ピョートル・ムーロムスキーとフェヴロニヤ・ムーロムスカヤ ?-1228?

 聖者伝によれば、ピョートルは元々ムーロム公パーヴェルの弟であったが、兄嫁が翼の生えた邪悪な蛇に悩まされているのを知り、伝説の名刀「アグリクの剣」の力を借りてこれを退治する。ところが断末魔の蛇から毒の血を浴びせられたため、ピョートルは重い病に苦しめられる。全ての医者が匙を投げたこの病を唯一治すことができたのが、蜂蜜取りの娘にして尋常ならざる知恵の持ち主フェヴロニヤであった。彼女は治療と引き換えにピョートルの妻となることを望み、最初は卑しい身分の故に忌避されるが、紆余曲折の後に結婚してからは夫を魅了し、固い絆で結ばれる。そして兄パーヴェルの没後、ピョートルはムーロム公の位に就くこととなった。
 しかし貴族たちはフェヴロニヤの出自を問題とし、公夫妻を追放してしまう。逆境の中でも互いに忠実であったピョートルとフェヴロニヤは、貴族たちが内訌により自滅した後、再びムーロムに迎え入れられる。2人は晩年に至るまで仲睦まじく暮らし、死の間際にはそろって修道士となると、同日同時刻にこの世を去った。人々は遺言に反してピョートルとフェヴロニヤを別々の場所に葬ろうとするが、遺骸はいつの間にか(彼らが生前に作らせておいた)同じ棺に戻るという奇跡が起き、死後も夫婦並んで眠り続けている。
 1547年の教会会議により列聖。祭日は逝去の日である6月25日と6月23日(ウラジーミルの諸聖人の日)、7月16日(府主教マカーリーにより列聖された諸奇跡成就者の日)。

 ピョートルとフェヴロニヤの歴史的な輪郭は、実はそれほどはっきりしてはいない。一般には、13世紀のムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチ(1228年没)がピョートルと同一視されている。「ダヴィド」とは、聖者伝中のピョートルが死の直前に与えられた修道士名なのだ。また、ダヴィド公にはエフフロシニヤという名の妻がいたが、こちらの方はフェヴロニヤの修道士名と同じである。さらにダヴィドは兄(ウラジーミル・ユーリエヴィチ)からムーロムの公座を受け継いでおり、この点もピョートルと共通する。ただし、ダヴィド公自身は際立った活躍をした人物とは言い難く、どうして聖人のモデル(?)となったのかはよく分からない。
 しかしながら、聖ピョートルとフェヴロニヤの存在は教会当局の認めるところであり、その聖者伝『ムーロムのピョートルとフェヴロニヤの物語』(邦訳はこちらに収録)も数多くの写本で伝わる。魔性の蛇との戦い、賢明な娘と権力者との知恵比べ等々、ファンタジックな民間伝承の要素が色濃く残り、教会公認の聖者伝としては異色の内容である。この物語がそれだけ多くの人々に愛されてきた証左で、両聖人に対する信仰も根強かったのだろう。他方、貴族による公の追放と内乱、要請を受けての復帰という筋立ては、リューリク招致伝説やイヴァン雷帝統治初期の政治的情勢を反映しているかのようで興味深い(ちなみに聖ピョートルとフェヴロニヤ伝を編集したと伝えられる修道士エルモライ・エラズムは、イヴァン雷帝とほぼ同時代の人物である)。
 さらに、ピョートルとフェヴロニヤは「男女の愛」「夫婦・家族の絆」といった普遍的な価値観を体現する存在でもあり、これも時代を超えて崇拝される理由の一つではないかと思う。身分を超えた純愛というプロットは、13世紀にも21世紀にも変わらぬ人気を博している。また、人口減少問題に悩むロシア当局は、どうやら家族や愛情の守護者である聖ピョートルとフェヴロニヤに目をつけたようだ。2008年頃からは各地の結婚登録所などに2人の像を建てるキャンペーンが始まっている。聖なる夫婦も、思わぬところで出番が回ってきたものである。

(12.12.25)


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