ヨアン・クロンシタッツキー(クロンシタットのヨアン) 1829-1908

 司祭。俗名をイヴァン・セルギエフといい、アルハンゲリスク県スラ村の貧家の子として生まれた。9歳でアルハンゲリスクの神学校に入学、最初は出来の悪い生徒であったが神への熱心な祈りによって「覚醒」したというエピソードはセルギー・ラドネシスキーを思わせるものがある。1855年に神学校を卒業し、クロンシタットのアンドレーエフスキー聖堂で司祭としての活動を始めた(前任者であるコンスタンチン司祭の娘と結婚)。
 間もなく新任の司祭は、その熱烈かつ精力的な司牧活動で知られるようになった。重病の時を除いて典礼を休む日は1日としてなく、また風紀の悪さで名高い軍港都市クロンシタットで人々の心を蘇らせるべく、文字通り身を粉にして働いたのである。身を持ち崩した人々に神の道を説き、また貧民を助けるための寄付活動を進め、収入のほとんどを乞われるままに分け与えた。あまりにも救貧活動にのめり込みすぎているとして、教会当局から不興を買うほどであったという。更にヨアンは、恵まれない境遇の人々に自立の道を与えるため、職業学校に病院や教会などが付属した施設「勤労の家」を設立している。
 同時にヨアンは、様々な奇跡や予言を行うことでも尊崇を集めていた。医者から見放された重篤な患者も司祭の祈りによりたちどころに回復し、いつしかこの噂が広まって、多くの巡礼者がロシア各地、あるいは国外からクロンシタットを目指した。さらに救いを求める手紙や電報が数限りなく舞い込んだため、クロンシタット電信局はヨアン司祭専門の担当部署を設けたほどである。
 晩年のヨアンは、ロシアが遠からず流血の動乱に巻き込まれることを予言していたという。列聖はまずロシア在外正教会で1964年に、また本国のロシア正教会では1990年に実現した。祭日は逝去の日である12月20日

 ロシア正教の歴史の中では、比較的新しい聖人の1人である。時代の背景を反映して、病人の治癒を初めとする奇跡を起こす際に手紙や電報を利用したというのが面白い。本人の生前の写真が残っているという点でも、聖人の中では珍しい部類に入るであろう。
 ヨアンの生きた時代、ロシアは近代化の過程でもがき苦しみ続けていた。大動乱の訪れに関する予言、あるいは奇跡成就者ヨアンの噂が全国に広まったというのも、当時のロシア社会の混乱と不安を象徴しているのかもしれない。一方でヨアンは、奇跡だけで人々を救おうとしたのではなかった。軍港都市クロンシタットの司祭職に生涯を捧げ、貧しく恵まれない人々を精神的にも物質的にも支援し続けたのである。クロンシタットのヨアンが多くの人々に愛されたのも、彼が孤独な祈りの中に閉じ籠ることなく、社会の中に踏みとどまり社会の中で歩み続けたからではないだろうか。

写真資料:クロンシタット

(11.06.23)


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