ユロージヴァヤ。サンクトペテルブルクに生まれ、アンドレイ・フョードロヴィチ・ペトロフ大佐の妻として幸せな家庭を築くが、わずか26歳で夫と死別したことからその生活は一変する。程なくしてクセニヤはその奇行で知られるようになり、手許に残った財産を全て人に譲り渡すと、自らは亡き夫の衣服を身に付けて通りを歩くようになった。そして、彼女は自らが夫アンドレイ・フョードロヴィチであるかのように振る舞い、「亡妻クセニヤ・グリゴーリエヴナ」について語ることさえあったという。
決まった居場所を持たず、奇妙な格好のままペテルブルクの街をさまよい歩くクセニヤは、人々の好奇と嘲笑、あるいはあわれみの対象となった。しかし、次第にクセニヤに対するペテルブルク市民の態度は変わっていき、実は神に全てを捧げた聖痴愚者であるのだという評判が高まった。クセニヤに関する伝説は多く、例えばスモレンスコエ墓地に新たな聖堂が建設された時、彼女は夜中に工事現場に入り込み、1人でレンガを運んでいたという話がある。エリザヴェータ女帝とアンナ女帝の逝去を予言するなどの予知能力もあり、多くの人々が彼女に助言を求めた。さらに、クセニヤがお客に来てくれれば商売が繁盛すると言われ、市場の売り子や辻馬車の御者たちは競って彼女を招こうとした。
クセニヤ・ペテルブルクスカヤは19世紀初頭に亡くなった(1824年の大洪水により、彼女とその夫の生没年に関する記録は失われているらしい)が、その墓所は様々な奇跡を起こすということで崇拝の対象となった。巡礼者たちは、霊験あらたかなクセニヤの墓石を削って持ち去ったとさえ伝えられている。列聖はまず1978年、在外ロシア正教会によって行なわれ、10年後の1988年(この年はルーシの洗礼1000年祭にあたっていた)にロシア正教会もクセニヤを聖人として認めた。祭日は守護聖人である聖女クセニヤと同じ1月24日。また、在外ロシア正教会では列聖の日である9月11日をもクセニヤの祭日として定めている。
クセニヤの「狂気」の背景は、他のユロージヴイたちに比べて分かりやすいと思われるかもしれない。若くして愛する夫を失い、その悲しみの故に正気を失うというのは、確かに大いなる悲劇ではあるが、決して説明のつかない出来事ではない。少なくとも、現代に生きる我々にとっては理解できる範囲にとどまっている。
一方、現代であれば完全に心の病気と解釈され、隔離と治療の対象になったであろうクセニヤの振る舞いが、純粋な信仰の実践として崇められた点に、ロシア独自の宗教的伝統が現れている。しかもこれは、ピョートル大帝によって近代化/西欧化が進んだ時代、最もヨーロッパ化が著しいはずの帝都ペテルブルクでの出来事なのだ。それほどまでに、ロシア人はユロージヴイという存在を身近なものと感じていたのである。
もっとも、帝政時代には遂にクセニヤの列聖が実現しなかったことを考えると、やはりピョートル以降のロシアの公式見解ではユロージヴイを憚る部分があったのかもしれない。裏を返せば、20世紀末に至って再びユロージヴイ信仰が「復活」したわけで、この点にもロシア社会の変貌を見て取ることができるだろう。
(06.11.30)