アレクサンドル・ネフスキー 1220-1263

 ノヴゴロド公、ウラジーミル大公。ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ公の子として生まれ、幼時から数次にわたり父の代理としてノヴゴロド公を務める。このため1237年に始まるモンゴル軍のルーシ侵攻には直面せずにすんだが、西方カトリック世界からのノヴゴロド攻撃に対処することとなる。そして1240年にはネヴァ川の戦いでスウェーデン軍を、また42年には氷上の戦いでドイツ騎士団を撃破、ノヴゴロド領の防衛に成功した。ちなみに「ネフスキー」という呼び名は、ネヴァ川での勝利にちなんで与えられたものである。
 一方、東方のキプチャク汗国に対しては、父ヤロスラフの路線を踏襲して徹底的な服従に終始し、1252年には汗国の支援によりウラジーミル大公の地位を獲得。また1257年には、汗国への納税のため、ノヴゴロド人の反乱を鎮圧して人口調査を強行した。自身も何度なく汗国の首都・サライ訪問を余儀なくされ、最後の訪問の帰途、ゴロデツで亡くなった。
 早い段階から聖化が進み、すでに13世紀のうちに「聖アレクサンドル・ネフスキー伝」が編まれているが、列聖されたのは1547年のことである。祭日は葬儀が行われた11月23日(この日に遺骸が奇跡を起こしたことが記録されている)と、ピョートル1世の命によって遺骸がサンクトペテルブルクに移された8月30日、さらに5月23日(ロストフ・ヤロスラヴリ諸聖人の日)と五旬祭から3週目(ノヴゴロド諸聖人の週)、6月23日(ウラジーミルの諸聖人の日)。

 聖人としてのみならず、ロシア史上でも特に人気が高い人物の1人である反面、毀誉褒貶も意外に激しい。軍事的成功によって西方からの攻撃を退けた点がネフスキー人気のポイントであるのは言うまでもないが、対モンゴル政策が論議の的で、「私利私欲のためにルーシをモンゴルに服従させた」と非難されることもある。一方、ロシア史におけるモンゴルの役割を肯定的にとらえる論者(例えばレフ・グミリョフの如き)だと評価はまた180度転換し、ネフスキーは「モンゴルを受け入れたが故に」評価されることになる。さらに、ドイツが主たる敵となった第2次世界大戦の時には、当然のことながら「ドイツ人殺し」の英雄ネフスキーというイメージ(エイゼンシテインのアレとかね)が動員され、全面的な賛美の対象となった。
 ただしロシア正教会にとっては、あくまでもネフスキーがカトリックの浸透からロシアを守ったこと、また死の直前にスヒマ修道士となることを希望するほど信仰厚かったことが評価の基準であった。「聖アレクサンドル・ネフスキー伝」では、戦勝と並んでローマ教皇からの使者を追い返したことが業績の1つに数えられているし、聖アレクサンドル・ネフスキーのイコンは、(甲冑姿ではなく)慎ましやかな修道士の姿で描かれることも多い。つまり教会にとって、「国土を守る武勇抜群の戦士」としてのネフスキー像は、本来は二次的なものであったと言えるかもしれない。今では、そっちの方が圧倒的に広く流布しているわけだけれども。

(05.03.23)


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