存在するということなのか、今後のJ-POPシーンの動向が注目されます。

 
 
▼「HINOMARU」の歌詞を謝罪。RADWIMPS・野田洋次郎さん「傷ついた人達、すみませんでした」
 人気ロックバンド「RADWIMPS」のボーカル・野田洋次郎さんが自身のTwitterで6月11日、自身が手がけた新曲「HINOMARU」の歌詞の内容について謝罪した。
 「HINOMARU」には、「さぁいざ行かん 日出づる国の御名のもとに」といった表現が並び「愛国ソング」として話題になっていた。
 「HINOMARU」は、「風にたなびくあの旗に 古よりはためく旗に意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに」と問いかけからはじまり、「受け継がれた歴史」や「気高きこの御国の御霊」「日出づる国の御名のもとに」が登場する。タイトルからして、直接な表現があふれるわかりやすい愛国ソングとしてリリースされた。
 この歌詞がネット上で話題になり、「国歌にしてほしい」という声から「これは軍歌?」という疑問まで賛否さまざまな意見があがっていた。
 野田さんはTwitterで、英語と日本語で、「HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません」と釈明した。
 曲の意図について「この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。みんなが一つになれるような歌が作りたかった」と言及した。
 「結果的にその曲で不快な想いをさせてしまった人がいたというのが何より悲しいです」として、「色んな人の意見を聞いていてなるほど、そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪した。

 
 ▼RADWIMPS「HINOMARU」擁護ツイートまとめtogetter
 ▼【福岡】RADWIMPS、ライブでHINOMARU披露「自分の生まれた国を好きで何が悪い!」と絶叫ShareNewsJapan

 

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◆新潮45◆

 
 一番複雑な構造で起こった封殺で、しかもターゲットが「言論誌」と言う、封殺撥ね退けてナンボの物で、休刊と言う敗走に至ったオドロキの実例。
 一言で言うと、「言論誌の風上にも置けぬ失態」である。心の底から意気地なし、みっともないぞ新潮、と言いたい。
 騒ぎは二段階になっている。
 第一段階は「新潮45」八月号の杉田水脈議員の寄稿文『「LGBT」支援の度が過ぎる』に対するバッシング。尾辻かな子(自称Lの議員)がツイッタに寄稿文の一部を載せ、「LGBTに生産性が無いとは何事だ!!」と吠えた事から始まった。
 杉田氏に脅迫状が届き、逮捕者も出て二か月、非難が収まらない所に次が来る。
 続く第二弾は、同じく「新潮45」の十月号。特集「そんなにおかしいか杉田論文」での、小川榮太郎氏の寄稿文『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』が大炎上。それはもう、正に火に油を注いだ状態。
 本誌は早々に売り切れてしまい、小川論文の全文は読めていないが、部分部分漏れ聞くと、かなり皮肉のキツイ攻撃的な文の模様。彼自身も「毒を多めにした」と言っている。
 8月号の杉田氏は論文以降、表に出ることは控えたようだが、小川氏は果敢に取材申し込みに応え、出演依頼にも応えた。「AbemaPrime」やら「よるバズ!」やら、オープンゲイの明治大学教授鈴木賢氏とのバトルやら、流石言論人は退かない。10月号に関しては、ここまでは討論であり、言論ではあったのだ。
 が。
 それを受けて、発売から僅か三日後に代表取締役が謝罪文をあげ、一週間足らずで休刊のお知らせが出た。

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 余りにも早い、早過ぎる言論からの撤退だった。しかも、言論誌の。
 早いだけではなく、言論誌とは思えぬ言い分。書き手の頭の上を通り越して読者に、「あの作家本当に非常識なんですよ!」と媚びるのが言論誌か。
 勿論、非難を浴びせる方がこれで納得する訳もなく、非難は高まり、すぐに休刊へつながる。
 そこらの経緯を説明してくれるソースは以下。
新潮201808 新潮201810_l 新潮201810b

 
 
* 第一弾新潮45八月号 
▼立憲・尾辻議員、自民・杉田議員の『LGBT支援の度が過ぎる』に指摘 →「LGBTも納税者である」2018.0720 ShareNewsJapan

▼杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす
  杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号。
 この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
 朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 
 LGBとTを一緒にするな
 

 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
 朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
 最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
 実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
 トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
 最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
 オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

▼自民党杉田水脈衆議院議員の『新潮45』への寄稿は不適切発言の特盛である 2018.07.28 11:04BLOGOS
   常見陽平:本文はリンク先でどうぞ
▼原文を読んだうえで、それでも杉田水脈氏の不見識を批判する2018/07/30 10:00 
   新宿会計士の政治経済評論:本文はリンク先で

 
 
* 第二弾新潮45 十月号 

▼「新潮45」2018年10月号特別企画について:2018.09.21 代表取締役社長 佐藤 隆信

▼「新潮45」休刊のお知らせ:2018.09.25 新潮社
▼ 「痴漢擁護」に走った「極論雑誌」の末路2018.9.23プレジデントオンライン
■二階氏は「いろんな人生観がある」と好意的に発言
 もはや「新潮45事件」といってもいいだろう。
 自民党の杉田水脈衆院議員が「新潮45」(8月号=編集兼発行者・若杉良作)に書いた「『LGBT』支援の度が過ぎる」の中で、「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり『生産性』がないのです」と書いて、大きな批判が巻き起こった。
 自らレズビアンであることをカミングアウトした立憲民主党の尾辻かな子衆院議員は、「LGBTも納税者であることは指摘しておきたい。当たり前のことだが、すべての人は生きていること、その事自体に価値がある」とツイッターで批判。
 昨年、日本人男性と結婚したことをブログで公表したロバート・キャンベル東京大学名誉教授は、「杉田氏のような思考は、性的指向を伝えられずにいる日本の若者たちを苦しめてきました」と指摘。その上で、性的"嗜好"は、杉田議員のいうような脱着可能なアクセサリーのようなものではなく、「性的"指向"は生を貫く芯みたいなもの」だと、自らの覚悟を示して見せた(注:強調は筆者)。
 だが、こうした差別発言には慣れて麻痺している二階俊博・自民党幹事長は、「人それぞれの政治的立場、いろんな人生観がある」と発言して失笑を買った。 この背景には、杉田議員が日本維新の会から自民党に鞍替えして、安倍晋三首相の出身派閥に所属している安倍チルドレンの一人だという忖度もあったのかもしれない。

■「新潮45」の常連執筆者も編集部を批判
 だが、これに意を強くしたのか、杉田自身もツイッターで「(先輩議員から)間違ったことをいっていないんだから、胸張ってればいいよ」などとつぶやいたのである。
 その後、自民党はウェブサイトに、「杉田議員の寄稿文に関しては、個人的な発言とはいえ、問題への理解不足と関係者への配慮を書いた表現があることも事実」だと掲載したが、それは「新潮45」の発売から2週間もたってからだった。
 朝日新聞、毎日新聞は7月25日付で、「LGBT 自民の認識問われる」「杉田水脈議員の差別思考 国民の代表と呼べない」と、こうした差別発言の出てくる自民党の体質を厳しく批判する社説を掲載した。
 「新潮45」の常連執筆者であるコラムニストの小田嶋隆までもが、次のように編集部の姿勢を批判した。
 私がむしろ当惑を感じたのは、議員の文章に対してよりも、雑誌の編集姿勢についてだった。 具体的に申し上げるなら、当該の発売号をパラパラとめくりつつ
 「おいおい、『新潮45』は、ついにこのテの言論吐瀉物をノーチェックで載せる媒体になっちまったのか」
 と、少しく動揺せずにはおれなかったのである。
 日経ビジネスオンライン「杉田水脈氏と民意の絶望的な関係」2018年7月27日

■なぜ「生産性」にかぎかっこを付けたのか
 ここで、私が最初に、この文章を読んだとき考えたことを書いておきたい。
 私は、講談社という出版社に36年間在籍していた。その間、仕事のほとんどは週刊誌か月刊誌、それも一般男性誌といわれるジャンルばかりだった。
 その間、「平地に乱を起こす」ことばかりを考えていた。平和ボケしている日本に異論や極論という爆弾を投げ込み、それを巡って論争や批判を起こす。編集者の得もいわれぬ楽しみである。
 私はこの杉田議員の文章を一読して、若杉編集長が「暴論が炎上して話題になり、売り上げにつながればいい」と考えたのだろうと思った。だが、違和感を感じた箇所があった。
 彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり「生産性」がないのです。 なぜ、生産性にかぎかっこを付けたのだろう。元々の原稿にあったのか、わざわざ編集部が付けたのだろうか。
 かぎかっこは、その言葉を強調するために付けられる。全体はLGBTについて書いているのだが、この生産性を強調することで、子どもを作らない男女も生産性がない、国に貢献していない存在だという印象が強くなってしまうのだ。
 これによってLGBTの人たちばかりではなく、子供を欲しくても授からないと悩み苦しんでいる人たちも傷つけ、怒りを買ってしまったのである。

■杉田議員は大ボスの安倍首相夫妻の心まで傷つけた
 子どもを作れない人=生産性がない人=非国民。ウルトラ保守派の考えそうな単細胞的思考に思えてならないが、なぜ、編集部は見逃したのか、それとも加筆したのだろうか。
 校閲界の東大といわれている新潮社の校閲部が、どうしてここをチェックしなかったのか。チェックしても、編集部が無視したのだろうか。聞いてみたいものである。
 これは私の誤読ではない。それが証拠に、杉田を自民党に誘って比例の上位に押し込んだ安倍首相も、TBSの番組に出て、この問題について聞かれ、「私の夫婦も残念ながら子宝に恵まれていない。生産性がないというと、大変つらい思いに妻も私もなる」と語っているのである。 杉田議員は、自分の大ボス夫婦の心まで傷つけてしまったのだ。
 私は、政治家に一番必要な資質は、自分の考えていることを、言葉で正確に国民に伝える能力だと思っている。しかし、安倍首相にしても、この杉田議員にしても、その能力が著しく劣っていると思わざるを得ない。

■世間にケンカを売るときは、批判への対処を考えておくべき
 編集部の思惑通り、杉田論文(論文と呼べるほどのものではないが)には、発売直後から大きな批判が起こり、大炎上したのである。
 当時、取材に来た朝日新聞に私はこう話している。
 出版不況による新潮45の変貌(へんぼう)の影響を見るのは講談社「週刊現代」の元編集長、元木昌彦さんだ。新潮ドキュメント賞の発表誌でもある新潮45は1982年の創刊以来、硬軟織り交ぜた独自取材路線で鳴らしたが、ここ数年は急激に「朝日新聞やリベラルを繰り返し批判的に特集する『オピニオン路線』に変わった」。
 取材費がかさみ売れ行きも読めないノンフィクション路線より「手軽に過激化できるオピニオン路線のほうが固定客を期待できると判断したのだろう。『悪名は無名に勝る』は編集者の性(さが)でもある」と元木さんはいう。
 朝日新聞デジタル「杉田水脈氏寄稿、出版社の責任は ネットと深化の影響も」8月7日 付け加えると、部数が減少しているため(日本雑誌協会によると、「新潮45」の16年の平均発行部数は2万部超だったが、今年1~3月は1万7200部)、編集部がとった戦略は「正論」(産経新聞社)や「月刊Hanada」(飛鳥新社)のような"極右"路線だった。
 朝日新聞や中国・韓国、さらに安倍政権に批判的なジャーナリストや学者をたたくほうへ舵を切るのだが、他誌との差別化ができないため伸び悩んでいた。
 そこで若杉編集長が考えたのが、大暴論を吐く人間の起用だったと、私は思う。
 この考え方を、私は否定しない。雑誌というのは、さまざまな意見が載っていていい。編集部と考えの違うことを作家や評論家が書いてきても、あれは編集部の見解とは異なるといえばすむ。 だが、世間にケンカを売るときは、それが出た時に起こる批判にどう対処するのかを、発表前に考えておかなくてはいけない。これは雑誌作りのイロハである。
 ■杉田論文を擁護する「大物筆者」がいなかった 今回はどうか。今月18日に発売した「新潮45」(10月号)で、編集部は、一連の杉田批判に対しての批判は「見当はずれ」で「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった」と謳って、「特別企画 そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という7人の書き手による39ページの反論特集を組んだ。
 こういう場合、こんな大物も編集部の見解に理解を示しているのかと、読者に思わせる書き手を起用する。これも雑誌作りのイロハである。
 だが、新潮45が巻頭に起用したのは藤岡信勝氏であった。肩書に「新しい歴史教科書をつくる会副会長」とあるように、産経新聞が発行している右派雑誌、正論の常連執筆者で、杉田議員と考え方が近い人物である。
 次の小川榮太郎氏は杉田議員と対談本『民主主義の敵』(青林堂)を出し、第18回正論新風賞を受賞している。
 私は「正論」がどうこうといっているわけではない。杉田議員の考え方を擁護し、批判する人間たちに一太刀浴びせようと編集部が意図したのなら、この人選は間違いだったと思う。
 この程度の書き手にしか出てもらえなかった時点で、編集部側の敗着が決まった。この内容では出すべきではない、そういう編集部員が一人もいなかったのだろうか。

■「痴漢が触る権利を社会は保障すべき」という暴論
 雑誌は編集長のものだから、思っていてもいい出せなかったのだろう。
 「私は雑誌の発売直後、騒動が起こる前に読んだのだが、全く何の違和感を持たなかった」(藤岡氏)という問題意識のない人間や、「『生産性』発言については複雑な思いを抱いています。相模原障害者殺傷事件と同じ優生思想だとの批判はもっともだと思いながらも」と、戸惑いを隠せない松浦大悟元参院議員(落選後、ゲイであることをカミングアウトした)、「杉田氏の『生産性』という発言は、過去の『新潮45』の中でもありました。当時杉田氏は議員ではありませんでしたが、今は自民党の衆院議員。発言には気をつけなければいけません」とたしなめるユーチューバーのKAZUYA氏などバラバラで、「真っ当な議論のきっかけとなる論考」(新潮45のリード)になどなっていないのである。
 極めつけは文芸評論家の小川氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という、杉田論文をもはるかに超えて、「公衆便所の落書き」(作家・高橋源一郎氏)如きものとしかいいようのない駄文である。
 小川氏はまず「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」と宣言する。
 問題になっている核心を知ろうとしないで、杉田論文を擁護しようというのだから、あとは推して知るべしではあるが、暴論の核心部分はここだ。
 LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。
 満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深ろう。再犯を重ねるのはそれが制御不可能な脳由来の症状だという事を意味する。
 彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく
 小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」(「新潮45」10月号)より抜粋
 この暴論の上塗り発言には、新潮社の内部からも批判の声があがった。

■社長名義での見解公表は遅きに失したというしかない
 9月18日深夜から、新潮社の公式アカウントのひとつである「新潮社 出版部文芸」は、「どうして低劣な差別に加担するのか」「ヘイト論文掲載について開き直り正当化」「新潮社の本はもう買わない」といった批判的なつぶやきを次々とリツイートした。
 このリツイートはいったん削除されたが、19日朝から再開された。さらに新潮社の創業者・佐藤義亮氏の「良心に背く出版は、殺されてもせぬこと」という言葉も投稿された。作家たちも声をあげた。
 「一雑誌とは言え、どうしてあんな低劣な差別に加担するのか、わからない」(作家・平野啓一郎氏)
 「読者としても、執筆者の一人としても残念です。編集長の若杉さんには、直接その旨伝えましたが」(作家・適菜収氏)
 新潮社の本を棚から撤去した書店も出てきたことで、ようやく危機感を覚えたのだろう。佐藤隆信社長が21日、「ある部分に関しては、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です」との見解を公表したが、遅きに失したというしかない。

■少数野党をたたくことにどんな意味があるのか
 付け加えれば、今号の新潮45の巻頭特集は「『野党』百害」である。 トップ記事は中国・韓国へのヘイト本として強く批判されている『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社α新書)を書いたケント・ギルバート氏の寄稿だ。
 野党は議論が下手だし議論する能力もない、民主主義の中核を担う政党としては失格だと切り捨て、中には売国奴のような人がいるとまでいうのだ。全編野党に対するヘイト文といってもいいだろう。
 だが、現在、衆議院で3分の2を超える自公をたたかず、少数野党をたたくことにどんな意味があるのだろう。そんなに権力にすり寄りたいのか。権力者に頭をなでてもらいたいのだろうか。
 雑誌は反権力でなければならないと青臭いことをいうつもりはないが、安倍政権をやみくもに賞賛し、朝日新聞という一メディアをたたく右派雑誌が3誌も4誌もある国なんて、日本だけだろう。おかしいと思わないか。
 新潮社は保守的な出版社ではあるが、権力とは常に距離感を保ってきた。このままいくと、新潮社で本を出すのは嫌だという作家やライターが続出するのではないか。

■編集長の更迭や、雑誌の休刊ですむ話ではない
 2009年に週刊新潮は大誤報をしている。2月5日号(1月29日発売)から4号にわたって、朝日新聞記者2人を殺傷した朝日新聞阪神支局襲撃事件(いわゆる赤報隊事件)の実行犯を名乗る男の手記を載せたのだ。
 週刊新潮は誤報と判明した後もよくわからない文章を掲載するなど迷走を極めた。編集長は更迭されたが、週刊誌への不信感を高めることになった。
 このままでは週刊誌は消えていく。危機感を抱いた私は、上智大学で「週刊誌が死んでもいいのか」というシンポジウムを開いた。会場に入れない人が何百人も出るなど盛況だったが、だからといって週刊誌を含めた雑誌の危機が去ったわけではない。
 今回の新潮45問題は、そのとき以上の危機だろう。編集長の更迭や、雑誌の休刊ですむ話ではない。(ジャーナリスト 元木 昌彦)

 

 
▼新潮社看板に「ヘイト本」 「新潮45」批判で落書きか 2018.9.24 20:32 産経新聞
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  性的少数者(LGBT)への表現で批判を受けている月刊誌「新潮45」を出版する新潮社(東京都新宿区)近くの看板に、「ヘイト本」などと同社を非難するような落書きが記されたことが24日、分かった。同日夜現在、看板にはブルーシートがかけられた状態だが、警視庁牛込署は「把握していない」としている。
 目撃者によると、看板は同社に隣接する商業施設の植え込みにあり、「新潮文庫 Yonda?」との広告の前に「あのヘイト本、」と付け足されていた。どのように付け足したかは不明で、商業施設は取材に「新潮社の看板なので、うちではブルーシートをかけていない」と話した。
 「新潮45」8月号は自民党の杉田水脈衆院議員が、LGBTを「子供をつくらない、つまり『生産性』がない」などと表現して批判を招き、さらに10月号でも特集を組んだ。

 
 
▼LGBT批判の小川榮太郎さんが持論を展開 ⇒ ゲイ公表の鈴木賢氏「その感覚に驚く」 2018.09.20 15:37HOFFPOST

 18日に発売された『新潮45』の最新号が掲載した特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が波紋を広げている。
 きっかけとなった文章を執筆した自民党の杉田水脈衆議院議員が口を閉ざす中、同誌は7人の論客が「論文の『生産性』は誤読されている」「LGBTは国家や政治が反応すべきではない。レズ・ゲイは性的嗜好」「メディアの杉田議員への個人攻撃が過ぎる」といった議論を掲載。
 これに対し、新潮出版文芸のTwitterアカウントが「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事(佐藤義亮)」と新潮社創業者・佐藤義亮の言葉を投稿、『新潮45』の編集方針を批判するツイートを次々とリツイート。さらに同社の広報宣伝、新潮文庫や競合である河出書房、岩波文庫などのアカウントも応援する姿勢を見せている。
 このことについて、別の部署で雑誌編集をしているある社員は、AbemaTV『AbemaPrime』の取材に「朝いちばんに役員が編集部に来て『ツイートをやめさせろ』と言ったのですが、誰がツイートしているのかわからないので、できなかった。多くの作家がコメントしているので、上の人たちは作家対応をどうするか協議しているようだ」と回答している。
 番組では今回の企画に「政治は生きづらさという主観を救えない」というタイトルの文章を寄稿した論客の一人、文藝評論家の小川榮太郎氏を招き話を聞いた。
■「性というものの本質は"慎む"こと」
 小川氏は『新潮45』をめぐる騒動に関し、「バカバカしい」と語り、今回の寄稿について「論文に書いた通り、"パンツぐらい履いとけ"ということだ。つまり、性的なことというのは居酒屋で話すのはいいが、社会で議論すべきことではない。みなさんにも性的なことは色々おありだろう。私にもある。そういう問題については、昔から"慎む"という文化がある。
 言葉においてもそうで、源氏物語も大変な不倫の物語だが、性交の場面は一回も出てこない。それが我々の人類の、または日本の性との関わり方であり、工夫だ。私はその部分を言ってるだけで、生物学者ではないのに細かい部分において"オスとメスしかない"とか"オスとメスの間にオスメというのがいるよ"とか言われても困る。日本語で『志向』か『嗜好』かというが、それは言葉遊びだ。性というものの本質は"慎む"ことであって、その常識に立ち返りなさいよ、といういうことだ」と説明。 :続きはリンク先で

 

 

 
 とまぁ、騒動は寄稿した人々を置いてきぼりに、新潮45の休刊と言う形で終末を迎えた。考えうる限り最悪の終わりだろう。
 酷くないかこれ?
 新潮45が求めて、それに応えて寄稿した評論家や言論人に何の相談もなく、明らかにその文章をさして「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と断じて、外部に向けて謝罪してんだぜ。失礼極まりないだろう。
 しかもその挙句、休刊。依頼していた原稿も何もかも放り出してさっさと休刊。余りにも無責任だ。
 これがまだファッション誌や漫画誌のような、攻撃に弱い編集部なら分かる。が、言論誌だ。言い合ってナンボぶつかってナンボの言論誌だ。言論誌が、バッシングに謝罪して尻尾を丸めて休刊したのだ。
 これは新潮としても不名誉な事であるし、出版界としても最悪の前例を作ってしまった事になる。
 これからはその言説に気にくわない事が有れば、徒党を組んで脅しすかして言論誌を潰せばいい。特定の人間に都合のいい言説だけが世の中に撒かれる事だろう。
 今回の一件では多くの「識者」だの「評論家」だの「学者」だのと言われる人々が新潮をコキ降ろした。恥ずべき言説だと責め立てた。そして言論誌の消滅を是とした。
 何のこたぁ無い。日本の識者評論家学者には、かのボードレールの心意気なんてないのだ。意見が違う奴は敵で、叩き潰して勝つことが正しい事なのだ。話し合い、討論し合い、そこで生まれるアウフヘーベンなんて誰も望んじゃいないって事だ。
 これを言論の封殺だと思いもよらず、正義と思っている人間ってさ。識者もつまりはアンチヘイトの暴徒や、中核派や支那バグやしばき隊と、何も変わらないと言う事じゃないの?
 
 

 正義の名の下に言論封殺。最近の三例(+自分自身の例)を上げさせて貰った。
 こんな独善的な正義、しかもまだ己の得を取る理論ならまだしも、非常に地球市民的で偽善的な統一性、破綻しか生まないのは火を見るより明らかだ。
 私は元々表現の規制には、ほぼ全面的に反対の立場にいる(腐っても作家だからね)。
 が、それをおいても、昨今の言論封殺は異常だ。
 ポリコレを後押しするマスコミも言論人も、漏れなく狂信的な左翼の流れに乗り、一方向の言説以外を消そうと躍起だ。自分たちの言論のみが言論で、それ以外は「ヘイトスピーチ」と決めつける勢いだ。
 メディアが談合して言論を統制する中、傍流としてあった筈のwebも、現在は同じ統制に加わりつつある。便利なSNSや動画投稿サイトの動向を見ると良く分かる。
 この言論弾圧/封殺の波は静まらないのか?
 日本が支那のようにならない事を望むばかりだ。
 
 

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この記事へのコメント
明けましておめでとうございます。
杉田論文も小川論文も別に問題ないですよね。
差別差別といって他人を黙らせて良い社会ができるわけがないですよ。
問題は大学だと思います。他人を黙らせる理屈を信奉している大学教授がわんさといるのです。ここを壊さないといけないと思います。
Posted by 雨聡 at 2019年01月22日 16:04