修道士。俗名コシマもしくはコズマ。モスクワの貴族の家に生まれ、若い頃は親戚筋にあたる名門ヴェリヤミノフ家に仕えていた。しかし1380年にはシモノフ修道院に入り、修道院長フェオドルの手で剃髪、修道士キリルとして厳しい修行を始める。キリルは最も厳しい台所での労役に耐えたばかりでなく、時にはユロージヴイとして振る舞うことで故意に人々の嘲笑を受け、恭謙の心を養ったという。また、フェオドルの叔父にあたるセルギー・ラドネシスキーは、シモノフ修道院を訪れた際には常に台所番のキリルと語り合うことを好んでいた。
1390年にフェオドルがロストフ主教として転出すると、キリルはその後任としてシモノフの修道院長に推される。しかしキリルの志は、大修道院の長として権勢を振るうところにはなく、寧ろ都会の喧噪を離れ静寂の中で神に近づくことを望んでいた。ある夜の祈りで聖母からの啓示を受けたキリルは、同じシモノフの修道士であったフェラポントと共に修道院を去り、はるか北方・ベロオーゼロの地を目指す。ここでキリルは、聖母に示されたのと同じ土地を見い出し、孤独のうちに(フェラポントはより奥地へと進んだ)神へ祈りを捧げる場として選んだのである。1397年、キリル60歳の時のことであった。
やがてシモノフ修道院にもキリルの消息が伝わると、複数の修道士がその後を慕ってベロオーゼロの地へと向かう。この他にも俗を捨てて修道士となることを志望する者が集まり、キリルの下には1つの僧団が形成された。これが、後に北ロシア最大の修道院の1つへと成長したキリロ・ベロジョールスキー修道院の始まりである。キリルは弟子たちのために極めて厳しい規則を導入したという。一方でキリルはモスクワ大公ヴァシーリー1世の助言者の1人であったとも伝えられ、決して世俗の権力との関わりを排除したわけではなかった。
生前より数々の奇跡や予言で知られたキリルは、没後の早い段階(1447年から48年よりも前と考えられる)で聖人の列に加えられていた。祭日は逝去の日である6月9日、そして7月6日(ラドネジの諸聖人の日)。
キリルは、セルギー・ラドネシスキーと直接の師弟関係にあったわけではないが、しかしセルギーの歩んだ道を極めて忠実にたどった人物であるように思われる。セルギーと同じく、キリルもまた人の世の喧噪を嫌って荒野に逃れ出、静けさのうちに信仰を実践することを希求するタイプの修道士であった。
その一方で、キリルは自らの徳を慕って寄り集まってきた弟子たちを拒もうとせず、彼らのために新たな修道院を組織した。この点でもセルギーの生き方と似通っている。さらにまた、セルギーはモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに、キリルはその息子であるヴァシーリー1世に協力しており、彼らにとって荒野での隠棲は決して社会との完全な断絶を意味するものではなかった。セルギーもキリルも、自らが生きた時代と真正面から向き合い、自らのやり方で時代に影響を及ぼそうとしたのである。彼らが単に孤高の宗教人として人々の記憶に残るだけではなく、荒野を切り開く修道院の建設という新たな社会運動の先導者となったのも、決して偶然ではないと言えるだろう。
写真資料:シモノフ修道院/キリロ・ベロジョールスキー修道院
(07.02.02)