ニコラ・スヴャトーシャ 1080?-1143?

 俗名スヴャトスラフ・ダヴィドヴィチ(「スヴャトーシャ」は「スヴャトスラフ」の愛称)。リューリク家の一員であり、チェルニーゴフ公ダヴィドの子、スヴャトスラフの孫、ヤロスラフ賢公の曾孫にあたる。史料初出は「原初年代記」1097年の項。この当時のルーシでは、キエフ大公スヴャトポルクやウラジーミル・モノマフ(共に父ダヴィドの従兄弟)を初めとする公の一族が骨肉の内戦を繰り返しており、スヴャトスラフも否応なく諸勢力間の争いに巻き込まれていた。ところが1106年、スヴャトスラフは突如として全てを捨て、キエフのペチェルスキー修道院に入ってしまう。彼はそこで剃髪し、ニコラ(ニコライ)の僧名を与えられた。
 修道士となったニコラは、修行のために修道院内の様々な仕事を進んで行った。厨房で働き、門番を務め、食堂での給仕役をもこなしている。彼の兄弟たちやシリア人の侍医ピョートルは、当然のことながらニコラのこうした振る舞いを嘆き、身分にふさわしくない修道士としての生活を止めるよう説得したというが、ニコラの決心が揺らぐことはなかった。
 結局、ニコラはペチェルスキーから出ることなく30年以上の修道士生活を送り、修道院の中で亡くなった。ニコラが亡くなったことを知ると、キエフのほとんど全ての人々が修道院に集まったと伝えられている。祭日は逝去の日にあたる10月14日、さらに9月28日(キエフ・ペチェルスキー修道院の近い洞窟の諸聖人の日)と大斎期の第2週(キエフ・ペチェルスキー修道院の諸聖人の週)。

 公や大公・皇帝の一族で列聖された者は少なくないが、ニコラ・スヴャトーシャはその中でも異彩を放っている。権力や財産を全て放棄し、修道院に入るという思い切った生き方は、支配者の中ではやはり異例なものであった。「ペチェルスキー聖僧伝」に収められたニコラ伝によると、侍医のピョートルは彼を諌めて「世間ではあなたが狂ったのではないかと思っている」と述べているが、一般にはニコラの出家を理解しない者の方が多かったのだろう。
 「聖僧伝」によれば、スヴャトスラフは漠然とこの世のはかなさを感じ、来世の幸福に憧れて出家したかのように書かれている。しかし年代記を読むと、より具体的な動機があったという印象を受ける。11世紀から12世紀にかけての転換期、ルーシの地では内訌に次ぐ内訌が繰り返され、同族であるはずの諸公がいがみ合い、争っていた。しかも、スヴャトスラフのように勢力の小さな公は、生き残るために裏切り行為をも避けて通るわけにはいかなかった。おそらく内省的で感じやすかったスヴャトーシャ=ニコラは、乱世で公の位にあることに空しさを感じ、修道士という生き方に憧れるようになったのではないか。見方を変えれば、有為転変に疲れ果てた人々の心を惹き付けるほどに、キリスト教がルーシ社会に浸透しつつあったことの証左であろう。
 ところでニコラの兄弟であるイジャスラフ・ダヴィドヴィチ公は、権力を求める争いの中で一生を送り、ダヴィド一門の中で唯一キエフ大公の座をも手に入れている。また、イジャスラフはスヴャトスラフの修道院士生活を止めさせようと、何度も意見していたという。しかし一方で、「聖僧伝」によれば、この2人の間には特別なつながりがあったらしい。ニコラの没後、重病にかかったイジャスラフ公はニコラの奇跡によって救われている他、戦いの際には常にニコラの遺品であるヴラシャニツァ(修道士の着る苦行衣)を着用して戦場を疾駆し、かすり傷1つ負わなかった。しかし、ある時「罪を犯したので」衣を着けずに戦場へ赴き、そこでついに戦死したのだという。性格も生き方も正反対の兄弟だが、もしかすると、自分にはないものを持つ相手を認め、尊敬し合っていたのかもしれない。

(05.05.01)


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