グレープ ?-1015

 洗礼名ダヴィド。「ルーシの洗礼者」キエフ公ウラジーミルの息子であり、母は「ボルガリ(ブルガリア)の女」と伝わるのみで詳細は伝わっていない。ボリスの同母弟にあたり、聖者伝などによれば2人は仲睦まじい兄弟であったという。父から領地としてムーロムを与えられた。
 1015年に父ウラジーミルが亡くなると、その子供たちによる権力闘争が始まり、グレープも否応なくそれに巻き込まれていく。キエフの玉座を狙う異母兄スヴャトポルクが、まずは有力な競争相手であるボリスを排除した後、次なる標的として狙いを定めたのがグレープだったからである。スヴャトポルクは、「病床の父ウラジーミルが会いたがっている」との偽りの使いを送り、グレープをキエフに誘き寄せようとした。そしてグレープは、スモレンスクを出てスミャジノ川を航行中、ウラジーミルの死とボリスの殺害を伝えられて悲嘆にくれる中、自らもスヴャトポルクからの刺客によって命を奪われた。 
 兄ボリスがすぐヴィシェゴロドに葬られたのに対し、グレープの方はコローダ(丸木をくり抜いて作った柩)に入れられたまま、荒野の中で行方知らずとなった。しかしヤロスラフはスヴャトポルクを倒して権力を握った後、奇蹟(不思議な光や幻)に関する報告を受けてグレープの遺骸を見つけ出し、ボリスと共に改葬した。その後の列聖の過程についてはボリスの項を参照されたい。祭日は殺害された9月5日、兄ボリスが殺害された7月24日、1115年に遺骸の遷移が行なわれた5月2日、それに大斎期の2番目の週(ペチェルスキー修道院及び小ロシアの諸聖人の週)。なお、グレープの命日である9月5日以外は、全てボリス・グレープ2人に共通の祭日として祝われている。

 兄ボリスにも増して分からぬことが多く、歴史的実像がつかみ難い聖人の1人である。ウラジーミルの後継者として有力視されていたらしいボリスの場合はまだしも、年少でありムーロムという僻遠の小都市を治めていたにすぎないグレープが、どうして父亡き後の権力争いに巻き込まれて命を落さなければならなかったのか。しかも、スヴャトポルクはグレープをわざわざ誘い出してまで排除している。あるいはこの辺りに、スヴャトポルクの個性、そしてウラジーミル没後の内乱の謎を解く鍵が隠されているのかもしれない。
 また、グレープはその「若さ」が強調される点に特徴がある。ボリスとグレープは2人並んだ姿でイコンに描かれていることが多いが、グレープの方は髭がないのですぐに識別できる。かつてのロシアでは、成人男性は豊かな髭をたくわえるのが普通だったから、グレープはいまだ成年に達していない姿で表現されているわけだ。この他にもボリスとグレープの聖人伝では、暗殺者たちを前にしたグレープが、己の若さを理由に命乞いをするシーンがある(「未だ硬く熟さず、無垢の乳を含んでいるその穂を刈り取らないで下さい」)。実際にグレープが殺害された時の年齢は分からないのだが、「聖人」としてのグレープは、その若さと無垢性が強調されていることは明らかである。
 若くして、しかも何らの罪なくして命を奪われた者を哀惜するのは、人間として自然な感情と言っていい。その意味で、キリスト教受け入れから間もないルーシにおいても、グレープの悲劇は人々の心にアピールしやすかったのだろう。かくしてグレープは、兄ボリスと並んで、ロシアで最も長くかつ熱心に崇拝される聖人の1人となっている。

(05.07.10)


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