「フリスター・ラージ・ユロージヴイ(キリストのためのユロージヴイ)」と呼ばれることもある。また「ユロージヴイ」は男性形であって、女性形は「ユロージヴァヤ」という。ロシア正教における苦行者の一種で、この中から多くの聖人が生まれた。日本では「佯狂者」「聖愚者」「聖痴愚」「瘋癲行者」など様々な言葉に訳されている。
ごく大雑把にまとめるなら、ユロージヴイとは常人のような知性を持たぬ痴愚者として生き、その生き方自体を神に近づくための苦行とする人々のことである。もともとはビザンツの伝統を汲む存在であるが、とりわけ中世のロシアで流行し、その中から多くの聖人を輩出した。ただし、ユロージヴイが実際に狂える者であるのか、あるいはそのように装っているだけなのかはどうもよく分からない。日本語訳の不統一(「佯狂」と「痴愚」)も、ユロージヴイ理解の難しさを物語っている。実際には様々なケースが存在したのではないかと思う。
いずれにせよ、ユロージヴイたちは社会の中にあって社会と交わらず、一切の財産を持たず、裸や裸足、あるいは苦行のため鉄の首輪・鎖を身につけるなど、特異な姿で生活していた。列聖されたユロージヴイの中でも特に名高いヴァシーリー・ブラジェンヌイは、イコンの中では常に裸で描かれているが、これはユロージヴイの象徴なのである。そうしてユロージヴイたちは、明らかに常軌を逸した言動を続け、時には権力者に対して無礼な振る舞いをする場合さえあったが、しかし彼らを咎める者はなかったという。ユロージヴイは狂者として社会の埒外にあり、それ故に常人が守るべきあらゆるルールから自由であった。
そればかりでなく、ユロージヴイは大いなる神聖さを身にまとった者として、人々に敬われる存在であった。ユロージヴイはしばしば予言や奇蹟を行ない、人々に救いの手を差し伸べ、あるいは警告を発した。つまりは人間でありながら半ば人間を超越した、神に近い存在として認識されていたのである。列聖されたユロージヴイたちの聖者伝は、彼らが生前あるいは没後になした様々な奇蹟についての記述で満ちている。
ユロージヴイについて具体的なイメージをつかみたければ、プーシキンの戯曲「ボリス・ゴドゥノフ」を読まれるといいだろう。この作品に登場するニコルカは、ユロージヴイの文学的形象としては代表的な存在である。
ニコルカはモスクワの人々に深く敬われているが、子供たちは彼をからかい嘲笑する。おそらく、子供は(ユロージヴイと同じく)社会的なルールが適用されない存在であり、ある意味ユロージヴイと「台頭な」関係を築くことができたのだろう。そこに皇帝ボリス・ゴドゥノフが現れると、ニコルカは子供たちに嘲弄されたことを訴え、ボリスに向かってこう呼びかける。
「ボリスやボリス、あの子供たちを殺しておくれ…お前が皇子を殺したように!」
この作品におけるボリス・ゴドゥノフは、自らの野望のため現実に皇子ドミトリーを殺害し、しかもその罪の意識に悩まされる人物として描かれている。それ故に、ニコルカの言葉は皇帝ボリスの心の闇を衝き、大きな痛手を与えたはずだ。しかしながら、ボリスは彼を罰することができない。
このように、ユロージヴイという存在は極めてユニークであり、我々の目から見れば異様にさえ映るかも知れない。しかしながら、ユロージヴイがかつてのロシア社会に受け入れられ、そればかりか大いなる尊崇を集めていたことは紛れもない事実なのである。
それでは、ユロージヴイはなぜ尊いのか?手許にある正教百科事典によれば、ユロージヴイとは、神に近づくため最も困難な苦行を自らに課す人々のことなのだという。荒野でひとり孤独に堪えながら神への祈りに専念する修道士とは違い、彼らは俗の中にありながら俗を捨てている。つまり、人間社会が生み出すあらゆる誘惑を目の当たりにしながらそれを顧みないという、非常に高度な修行を行なっているわけだ。ユロージヴイたちは財産や快適な生活スタイルを自ら放棄し、家族を初めとする近親者とも交わらず、そればかりか通常の人間が持つ知恵・理性といったものまでも信仰のために捨て去っている。
このように、常人には想像すらできないほどの巨大な犠牲を払い、また苦行に堪えているからこそ、ユロージヴイは一般の人々から畏怖され、神聖な存在として受けとめられていたのである。究極の修道士、と言えるかもしれない。
一方で、社会との縁を徹底的に捨て去っていたユロージヴイが、ある意味では逆に社会的な役割りを果たしていた側面があり、この点もまた非常に興味深い。上述の通り、ユロージヴイは相手がツァーリであろうと恐れることなく物を言うことができ、その言葉は神の言葉と受けとめられていた。つまり彼らは、強大な権力を持つ為政者に対して、社会の底辺からの声を伝え得る存在であった。
プスコフのユロージヴイであったニコライ・サロスが、イヴァン雷帝を叱責して街を破壊と劫略から免れさせた逸話などはその典型例だろう。地上の何者をも恐れず、府主教でさえ死に至らしめた傍若無人な雷帝が、何の力も持たないユロージヴイには逆らえなかったのだ。
中世のロシアでは、ツァーリや貴族たちが自らユロージヴイを養っていたという話もある。当時のユロージヴイたちが、社会のバランスを維持するために一定の役割りを果たしていたと見るのは考えすぎだろうか。
もう1つ注目すべきは、ユロージヴイが流行した時期である。ロシア正教会が列聖したユロージヴイの数は、14世紀に4人であったのに対し、15世紀には11人、16世紀14人、そして17世紀には7人。つまり、15世紀と16世紀に際立って集中しているわけで、モスクワ大公国の隆盛・ロシア帝国への変貌と歩調を合わせるかのように、ユロージヴイもその最盛期を迎えたことになる。
一方でユロージヴイの落日は、ロシアの近代化と時期的に重なっている。ピョートル大帝の時代以降、教会が完全に国家の軍門に下ると、ユロージヴイが列聖されることは絶えてなくなった(これは1988年まで続いている)。また、警官はユロージヴイを取り締まりさえしたという。「徒食者」を何よりも嫌い、社会の世俗化・紀律下を進めたピョートル大帝の下、ユロージヴイはその居場所を失ったのである。つまりユロージヴイは、すぐれて中世的な存在であったと言うことができるだろう。
(06.05.05)