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2019-03-26

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・昨日、まだまったくことばを覚えていない赤ん坊が、
 絵本の読み聞かせを聞いているということについて、
 「ことばをかけられる」ということには、
 撫でられたり抱かれたりするのと同じような
 うれしさがあるのだろうと書いた。

 それは、おとなになってからのことでもある。
 頭を撫でられたり抱きしめられたりすることに、
 文字やことばは関係ない。
 意味が乗ってくるのは、うれしさの後なのである。

 「目は口ほどに物を言う」ということわざについても、
 ぼくは、ちょっと思うことが変わってきた。 
 目は、目の機能としては、「見るもの」のはずだ。
 しかし、このことわざのなかでの目は、
 「見られる側のもの」として表現されている。
 その目の持ち主としては、目で相手を見てるつもりだが、
 同時にその目のほうを見られているというわけだ。
 自らのこころを覗き見られている「窓」なのである。
 そして、口で語られたことば「ほどに」、
 そこから読み取られている情報は大きいよ、と。
 ぼくとしては、「口ほどに」では足りないくらいで、
 ほんとうは「目は口よりも物を言う」
 と言ってもいいようにも思うようになった。

 だって、犬どうし、サルどうしでも、
 目を見合って相手の出方をはかっているわけで。
 吠えたり鳴いたりもするけれど、
 細かい意味のやりとりなんかよりも先に、
 相手がこちらの害になるのか利になるのかを、
 目という窓からつかみ取っているのではないだろうか。
 詳細については委細面談というか、
 あれこれことば(意味)で伝え合う前に、
 「利か害か・好きか嫌いか・安全か危険か」
 というような判断を目と目でしているとしたら? 
 口からことばとして出てくる意味などは、
 やっぱり二次的な駆け引きの道具にしか過ぎない。

 口を磨くよりも、目から読み取られるこころのほうを、
 美しいものにしておきたい…などとことばで言ってみた。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
他にも「体温」とか「心臓の鼓動」とか「匂い」とかもね。


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