「英雄時代」の終焉

公は戦士達と共に歩み…


1、豹のように軽やかに

 長きにわたった母オリガの後見から離れて、スヴャトスラフ公が独自の活動を始めたのは964年のことです。成長したスヴャトスラフの勇姿は年代記によって生き生きと伝えられていますが、国本哲男氏によるこの部分の訳出がなかなかの名文なので、以下に引用してみたいと思います。

 (スヴャトスラフは成年に達したので)多くの勇敢な戦士を集め始めた。自ら勇敢であったから。豹のように軽やかにめぐり歩き、多くの戦いを行なった。おのがうしろに荷車を連れず、鍋も持たず、肉も煮ず、馬肉であれ、獣の肉であれ、牛肉であれ、細かく刻んで炭で焼いて食べた。多くの食物を求めず、天幕も持たず、しとねは柔らかくなく、鞍敷を広げ、鞍を枕にした。その戦士はことごとくこのようであった。彼は国々に使いを立てていった。「汝らを攻めたく思う」と。

 簡潔な文章の中にも、自ら戦士の一員として振る舞うことを誇りにしたスヴャトスラフの姿が浮かび上がってきます。反抗的な部族を打ち従え、外敵の襲撃から社会を守護し、そして華やかな文明世界に遠征して多くの戦利品を得るためには、公は何よりもまず「戦士の第一人者」たることを求められていました。そのために彼は戦場において何者にも負けない勇気を発揮し、また配下の戦士ども(とりわけ従士団と呼ばれる集団)と同じ困苦に耐える必要があったのです。宮殿の奥深くに身を隠している尊大な支配者というイメージは、少なくともこの時代のルーシの指導者には当てはまらないものです。 

 ところでこの年(964)、スヴャトスラフの初めての活動となったのはオカ川の流域に住むヴャチチ族に対する遠征でした。ヴャチチは東スラヴ人の中でもかなり東に偏して居住していた種族ですが、この当時にはまだ南方のハザールに貢納していました。従って、キエフがその領域を東方に拡大するためにはどうしてもハザール勢力の撃破が避けられなかったわけです。スヴャトスラフがこの課題を避けて通る理由はどこにもありませんでした。

2、南方への挑戦

 翌965年、スヴャトスラフはキエフより軍を発してハザール攻撃に向かいます。ルーシ来るの報に接したハザールは、可汗と呼ばれる王に率いられてこれを迎え撃ち、両軍の間には激しい戦いが繰り広げられました。しかしすでに衰退しつつあった老大国ハザールは新興ルーシの勢いの前にあえなく破れ去ります。ルーシの軍勢はヴォルガ河口のイティル、ドン下流域のサルケル(ルーシの年代記にはベラ・ベジャの名で現れる)という二つの主要な都市を破壊し、カフカースにまで至る広大なハザールの国土を荒し回ってから帰国の途につきました。
 この戦いでハザール国家は再起不能の打撃を受け、事実上消滅することになります。スヴャトスラフは966年に再びヴャチチ族を攻め、彼らをキエフへの貢納圏内につなぎ止めることに成功しました。

 ロシア/ソヴィエトの歴史学界では、南方の草原との戦いをもっぱら好戦的な遊牧民に対する防御的なものとして描いてきました。こうした見方は遊牧民に対する偏見を含んでいると言わなくてはなりませんが、特にハザールとの関係を見る場合には不適当だと思われます。
 ハザール国は、こういう言い方ができるなら当時のルーシよりはるかに「進んだ」国でした。なにしろルーシが統一されるはるか以前から、ハザールはビザンツやアラブといった超大国と肩を並べていました。国際貿易から得られる莫大な富、華やかな都市文明、広大な領土を治めてその住民から貢税を取り立てるシステムなど、国家としては「駆け出し」に過ぎなかったルーシとは比べものにならないくらいの蓄積があったわけです。
 生まれたばかりのルーシ国家にとって、この時代は先進的な文明世界から様々なものを奪い、また吸収する時期でした(奪われる立場になった者こそいい面の皮ですが)。かつてのゲルマン人とローマ帝国の関係に似ているとも言えます。ハザールとの戦争にしても、ルーシは単にその富を奪っただけではなく、貢税を通じた住民支配の体制を引き継いだという見方ができるわけで、先行する諸文明の要素を取り入れながら成長する若い国家の姿がうかがえます。

 さて、ルーシの視界に入る限りで最大の文明圏といえば、やはりビザンツ世界でした。ヴャチチを制圧して東方が片づくと、スヴャトスラフはその眼を南西方面に向けることになります。その先にはビザンツ世界に組み込まれた大国、ブルガリアがありました。
 10世紀初頭には強大な軍事力をもって大いにビザンツを悩ましたブルガリア帝国も、この当時はすでに衰退の一歩をたどっていました。ビザンツとしてはルーシを利用して「眼の上のこぶ」ブルガリア打倒を企んだわけですが、もちろんスヴャトスラフはおとなしく利用されるつもりはありませんでした。

3、ブルガリアへ、その先へ

 967年、スヴャトスラフはビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォーカスの要請に応じ、大軍を率いてバルカン侵攻を開始します(スヴャトスラフのバルカン戦役の年代については異説もあるが、ここでは『原初年代記』に従う)。ルーシの軍勢は瞬く間にブルガリア軍を撃破し、ほぼバルカン全土を制圧してしまいました。
 ここまではビザンツの目論見通りでしたが、問題はスヴャトスラフが占領地に居座り、あたかもブルガリアの支配者のごとく振る舞い始めたことです。ビザンツとルーシの衝突は早晩避けられぬ状況でした。
 しかし翌968年、ハザールに代わって新しく南ロシア平原で台頭してきた遊牧民ペチェネグがルーシを襲い、キエフの街を包囲するに及んでスヴャトスラフは帰国を余儀なくされます。例の『帝国統治論』において、皇帝コンスタンティノスはペチェネグを味方に付けてルーシを牽制するという戦略を披露しており、今回の事件もビザンツの外交戦略が奏功したものと思われます。ともあれスヴャトスラフは主力部隊を率いて故国に戻り、キエフの救援に成功しました。
 『原初年代記』によれば、スヴャトスラフはこの時、母のオリガに対して「もうキエフには住みたくない」と言い、ブルガリアはドナウのほとりにあるペレヤスラヴェツの街に首都を移す計画を口にしています。ペレヤスラヴェツにはルーシのみならずギリシア、チェコ、ハンガリーからあらゆる富が流れ込んでくる、というのですが、スヴャトスラフがいかにビザンツ文明に魅せられ、その圏内に入り込むことを望んだかがうかがえます。

 最後までビザンツ遠征に反対していたオリガが亡くなると(969年)、この大胆な計画を押し止める者はいませんでした。971年(ビザンツ史料によれば969年)、スヴャトスラフは二度目の、そして最後のバルカン遠征に旅立ちます。

 再度ブルガリア軍を破って南進するルーシ軍に対し、ビザンツ側は強硬姿勢をとります。前回の経験からか、帝国はルーシをはっきり武力によって制圧する必要性を認めていたもののようです。帝国軍を統べるのは(ニケフォロス2世をクーデタで倒した)新皇帝ヨアンネス1世ツィミスケス、多くの武勲に輝く経験豊かな軍人であり、スヴャトスラフにとっても容易ならざる敵手でした。
 スヴャトスラフとしても、ビザンツを打ち破らない限りおのれの野望を実現させることはできないと考えたのでしょう。ルーシの軍勢はブルガリアを越えて帝国領トラキアに乱入し、フィリッポポリスを陥落させました。しかしこれは決定的な勝利とはならず、ルーシの軍勢は逆に反撃に出たヨアンネスに追われ、ブルガリア北部にまで撤退します。
 最後の決戦を翌日にひかえた夜、スヴャトスラフが麾下の軍勢に行った演説が記録されています。その内容は「勝利か死か」という悲壮なもので、「戦士の中の第一人者」スヴャトスラフ公の気分をよく表していると言えます。

 しかしながら、結局のところスヴャトスラフが勝利を収めることはありませんでした。
 ビザンツの歴史家レオン・ディアコノスによれば、ルーシの軍勢は帝国側の騎兵の突撃を受けて壊滅的な打撃を受け、スヴャトスラフその人も負傷して血を流したということです。実は『原初年代記』ではこの戦いをスヴャトスラフの大勝利としているのですが、おそらくはビザンツの記録が正しいと思われます。戦闘後の停戦協定ではルーシがブルガリアから手を引くとされており、ルーシの敗北は明らかです。スヴャトスラフの野望はここに潰え去ったのでした。

 ところでこの協定が結ばれた後、皇帝ヨアンネスとスヴャトスラフは直接会見を行っています。ディアコノスの描写によれば、きらびやかな軍装の騎士たちを引き連れて会見の場(川のほとり)に臨んだ皇帝に対し、スヴャトスラフは船に乗って現れたのですが、その際彼は櫂の座に座り、他の者と全くかわることなく船を漕いでいたということです。そして船に座ったまま岸辺のヨアンネスと話し合うと、そのまま自陣に漕ぎ戻っていきました。
 戦士の一人として自らも船を漕ぎ、敗者の卑屈を微塵も感じさせず、大帝国の皇帝と堂々と言葉を交わす…ディアコノスの伝えるスヴャトスラフ像は「誇り高き野蛮人」とでも言うべき風格をたたえ、いかにも魅力的です。

 夢破れて帰国の途についたスヴャトスラフは、しかしながら、再びキエフの土を踏むことはありませんでした。コンスタンティノス7世の伝えているドニエプルの有名な難所 ─ 「早瀬」 ─ を通ったとき、ペチェネグ人たちがルーシの一行に襲いかかり、そしてスヴャトスラフを討ち取ったのです。
 それは972年の春の出来事でした。年代記によれば、ペチェネグの公クリャはスヴャトスラフの頭蓋骨に金を張り、それを杯として酒を飲んだということです。
 『原初年代記』はこの事件をブルガリア人がペチェネグに通報した結果だと書いていますが、しかしその背後にビザンツの外交が動いていたと考える研究者もいます。いずれにせよ、ルーシのバルカン進出の野望は帝国によって最終的に阻止されたと言えます。

 戦いに明け暮れたスヴャトスラフの生涯はこうして終わり、ルーシの歴史は新しい時代を迎えることになります。もちろん彼の死によってすべてが変わったわけではなく、次の世代に受け継がれていった要素も多くあります。
 しかし支配者であることよりも戦士の一員であることを好み、遠征と征服を安定した支配より優先させ、遂には新領土に首都を「前進」させようとする、いわば「叙事詩的な英雄」としての公は彼が最後の存在でした。彼の後継者たちは、明らかに彼とは異なる方法でルーシの舵取りを行うことになります。その意味で、スヴャトスラフの死は確かに一つの時代の終わりを告げるものでした。

(99.02.01)


※『世界歴史シリーズ8 ビザンツとスラブ』(世界文化社、1968年)151ページ。ただし冒頭の括弧を付け足し、また一部漢字の表記を改めた。


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