ヴァシーリー・ブラジェンヌイ 1464頃-1552

 ユロージヴイ。「ブラジェンヌイ」とは「祝福された」を意味する形容詞だが、特にこの聖人を表わす言葉として定着している。
 ヴァシーリー・ブラジェンヌイはモスクワ郊外の農民の息子として生まれた。長靴屋で徒弟奉公をしている時、靴を注文するためやって来た客の死を予言し、それを境にユロージヴイの道に入る。裸のままで街を歩き、路上や広場で生活し、夜は教会の入り口で祈りを捧げ、貧しい者や恵まれない者たちを慰めるという、これは典型的と言っていいユロージヴイの生き方であった。
 また、ヴァシーリー・ブラジェンヌイは未来を予見し、あるいは奇蹟を行なうことで知られていた。例えば1521年にタタール軍がモスクワを攻撃した時、ヴァシーリーは聖母のイコンがモスクワから離れようとしているヴィジョンを見、祈りによって街を救ったと伝えられている。あるいはモスクワで大火が起きる直前、火元となった教会の前ではヴァシーリーが号泣する姿が見い出されている。モスクワの人々はこの不思議な力を目の当たりにしてヴァシーリーを深く敬い、常にその助言を求めていた。
 聖なるユロージヴイの噂は、時のツァーリであるイヴァン雷帝の耳にも届いている。ヴァシーリーは、絶対の権力を持つ君主の面前でも憚ることなく普段と同じ振る舞いをし、そして奇蹟を行なって見せた。ある時には、典礼の最中に新しい宮殿のことを考えていたイヴァンの心を読み、上の空で礼拝を行なっていたツァーリを咎めたという。この一件により、雷帝はますますヴァシーリーを恐れ敬うようになった。
 1552年にヴァシーリー・ブラジェンヌイが亡くなる前、イヴァン雷帝は妻アナスタシヤ及び子供たちを伴い、死の床にあるユロージヴイを見舞った。この時ヴァシーリーは、イヴァンの年少の子・フョードルが将来は玉座を継ぐべき身であることを予言した(と言われているが、実はフョードルが生まれたのはヴァシーリー没後の1557年である)。没後間もない1558年に聖人に列せられ、逝去及び列聖の日である8月2日が祭日となっている。

 おそらくは最も有名かつ崇拝されているユロージヴイ。ただし、日本ではヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の名の由来となった聖人」と説明した方が通用しやすいかもしれない。赤の広場にそびえ立つ、色とりどりのネギ坊主型屋根であまりにも有名な建築物である。実際のところ、あの聖堂は正式には「ポクロフスキー聖堂」というのだが、もともとヴァシーリー・ブラジェンヌイを葬った教会のあった場所に建てられたため、いつしかその名で呼ばれるようになった(現在でも聖堂の一角にはヴァシーリーの棺が収められている)。つまり、ロシアの顔とも言える大聖堂がユロージヴイを代表する人物の名を冠しているわけで、まことに興味深い話ではある。
 そしてもう1つ、ヴァシーリーがあのイヴァン雷帝と深い関わりを持ったという事実を重視するべきかもしれない。尋常ならざる強烈な個性の持ち主であり、大貴族や高位聖職者でさえもまるで無視してかかっていた雷帝が、無力なユロージヴイに対しては並々ならぬ敬意を表わし、その言葉に耳を傾けたのである。この異様な(と言っていいだろう)光景は、中世ロシアにおけるユロージヴイの理想像がどのようなものであったかを雄弁に物語っている。つまりイヴァン雷帝は、聖痴愚者ヴァシーリーのイメージを完成させる上で重要な役割りを演じているわけだ。

 聖ヴァシーリーの生前の風貌は、彼自身の棺の覆い布に刺繍で描かれた全身像により偲ぶことができる(ヴァシーリー・ブラジェンヌイ聖堂の寺宝として伝わる)。1589年、雷帝の息子フョードル3世と皇后イリーナ(ボリス・ゴドゥノフの妹)の命令により作られたもので、実際に縫い上げたのも皇后直属の工房で働く職人たちであった。帝位継承の予言はともかく、フョードル帝がこの聖人を熱心に崇拝していたことは確かだろう。
 巨大な布の表面に描かれたヴァシーリーは、身に一糸もまとわぬ痩せた老人として描写されている。顔の下半分を覆ったヒゲは縮れ、後光のかかる頭は蓬髪のまま。一見したところ異様に感じられるかもしれないが、このスタイルこそがユロージヴイの「あるべき姿」なのだ。またその顔には笑みを浮かべたような、それでいて厳格さをも備えた不思議な表情が浮かんでおり、「痴愚」よりはむしろ奥深い知恵を感じさせる。中世ロシア人のユロージヴイ理解を知る上で、興味深いポイントであると言えるかもしれない。

(06.05.05)


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