ドミトリー・ドンスコイ 1350-1389

 モスクワ大公。1359年に父イヴァン2世が亡くなったため、弱冠9歳にして大公の位に就いた。しかし、優れた政治家でもあった府主教アレクシーが後見役を果たしたこともあり、年若い大公の下でモスクワは寧ろその力を伸長させていくことになる。ドミトリーの政府は、ルーシ諸公国の中でモスクワの権威と領土の拡大を目指す前代までの方針を受け継ぎ、スーズダリ・ニジェゴロドやトヴェリといった競争相手を押さえてさらなる発展を遂げた。また、モスクワのクレムリ(城塞)が石造化されたのもドミトリー時代で、これは1368年と70年にリトアニアの干渉をはねのける上で重要な役割りを果たしている。
 こうして、モスクワがルーシ内部での勝者としての地位を確実なものとすると、ドミトリーはルーシを支配していたキプチャク汗国に対しても強い態度で臨むようになる。まずは汗国内の混乱に乗じて貢税の支払いを停止し、これに対する懲罰を企図した軍司令官ママイの遠征軍を、ドン川を越えたクリコヴォの野で撃破。ロシア史上に名高いこの戦いで大勝を得たドミトリーは、「ドン川の」を意味するドンスコイの呼び名で称えられ、歴史にその名を残すことになった。
 もっとも、その2年後には新たなハンとなったトクタミシュ(トフタムィシ)の軍勢がモスクワを襲い、街を焼き払った。この時ドミトリーはモスクワでの抗戦すらかなわず、軍勢を集めるためコストロマへ逃れなければならなかったほどで、タタールによるルーシ支配は依然として強力なものであった。ただし、ドミトリーはその遺言状の中で、汗国が動揺した場合には再び貢納を停止するよう指示しており、またルーシの最高権力者と同義である「ウラジーミル大公」の位をモスクワが世襲化することにも成功した。ドミトリー・ドンスコイがわずか39歳でこの世を去った時、モスクワの覇権はすでに揺るぎないものとなっていた。
 列聖はソ連崩壊も間近い1988年、逝去の日である5月19日と7月6日(ラドネジの諸聖人の日)が祭日となっている。

 ドミトリー・ドンスコイは何故1988年になるまで列聖されなかったのか?
 例えば、共に中世ロシアの英雄として高い人気を誇っているアレクサンドル・ネフスキーの場合、16世紀には公式に聖人として認められている。しかしドンスコイは、本人が亡くなってから列聖されるまでおよそ600年間も待たなければならなかった。彼の功業が忘れ去られていたわけでは決してなく、クリコヴォでの勝利は早い段階から「ザドンシシナ」その他の文学作品により顕彰されている。しかも、ドミトリーは府主教アレクシーやセルギー・ラドネシスキーなど、同時代の聖人たちと強い結びつきを持っていた。それだけに尚更、教会側の「冷たい」態度が訝しく思われる。
 理由の1つとして指摘されているのが、府主教アレクシーの後継者事件である。1378年にアレクシーが亡くなり、90年にキプリアンが新たな府主教として認められるまで、ロシア正教会では新たな府主教の座をめぐって長く錯綜した論争と暗闘が続いた。そしてこの時ドミトリーは、自らの懺悔聴聞僧、というよりは寵臣と呼ぶにふさわしいミハイル(ミチャイ)なる人物を府主教候補に推し、教会側から猛烈な反発を受けている。当時のロシアでは、いまだ世俗の権力が完全に教会を押さえ込むには至らず、大公といえど意のままに府主教の人事を取り決めるわけにはいかなかったのだ。しかも、ドミトリー大公から排除され続けたキプリアンは、彼の死後に府主教となってロシア正教会を掌握し、没後は列聖さえされている。その反対者であったドミトリーを聖人にするというのは、教会としては難しいところがあったのだろう。
 現代人にとって、あるいは世俗の者にとっては、ドミトリー・ドンスコイは何よりも国土の守り手・ルーシの英雄としてのイメージが強く、府主教の後継者選びという「些細な」問題で列聖が遅れるなどとは想像し難い。しかし言うまでもなく、教会は教会の論理によって動くものである。そして列聖という行為が教会の管轄下にある以上、その基準が必ずしも一般の評価と一致するとは限らないのだ。寧ろ1988年にドミトリーが列聖されたことの方が、社会的に広く受け入れられたドミトリー・ドンスコイ評価に教会側が歩み寄った結果であるのかもしれない。

(06.12.12)


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