七巻後、ハリーがレギュラスの遺体を探しに来る話です。ほんのり黒兄弟。捏造過多。何でも許せる方向け。
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死にかけた弟──既に家族の縁は切れていたが──を見つけたのは、幸か不幸か、ほぼ偶然のことであった。
シリウスは騎士団員として、最近殊に目立つ死喰い人の動向を探っていた。昨日まで生きていた仲間に代わってピーターと共に後を追けていたことも、その死喰い人が懐かしの生家を訪れたことも、そしてそこで窶れ果てた弟の姿を見たことも、全てが偶然だったのだ。
最後に顔を見たのはいつのことだったか。屋敷しもべと共に敷地から出てきたそれは記憶より明らかに痩せ目が落ち窪んでいた。自重も支えられないのかふらついて門扉に寄りかかり、屋敷しもべがおろおろと足元を彷徨う。屋敷の影になったそこにぼんやりと、真っ黒いローブの隙間から青白い顔が浮かんで見えた。
彼は屋敷しもべと短く言葉を交わし──隈の色濃い目を細め小さく笑んだのが最後だった──パチンと音を立て消えていった。
死喰い人が煙突飛行ネットワークを使わずに行く場所などたかが知れている。そこで漸くシリウスは彼が敵であることに思い至ったのだが遅きに失した。今になってみると、このタイミングで姿をくらますその裾なりを掴んでいれば何かが変わっていたかも知れないとさえ考える。逃した時間は戻らない。ただ遅すぎたのだ。
暫くして、屋敷の前に戻ってきたのは異様に取り乱した様子の屋敷しもべただ一匹だけだった。中の者に醜態を晒すまいと考えたのだろう、屋敷の影に蹲りレギュラスの名を呼びすすり泣いていた。
耐え兼ねたシリウスがその居場所を問い詰め、あのおぞましい湖から彼を引っ張り上げ聖マンゴに運んだときには──弟は既に息をしていなかった。
「生きている訳ではありません」
若い癒者が告げた。シリウスが聖マンゴから金で買い取った癒者だ。目覚めない弟を聖マンゴに隠匿してから、そのことを知っているのはシリウスを除いて彼一人だった。それ以外──クリーチャーは勿論、他の癒者にもだ──にはオブリビエイトを掛けてある。同行していたピーターには適当に誤魔化した。
「……しかし死んでいるとも言い難い」
シリウスは眠る弟に手を触れることもできず呟いた。一旦は息が止まり心臓も機能を失ったが、今はこうしてベッドの上で安穏に息をし血を巡らせている。ただ、意識が戻らないだけだ。
このまま弟を生かすかどうか、シリウスは未だ結論を出せていなかった。
癒者の掛けている魔法は一定かつ単純で、余程のことがなければ綻ぶことはない。魂を失い回復の余地のない弟は、魔法を掛け続けていれば眠り続けたまま体が衰え、そしていつかひっそりと死んでいくのだろう。
それなら今そうしてしまったほうが賢明だ、と思った。当人にとっても幸せだろう、とも。
しかし今魔法を解けば忽ち、弟は死ぬのだ。
心臓が止まり体温が消え、二度と息をしなくなる。肌は青ざめ、髪や爪が伸びることがなくなる。
そんな弟の〝二度目の死〟を想像してみた。シリウスは更にその先を考えることができない。考え始めると体が氷より冷たい水に浸かっている心地がするからだ。
幸い彼を寿命まで殺さずに済むだけの金はあった。シリウスはそうして癒者を雇い治療を続けている。
「なあ、お前はどうしてあんなことになったんだ?」
シリウスは眠る弟に問いかけた。あのおぞましい湖で襲って来た亡者は闇の魔法によるものだ。彼は例のあの人から逃げたんじゃなかったのか? それなら何故わざわざ赴いた。屋敷しもべまで連れて、何をしに、何の為に?
屋敷の前で姿をくらます直前に見た、あの薄ら寒い、しかしどこか温度を持った微笑が脳裏を過る。狂気と安堵と諦観、そしてあれは何だ、慈愛? シリウスは弟のあんな表情を見たことがなかった。もっとも家族という意識すら希薄な兄弟関係であったのだ。ホグワーツに入学してからというもの互いの顔など大して見ても来なかったので、当然と言えば、当然かもしれないが。
シリウスは目を閉じ弟の顔を思い浮かべた。思い出されるのは年端もいかない頃の無邪気なそればかりだ。
小さな頃は仲の良い兄弟でいれた。
親の言うことは理解ができなかったし、それを理解する弟のことは不思議で仕方がなかったが、それでもシリウスにとってレギュラスはたった一人の弟だった。レギュラスはシリウスのことを何でも真似したがったし、シリウスもそんなレギュラスを守ってやりたかった。
ただ逆に言えば、家族だということ以外に二人を繋ぐものは何も無かったのだろう。
「あの」
癒者の声に顔を上げると、おずおずと窓際の花瓶を指差される。
「これは……?」
「来る途中で買って来た花瓶だ。マグル製だから何の魔法も掛かってない」
病院では──特に精密な治療を要する患者の近くでは、魔法の相互作用や過干渉を避ける為魔法道具の持ち込みは一応禁じられていた。守る魔法使いはごく少ないが。
「いえ、そうではなくて、ブラック様の持参された花を活けようとしたのですが」
「そうしてくれるとありがたい」
「その、少しひび割れているようでして」
花瓶をよく見ると、底近くに僅かなひびが入っているのが分かった。ガラス製のそれは窓越しの空を透かして青みがかって見える。しかし光の下でやっと視認できる程度の小さなひびだ。
気が付かなかった。
「直してもよろしいでしょうか? 今は問題ありませんが、長く使えばひびは広がります。水を入れても漏れ出るようになってしまいますので」
「長くって……あー、どのくらいで?」
「それは場合によりますが、数年でしょうか」
「物知りだな」
「マグル生まれですので」
癒者は無感動に微笑んだ。
「今は、まだ直さないでいい」
花瓶に清潔な水を満たし、持参したバーベナを丁寧に活ける。
すると小さな割れ目からぷつりと水滴が浮かんだ。陽光を受けゆらゆらと艶めいている。シリウスはその雫を親指でそっと拭った。
「これが使い物にならなくなる前にまた来て、彼をどうするか結論を出そう」
だからそれまで、よろしく頼む。
そう言ってヴェールで区切られた病室を出たのが最後だった。
どうして今、こんなことを思い出したのだろう。
シリウス・ブラックの体はゆっくりと、黒いヴェールのほうへと傾いでいく。あの病室の入り口も黒いヴェールだったな、と意味もなく考えた。病室のものはここと違い擦り切れてはいなかったが。
あのすぐ後、親友夫妻は死に、自身は無実の罪で長い間投獄された。脱獄後も眠り続けていた弟のことなど考える暇もなく、結局あのときが彼に会う最後の機会だった。当然、あのときに言った〝結論〟など出せてもいない。
勝ち誇った従兄妹の顔が遠くに見える。ハリー、お願いだからそんな顔をしないでくれ。
ひどく緩慢に時間が流れているようだった。頭の中を走馬燈が駆け巡っている。義息子、親友達、教師達、親、様々な人との記憶が大量に逆流している。兄さん、と小さな声に振り向けば、弟は泣きそうになりながらその顔に笑みを浮かべていた。変な顔してどうした、としゃがみ目線を合わせる。なんでもない。小さな手がシリウスの顔を挟んだ。その掌は温かく、しかし確かに震えていた。そんな訳ないだろ。言葉は形を成さず消えてしまった。
そろそろ走馬燈も終わりが迫っているようだ。擦り切れたヴェールがすぐ上にゆらめいている。
弟はまだあの病室で眠り続けているのだろうか。
このヴェールの先に、あの日助けられなかった弟の魂は辿り着けているのだろうか。
この先にゆけば、恐らくすぐに分かるだろう。
鬱屈とした水分が体に纏わり付く。杖灯りを反射して暗がりに黒い湖面が浮かび上がった。先程まで色濃かった潮の香りは消え失せて、この洞窟には生命の気配が欠片も存在しないようだ。三兄弟の物語に出てきた死がねぐらにするなら、ここほど適した場所は無いように思われた。
中心の孤島には、エメラルドの燐光が見える筈だった。しかし前回と違ってそこには闇しか見当たらない。どうやら光のもとであった薬の入った水盆は派手にひび割れて、既にその役割を放棄しているようだった。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいました」
出し抜けに声が響いた。ハリーは音の方向へと目を凝らす。誰もいない。いや、ある。そこには凡そ生物でない何かがいた。
輪郭を持たない乳白色の靄が闇の中に広がっている。
「歓迎しますよ」
出せるお茶もありませんが、と付け加えそれは薄く笑った。
ハリーはもう一度目を凝らす。杖灯りを広げ、暗い洞窟の岩の割れ目から冷たく澄んだ湖の向こうまで、その声の主を探して見渡した。
それでもそこには誰もいなかった。思いつく限りの幻覚避けを掛けるも結果は同じだ。
誰もいない。その筈だ。
その不在を補っているのか、先程の乳白色の靄はまるで自身が人であるかのように振舞っていた。忙しなく動く朧気な細長い物体は注意深く見れば、人の四肢にも見えないことはない。声の感じからして、男性だろうか。ハリーがその様子を窺っていると、その靄は勝手にしゃべり始める。
〝それ〟はRと名乗り、自分は生きた人間でもゴーストでもないのだと主張した。
「じゃあ、お前は誰だと聞かれても困りますがね」
「亡者?」
「それは僕のように話しはしないでしょう」
くつくつと笑い声がする。境界線の曖昧なそれは幽かに肩を揺らしたように見えた。
「ところで今は何年ですか?」
「……一九九九年」
「そんなに経っていたのか」
「あなたは、いつからここに?」
「僕の記憶が確かならば、十七年前からになりますね。人と話すのも十七年ぶりだ。実はずっとここから出られずに困っていたのです。少し前に湖からは出られるようになりましたが、やはり死体のあるこの洞窟からは逃れられないようだ」
「ここから出られないんですか?」
「ええ」
「なら死体も、ここに?」
「そう言っているでしょう」
ハリーの重ね重ねの問いかけに、彼は苛立って鼻を鳴らす仕草をした。ハリーにそう見えただけかも知れない。
淡い色の虹彩がすうと細まり、彼は僅かに首を傾げる。
「貴方は何故、こんなことを聞くのでしょうか?」
怜悧な視線がハリーを刺した。
限りなく曖昧だった靄はいつの間に、痩身の青年に形を変えていた。古めかしいローブに身を包み、痩せこけた頬、僅かに吊り上げられた薄い唇。こちらを射抜く鋭い目は、よく知った人のそれと形が似ている。
「……僕は、シリウス・ブラックの名付け子です。聖マンゴに匿われる貴方とよく似た人物を見て──レギュラス・アークタルス・ブラック、あなたの遺体を探しに来ました」
* * * * *
「そんな筈はない」
抑揚のない呟きが落とされた。
「私の死体はここにある。あのまま冷たく黒い水底へと沈んでいって、靄のように境界線を失い醜く漂っている筈なんだ」
「その死体はどこに?」
「あのとき亡者に引きずり込まれて真っ黒な水面を見たのが最後だった、気が付いたら湖の中にいた。この湖は深い。一度底まで行こうとしたけれどあまりに深くて、それに行っても何もできないと思ったからやめたんだ。そうだ、僕は、自分の死体を見たことがない」
ハリーの言葉が聞こえていないのか、彼はぶつぶつと言葉を連ねる。ゴーストより少しだけ明確な輪郭が横へ揺れ縦へ揺れ、湖中に潜ったかと思うと目の前に現れハリーに迫った。
「教えてください、それは本物のレギュラス・ブラックだったのですか?」
「……クリーチャーは、本物だと」
「クリーチャー⁉」
彼は殆ど悲鳴のような声を上げた。端正な顔が瞬く間に歪み、震える声がその安否を訊ねる。
「クリーチャーはまだ、生きてますよ」
「そう……それは、よかった」
途端に、磔の呪文でも掛けられたのかと思うほどに歪んでいたそれが緩み和らいだ。ほう、と息を吐く音が聞こえる。ハリーがその表情に既視感を覚えたのは、彼が名付け親とよく似た目元をしているからだろうか。
「今、彼はどこに?」
「あなたの肉体のある場所に」
「僕はここにいるのに」
「何を言っても離れようとしないんです。彼にとっての主人はあなただから」
ハリーはぎこちなく苦笑した。嘘は吐いていない。元々老衰故に体調が芳しくなかったクリーチャーは無理が祟って相当に衰弱していた。まだ盆を持てると言い張りながら満身創痍でレギュラス(と思われる人物)の体を清め薬を与える姿は見ていて痛々しいほどだ。しかしハリーはその事実を敢えて告げる気にはなれなかった。
「わかりました」
無表情でそう言うと彼はひらりと身を翻した。ゴーストのように宙に浮き、クィディッチ選手のように水面を移動する。ぼんやりと発光したそれが何も言わずに遠ざかるのでハリーは焦った。ちょっと、と声を掛けるが、レギュラスは意に介することなく真っすぐどこかへ飛んでいく。
「別に、貴方を信用した訳ではない。貴方の姿形にはどうしてか、良い印象が無いのです。ただ私だって記憶があまりに曖昧だ。ついさっきそれに気が付きました。曖昧なことは嫌いだ。だから互いの為にも確かめてしまいましょう、と言っています」
彼は水面すれすれを移動しながら言った。水盆の近くで急ブレーキをかけたかと思うと、暫くその周りをぐるぐると回る。何かを探しているようだ。
「そう、ここ、ここでした。僕はここから沈んだ」
レギュラスはピタリと動きを止める。それからうわ言のようにそう呟いた。
ハリーは辛抱強くその先の言葉を待ったがそれきり彼は何も言わない。沈黙が場を支配した。
「何をしているのです?」
痺れを切らしてハリーが口を開きかけた矢先にレギュラスがこちらを振り向いた。
「〝何を〟?」
「こちらへ来てください。まさか渡り方が分からないなんて言いませんよね?」
軽薄な物言いに図らずもハリーはムッとした。目元や髪は似ているような気がしていたが、中身のほうはまるで違う。シリウスとは似ても似つかない。
「そのくらい分かります。でも、あなたが何をしたいのか僕には解らない」
「何って貴方の言ったことでしょう? 僕の死体がきちんと腐っているかどうか確かめたいのではありませんか? まったく、私がみっともない死体の居場所をわざわざ教えてやっているのに」
「わかった、わかりました。ミスタ・ブラック、君の指示に従えばいいんでしょう」
ハリーは半ばヤケクソで、記憶の糸を手繰り寄せ手繰り寄せO.W.L.を受けたときと同じくらいに頭を使ってダンブルドアの手順を繰り返して舟を引っ張り上げた。
ハリーが苦戦しているのをレギュラスはただ見物していたので、苛立ちをそのままに舟を乗り上げる際水をわざとまき散らした。だが飛沫はすっかりその体をすり抜けてしまう。
「こちらです」
レギュラスは半透明の指で地面を指し示した。水盆の設置された島は少し焦げている。前回ハリーとダンブルドアがここを出て行くときに炎を盾代わりにしたからだ。
指差した地面をハリーがよく見てみると、黒く煤けた岩の、ちょうど掌で包める大きさの特徴的な出っ張りがあった。
「亡者に引き摺りこまれるとき必死にここを掴んでいたのです。薬で弱っていたので結局引き摺りこまれて、その後すぐ死んでしまいましたが」
まるで薬で弱っていなかったら死んでいなかったとでも言いたげだ。
「じゃあ、レギュラス、君はこの付近の水底に沈んでいる筈だってことですか?」
「ファストネームで呼ばれる筋合いはありませんが、そのとおり」
レギュラスは空中で長い脚──腹の立つことに脚の長さはシリウスとそう変わらないのだ──を組んだ。
気だるげにくるりと一回転、マリオネットのように首を傾げて頬杖をつく。
「では僕はここで見ていますから、どうぞ存分にお探しください」
ニコリと音の付きそうな笑い方だ。