カードワースの起点であり、終点…それが、冒険者の宿。巷に溢れるシナリオを見ると、この宿が「リューンにある」と解釈されているものが多々あります。しかし、そう決め込んでしまって、果たして良いのでしょうか。
「交易都市リューン」は、御存知の通りgroupAskの斎藤さんが製作した街シナリオです。しかし説明文を見ても、リューンが「西方諸国において屈指の大都市」であるとは書かれていますが、どこにも「宿屋はここです」とは書いていません。
確かにリューンは、カードワースをDLすれば自動的に付いてくることからも、「根元的な」シナリオと呼べるのかも知れませんが、かといってこれが冒険者の宿をも擁すると考えるのはいささか早計ではないでしょうか。「交易都市リューン」そのものを独立させて見てみたとき、それはキーレなどと同じような、単なる街シナリオとしてしか私の目には映らないのです。
リューンは単なる街。冒険者の宿との関連はない。
追記:Askシナリオ「賢者の選択」において、カナナンから生還した場合、リューンの城壁を見て、冒険者が「我々は帰ってきたのだ」という感情を抱くシーンがあることから、とりあえずはここを本拠と見なすのが妥当かも知れません。矛盾するようだけど。
再追記:「鳥の声が聞こえない」に登場する「アダン」という村は、宿から北に2日行った所にある。一方、「賢者の選択」に出てきた「カナナン」は、リューンから北に2日。もし宿がリューンにあるなら、森の中にあるアダンと、荒野の真ん中にあるカナナンが、地理的に近いということになるのだが? そんなわけでやっぱり、宿はリューンにないのかもしれません。
最近になって、CWは衰退してきたのでは、という議論がユーザーの間で非常に活発になってきています。結構面白い話だと思うのですが、何をもって「衰退」もしくは「繁栄(?)」とするのか、という根幹部分の定義付けがはっきりしていないためか、全体としてやや議論が浮いてしまっているのが残念です。
まず、「衰退」とはどういうことでしょうか。ここの定義から考えていきたいと思います。
CWは、プレイヤーのうちの一部であるシナリオ製作者が、ギルドなりベクターなり自己サイトなりにて、自分のシナリオを公表することにより成り立っています。つまりCWの盛衰は、公開されるシナリオの「質」と「量」の兼ね合いにより左右されるということです。
現在のCW界を見てみると、かつてよりも明らかにシナリオの新規登録数は減っていると思われます。(この原因については、後ほど触れてみたいと思います。)
しかし逆に、その質に関して言えば、基本的にそれまでにリリースされているシナリオを踏み台にして新たなものを作るわけですから、全体的に見て、上がっていると言うことが出来るでしょう。
まとめますと、CWは「質」においては上昇しているものの、「量」においては減衰しているということです。
私の考えとしては、CWのシステム自体が、現在の様相から大々的に変化するのでない限り、「質」に関しては、自ずと上限が見えてきたのではないか、ということがあります。一方「量」に関して言えば、現に今、減っているのですから、失礼ながら、恐らくはこのままゆるやかな減少を続けると考えられます。
総合的に見て、最盛期は最早過ぎた、もしくは今が最盛期だとしても、早晩衰退を始めるということになります。最盛期は、衰退期の一歩手前なのです。
私は別に、CWが衰退期に入ったからと言って焦りません。それは、CWが十分に巨大で強固だからです。多少衰退しても、今後なおしばらく(数年)は、問題なくプレイできる環境が保たれるでしょう。我々に今するべきことがあるとすれば、それは現状を改善していき、この衰退を少しでも減少させようという試みに他なりません。
では具体的に、これをどうすれば良いのでしょうか。
改善すべき問題は、「量」です。いくら面白いシナリオが沢山あったとしても、数が無ければどうしようもありません。逆に、沢山シナリオがあっても、どれもこれも駄作では仕方がない、という意見も、もっともだとは思いますが、別に「量」が増えても名作が消えて無くなる訳ではありませんし、なにより数が無くては全体の盛り上がりに欠けます。この盛り上がりこそが肝要だということを忘れてはいけませんね。
さて、「量」を増やすには、まず今これが減ってきた原因を探るところから始める必要があります。
なぜ、「量」は減ったのでしょうか。
無論パソコンのスペックが上がり、CWよりも遙かに高度な処理を行うソフトが大量に出現した、ということが主要因であることは疑いようもありません。しかし私は、もう一つ、CW界の「長老」の台頭も、また大きな要因ではなかろうかと睨んでいます。
感想サイトを運営しながら、質の悪いシナリオと見れば言語道断とばかりに汚い言葉で切り捨てる人。掲示板群に居座り、他人の書いた文章の文法チェックまで行うような人。こういう超良識派の「長老」の存在は、新たにCWを始めたばかりの人々にダメージを与え、その後のシナリオ製作活動を、著しく阻害するであろうことは明白です。
以前から主張しているとおり、経験者は初心者とその作品に対し、生えたばかりの新芽を踏みつぶすのでなく、水をやって立派な大木に育てることが本来の理想なのです(洗脳するという意味ではありません)。
現在のCW界では、それが全くと言っていいほどなされていない。これでは、「量」は今後とも減少するばかりだと、私は確信しています。現在の駄作は、未来の良作へとつながる礎だということに、気付いている人があまりにも少ないのではないでしょうか。
…諸行無常。
よく、CW初心者が作った街シナリオなどに対し「バランス崩壊」であるとかいった言葉を浴びせる人がいます。しかし私は常々疑問に思っているのです。すなわち、何を持って「バランス」を語るのか、ということ。
確かに、レベル比15のダメージを与えるカードをゴブリンに使うのはお世辞にも「バランスがとれている」とは思えません。が、もし、そのシナリオでは神の如く強力な敵が出てきて、このカードを使わないと勝てないほどだとしたら…?
理屈上、これはこのシナリオ内に限って言えば「バランスは保たれている」ということになります。
こういう議論をすると、「バランス論者」は決まって「リューンこそがバランスの指針であり、それに従えば問題はない」と言います。…なるほど、確かにリューンは誰しもがプレイする街シナリオですから、バランスの指針にするには打ってつけでしょう。さて、では、参考にすべくリューン装備の数値をエディタから覗かせて頂きましょう。
…はじめて見た方、驚きませんか? 設定数値が余りに低いことに。
構造上、レベル比設定は99まで入力できるのにも関わらず、入力されている数値はせいぜいが5と言ったところです。これでは、選択できる数の実質的な幅が狭すぎます。これをお手本にしていては、リューンとは名前と画像だけしか違わないカードが溢れてしまわないでしょうか。
もちろん、エディタのヘルプにもあるよう、レベル比数値は10を超えると著しく危険(強力すぎる)になってしまいますが…しかしそこはカードワース本体のプログラムの時点でなんとでもなった筈ではないでしょうか。もし、もともとリューン装備の設定数値が30だったならば、これを手本に28でも31でも、今より自由な幅で数値を入力できたはずです。
シナリオ製作の初心者の方たちは、(私も最初そうだったように)数値の重要さを余り理解できません。そういった中で、少しでも多くの人に使って欲しいという気持ちから、かえって度を超して強力な装備を作ってしまうと言うことは、十二分にあり得ることです。
色々なシナリオをこなした「先輩」の皆さんは、そういったシナリオに対し嫌悪で接するのではなく、ただアドバイスするという姿勢をとるべきではないでしょうか。キツイ言葉をかけるだけならば誰にでも出来ます。そんなことで未来の名作の芽を潰すのは、非常に勿体ない。荒れ地につばを吐くのではなく、むしろ種を蒔くような作業をしていただきたいものです。
強力すぎるカードが多いのは作者の心理上からもプログラム上からも仕方のないこと。嫌なら無視してリューン装備を使うべし。他人のシナリオにケチばかりつけるな。
追記:アイテムカードの威力に関し、アクションカードよりも弱くしなければならないという意見をお持ちの方が多いのですが、私は反対です。アクションカードは「いつでも出来る基本的な行動」だと私は考えています。つまり、パンチとか普通の剣の攻撃とかですね。…パンチよりも弱い魔法の剣なんて、非現実的すぎませんか? アイテムカード、強くて当然だと思います。その分、高価であるとか入手には強力な敵との戦闘が必須とかいった条件をつければ、それこそ「バランスはとれている」と思うのですが…。
以前、某所の掲示板で某氏の某シナリオを評してこんな意見が投稿されていました。
「タイトルに騙されました。ハートウォーミングな内容と見せかけて、中身は人が死ぬわでグロテスクで腹が立ちました」と憤懣やるかたない様子(文面は正確ではありません)。
しかし、ちょっと待てよ…。
まず、タイトルをどのようにつけようと作者の勝手ですよね(ちなみに、そのタイトルは常識的に見てなんら不快感をもたらされるようなものではありません)。作者は作者なりの考えがあってタイトルをつけているわけですから、そういった部分に関する攻撃はいかがなものかと思われます。
途端に作者に同情した私は、「これはプレイしてあげないと!!」と意気込み作者さんのサイトに向かいました。
ところが、作者さんはこの書き込みに対し、自らのサイトで大々的に反論を行っており、興ざめした私は結局DLしませんでした。そんなわけで、内容については個人的には知らないのですが…私の信用できる友人曰く、「全然グロくなどない」ということでした。
はっきり言って、シナリオ評論家さんたちは「人が死ぬ」といったような要素に関して敏感すぎると思います。昔から小説などでも様々な名作や傑作が「人の死」を取り上げています。露骨な表現で、それこそ「グロテスク」だと思われるような物も多々あります。
「プライベート・ライアン」を見た方はいらっしゃるでしょうか。銃弾が脳に突き刺さり、内蔵が腹からはみ出すシーンがいくつあったでしょう。しかしそれこそが、「リアルである」、つまり「真実に近い」姿なのです。
カードを何気なく選択し、相手を無心に攻撃しているかもしれませんが、こと現実世界において、ナイフをもって相手を刺せばどうなるか。「グロテスク」の烙印を押されている殆どのシナリオは、実は「グロテスク」ではないと私は考えます。それどころか、あるいはその方がより「リアル」なのかもしれない…そう、私は思うのです(ちなみに、私は「グロ画像」などは大嫌いです)。
グロでもないシナリオをグロだグロだと騒ぎ立てるな。仮にグロでも作るのは勝手。
カードワースの殆どのシナリオは「冒険者」を軸にして構成されています。だからなのか、何なのか知りませんが、カードワース業界には、シナリオに選択の道がなく、一本道であったりしただけで「冒険者に裁量がまかされていない」と文句を言う「冒険者第一主義者」が存在します。彼らは、「冒険者」がシナリオの核にならないと不平を漏らします。曰く、「NPCばかり目立ってPCは置いてけぼり」であるとか、「冒険者が目立たず悲しい」と言った具合です。
しかし、こういった姿勢は個人単位で好き嫌いをやるならともかく、掲示板などで主義に反するシナリオを集団リンチにかけるようになってくると困りものです。
私も、個人的には「冒険者」が立ったシナリオは好きです。しかし、シナリオ作者がそうした固定観念に捕らわれていては、今後シナリオに新たな道を拓いていくことなど不可能ではないでしょうか。
「冒険者第一主義者」さん。最近、良いシナリオが減ってきたと思いませんか? 他人の作品にケチばかりつけていては、状況は悪化するばかりだと思います。それぞれのシナリオには、それぞれの作者のコンセプトがある筈です。第三者が気安く踏み込んで良い領域とは思えません。
なお、私のシナリオ「ホーンテッド・ハウス」は、こうした「冒険者第一主義」に真っ向から反抗するシナリオです。パーティは冒険者ではなく、たまたま同行している6人の男女。カードワースの優秀なシステムを使えば、「冒険者」に頼らずとも面白い(自惚れですね)シナリオが作れることを証明したと、自分なりに解釈しています。
「冒険者」が重要な要素なのは確かだが、重視しすぎると斬新なシナリオの発現が弾圧されるのも確かである。
最近、いくつかのシナリオで「キーレへ行け」といった類の罵詈(?)を目にします。
「キーレ」とは、御存知の通りブイヨンスウプさんが製作した街シナリオであり、まぁFFⅦのコンドルフォートと言いましょうか、辺境の城砦都市らしく外敵と戦争が出来るのがウリの名作でした。
「キーレへ行け」というのは、この厳しい街の実状を踏まえたものらしく(?)、つまりは「地獄へ行け」「死ね」「逝って良し」と同義語だそうです。
…ところが、「城砦都市キーレ」をプレイしてみると、冒頭で宿の親父は、暇を持て余す冒険者に向かい「それならキーレに行って来い」と言うのです!!
つまり、宿の親父は冒険者に向かって「一遍死んでこい」と言ったということになるわけで。彼が悪人でないことは全国一億二千万の人民が理解している通りですから、ブイヨンスウプさんが許可を出したのか出してないのかは知りませんが、とにかくも「キーレへ行け」は罵詈としてはあまり適切ではないと思います。
キーレにはもうちょっと気軽に行け。