セルギー・ラドネシスキー 1320頃-1392

 修道士。俗名ヴァルフォロメイ。ロストフ公国の貴族の子として生まれ、後に家族がモスクワに近いラドネジに移住したため「ラドネシスキー」の呼び名を得る。幼時には知恵のつくのが遅かったが、あるとき不思議な老修道僧に出会ってからスラスラと聖なる書物を読みこなせるようになったという。若い頃から神に仕える道を志し、両親の死後に修道士として出家。兄ステファンと共に人里離れた森の中で教会を建て、労働と祈りの生活を始める。後にステファンが街へと去り、孤独のうちに修行を続けることになった。
 やがて森に住む隠者の噂が広まり、その徳を慕って弟子入りする修道士が増え始める。ここに新たな修道院が誕生し、セルギーは院長に選ばれた。後に、コンスタンティノープル総主教フィロテオスの助言により、修道院は共住制の原則を取り入れた。こうして大規模な僧団の指導者となってからも、セルギーは昔と変わらず謙虚であり続けた。
 セルギーが創建したこのトロイツェ(三位一体)・セルギエフ修道院は、ロシア正教会を代表する大修道院の1つとして多くの巡礼者を集めており、セルギー自身の遺骸もここに葬られている。1422年に列聖され、祭日は命日にあたる9月25日と遺骸が不朽体として見い出された7月5日、さらに5月23日(ロストフ・ヤロスラヴリの諸聖人の日)と7月6日(ラドネジの諸聖人の日)。

 ロシアで最も崇敬されている聖人の1人。生前より多くの奇跡を成し遂げたとされ、聖母がセルギーの前に現れた話などがよく知られている(このエピソードにヘシュカスモス即ち静寂主義の影響を見る向きもある)。
 セルギーが森に入ったのは、もちろん当人にとっては神への祈りに専念するための行為であったろうが、一面では圧倒的な生命力を誇る自然に対する人間からの挑戦でもあった。聖者伝によれば、森の様々な悪霊がセルギーの修行を邪魔しようとし、また獣たちが身の回りを徘徊したという。これに動じることなく、また森のシンボルたるを手なずけたというエピソードは、自然の克服を象徴するものと考えられる。そして修道院の回りには農民たちが移り住み、森を切り開いていったのである。
 当時のロシアでは、修道士たちが修行の場として荒野を選び、森林に分け入ることが多かった。その後に移住者が続いて集落を形成すると、新たな修道士が奥地へと入っていく。このプロセスは、修道院が開拓・植民の尖兵役を務めたと表現できるかもしれない。また、世俗を離れて神に身を捧げた修道士たちの生活は、彼らの周囲に集まった農民たちに精神的な影響を与えたはずである。そしてセルギーこそは、こうした時代の動きを代表する人物であった。後にセルギーの弟子の中からも、師と同じく新たな修道院を開基する者が出ている。
 一方でセルギーは、ひたすら世俗を離れていたわけではなく、当時のモスクワ大公国政府に協力的な行動が目立っている。クリコヴォの戦いに赴く大公ドミトリー(ドンスコイ)を祝福したというエピソードはよく知られているが、その他にも大公と他の諸公の間で和平を仲介するなど、自らの宗教的権威を利用してモスクワの政治活動を支援した。そしてモスクワ大公国は、教会の助けを借りつつ着実に力を伸ばし、ロシアの統一に邁進していく。その意味でも、セルギーは時代の趨勢を体現した人物であったと言えるだろう。

(05.03.30)


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