洗礼名ロマン。「ルーシの洗礼者」キエフ公ウラジーミルの息子であり、母は「ボルガリ(ブルガリア)の女」と伝わるのみで詳細は伝わっていない。グレープの同母兄にあたる。父から領地としてロストフを与えられたが、当初はウラジーミル(・ヴォルィンスキー)に配されたという説もある。兄弟のうち、父ウラジーミルからは最も愛された息子だったという。
1015年にウラジーミルが没した時、ボリスは軍勢を率いて外征にあたっていた。即ち充分な軍事力を手許におき、しかもキエフ市民や従士団から支持を集めていたのにも拘わらず、ボリスは実力でキエフに座そうとはしなかった。競争相手が異母兄スヴャトポルクであったため、「自分の長兄に対して手を上げることはできない」として、敢えて戦いを避けたのである。この言葉を聞いて軍勢は四散し、少数の下級従士のみがボリスの下にとどまった。そしてボリスはアリタ川の畔でスヴャトポルクからの刺客を迎え、無抵抗のままに命を奪われている。
しかし、もう1人の兄ヤロスラフがスヴャトポルクを倒してルーシの支配者となると、ボリスとグレープを「殉教者」として聖化する動きが進められていく。2人がいつ列聖されたのか、厳密には明らかになっていないが、第1回目の遺骸の遷移が行なわれた1072年までには完了したとの見解も出されている。祭日は殺害された7月24日、1115年に2回目の遺骸の遷移が実現した5月2日、それに大斎期の2番目の週(ペチェルスキー修道院及び小ロシアの諸聖人の週)。弟グレープとペアの形で敬われることが多く、そのイコンもほとんどは2人並んだ姿を描いている。
ロシア出身では最も初期に列聖された聖人の1人である。11世紀から現在に至るまで常に熱烈な信仰を集め、また数多くの奇跡を起こしたことが報告されている。
一方で、ボリス・ウラジーミロヴィチの歴史的な実像となると、実は明らかになっていない部分が多い。具体的な人物像や行動を物語る史料があまり残っていないのである。もちろん、「聖人」としての事績について触れた書物には事欠かないが、それらはボリスの聖性を強調するという性格が強く、客観性の点で疑問が残る(全ての聖人伝に共通の問題ではあるだろうけど)。
それどころか、ボリス列聖の理由となった1015年の「殉教」事件も、多くの謎をはらんでいる。例えば「エームンドのサガ」という史料では、ヤロスラフの傭兵として戦ったノルマン人エームンドが、ヤロスラフの兄弟にして敵であった「ブーリスレイヴル」なる人物を殺害したことが記されている。通常、これはスヴャトポルクの岳父であったポーランド王ボレスワフ1世のことで、サガの作者がスヴャトポルクとボレスワフを混同した(つまりエームンドが殺害したのはスヴャトポルクであった)のだと解釈される。しかし何人かの研究者は、このブーリスレイヴルこそがボリスのことだと考えている。つまりヤロスラフはボリスを殺したばかりか、史料を改竄してその罪を全てスヴャトポルクに押しかぶせた、というわけだ。
この説の当否はともかく、ヤロスラフが政治的な動機に基づいてボリスの聖化を進めたことはほぼ間違いない。ボリスを完全無欠の聖人にしてしまえば、それを殺害した(とされる)スヴャトポルクの排除は完全に正当化できるからだ。さらに、キリスト教を受け入れたばかりのルーシは、できるだけ早く「自前の」聖人を持つことを求めていた。これに関しては、ボリスとグレープの遺骸の遷移を伝える原初年代記1072年の記述が興味深い。この時キエフ府主教ゲオルギーは、「二人への信仰が固まっていなかった」ため、遺骸が放つ芳香に恐怖を感じた、というのである。これは、ビザンツ教会がボリスとグレープの列聖に積極的ではなかった事実の傍証となっている(ゲオルギーはコンスタンティノープルから派遣されてきた府主教であった)。逆に、ルーシ側としては2人を列聖するため、熱心な働きかけを行なったはずである。
ただし、ボリス・グレープ信仰がこれほど早くからルーシの地に受け入れられ、また根強く定着した理由を、支配者の政治的な思惑のみで全て説明できるわけではない。現実に2人の行動(少なくとも、公式に考えられている形での)が、ルーシの人々に強く訴えるものであったこともまた事実であろう。己の権力を、そして生命までを犠牲にして兄との骨肉の争いを回避した2人の行いは、スミレーニエすなわちキリスト教的な謙譲の美徳として受けとめられた。不正との戦いではなく、忍従をこそ尊いものとするメンタリティの現れ、と言えるだろうか。実際、ロシア人の心性を説明する上で、ボリス・グレープ信仰が引き合いに出されることも少なくはないのである。
(05.07.10)