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2019-03-25

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・会いに行こうと思えば行ける場所に、
 生後半年にもならない赤ん坊がいると、
 ついその成長の過程をおもしろがって観察してしまう。

 昨日は、「寝返り」が打てるようになった日だった。
 生まれてこのかた、基本的には天井を見る姿勢で、
 ずっと過ごしていた人であったが、ついに、
 うつ伏せの姿勢になれたのである。
 あまりにも長い時間、ずっと後頭部を枕につけたままで、
 激しく手足を動かしたりしていたものだから、
 後頭がすっかりハゲちゃんになっていたのだが…。
 寝返りを打てると、腹ばいになれる、腹ばいになれると、
 ハイハイで移動できるようになる、
 ハイハイから立っちができ、そこから二足歩行が始まる。
 生まれたばかりのひとりの人間の日々が、
 まるで超スピードで人類の歴史をなぞっているようだ。
 赤ん坊ひとりが、大博物館のようである。

 ことばなどなにも知らないはずなのに、
 知り合いの子どもたちが読み聞かせをしてくれたら、
 それをまじめに聴いているようなのである。
 じぶんに向けての語り、という交流そのものに、
 興味と快感があるのだろうと思う。
 ことばをかけられるというのは、人間にとって、
 撫でられたり抱かれたりするのと
 同じようなうれしさなのだろうと思えた。
 ここに意味というものが乗ってくるのはずっと後のこと。

 それによく似ているのが、笑うという表情と呼吸だ。
 「おもしろくて笑う」というのは、
 脳にとってのずいぶんと高度な大仕事である。
 しかし、赤ん坊の人たちは、実によく笑っている。
 それを見ている大人たちも、笑いに対して笑いを返す。
 「なぜ笑ったのか、なにがおもしろいのか」なんてことが
 わからないうちから、先に笑いの交換がある。
 強烈な演劇論を教えられているような気がする。

 孫の顔が見たいと盛んに言う人もいるけれど、
 ぼくは、そんなことはひとつも思っていなかった。
 なのに、こんなおもしろい人に会えて、とてもうれしい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
思えば、きみもぼくも、赤ん坊から成長したんだよなぁ…。


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