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Messe in Es op.109

"Cantus Missae"

 以下の文章はCarus-Verlagから出版されている『ミサ曲 変ホ長調 op.109 "Cantus Missae"』(50.109)単行本英文序文の 翻訳である。とある指揮者がこの曲に興味を持ったため、試みに訳してみた。この英訳は独原文の翻訳であるが、多少誤植があるので、注意が必要である。誤植箇所にはWebMasterによる注釈を付けた。また必要と思わる箇所にも注釈をつけてある。

 

 著作権的にあまりよくないことだが、あまりに気にするな。Carus社様におかれましては、不都合があればご連絡ください。対処いたします。てへぺろ。実はあまり自信がないので、どなたかブラッシュアップしていただけるとありがたいのだが。皆様の参考になれば幸いである。

 

 なお、同曲を作曲しローマ教皇に献呈したことによる結果について、つまりセシリアンへの対処だが、全集の序文とは異なる見解を持っているのが面白い。全集の解説を行ったヴォルフガング・ホッホシュタインはヴァチカンによる介入を意図してはいないと述べてるが、本書解説のシュルツェは介入を期待していることを意図しているはずだと述べている。

↑全集第2巻P42。セカンダリーがCredoにおいてQui tollis Peccata,で終わってしまっている。おわかりいただけただろうか? 日本語注釈はWebMasterによるもの
↑全集第2巻P42。セカンダリーがCredoにおいてQui tollis Peccata,で終わってしまっている。おわかりいただけただろうか? 日本語注釈はWebMasterによるもの

 単行本は全集よりも古く刊行され、ギュンター・グラウリッヒによって校訂されレイアウト構成が多少違う。また「ミサ曲テキストに関して」で少し述べたが、Credoの60小節目「Qui tollis peccata mundi」の「mundi」はこっそり補填されている。このことには何ら言及はない。ないから誰も知らない。困ったものである。

 

 WebMasterはこの曲でラインベルガーに出会ったので思いいれが強いが、ぶっちゃけた話10種類ぐらいの録音でのべ1000回ぐらい聴いて、いや初めて聴いた時からどこかに違和感があった。そして嫌いになっていた。21世紀になってなぜ嫌いだったかが、うすうすわかるようになってきた。 

 

 

 

 

 

 

(これはラインベルガーの直筆総譜。やはりセカンダリーの「Qui tollis peccata mundi」の「mundi」は見受けられない。)

出典:BSB Mus.ms. 4581, p.10

↑単行本P13 Credoの該当箇所。ちょっと黄色でわかりづらいが、mundiがある
↑単行本P13 Credoの該当箇所。ちょっと黄色でわかりづらいが、mundiがある

 この曲は「変ホ長調」という、いわゆる「英雄」の調性なのである。勇ましいというか、躍動感があるというか、とにかく前向きなのである。でも最後のAgnus Deiで悲しい和音・旋律になってしまっている。なんでこんなに悲しいんだよ、バカ。Credoが短調になっているから、それがアクセントになって十分じゃない。最後は晴れ晴れしく、神々しく終われよ、こんな曲嫌いだ、と思っている(いや、Dona nobiから長調だけどね)。Agnus Deiはとてつもなく悲しい。それは「英雄」の調性の裏返し「ハ短調」である。この悲しさが私は大嫌いだ。ラインベルガーなぜこんなつくりにしてしまったのであろうか? フラット(♭)3つだから? それは父なる神と子と聖霊の三位一体を表しているのだろうか? ラインベルガーはほとんど自作を語らない。我々演奏者・聴衆に絶対的な音楽を突きつけるばかりである。考えるな感じろというのだろうか?

 なお、シュルツェが触れていない件を少し記せば、この曲は1877年秋バイエルン王国の宮廷楽長に選出された翌年、1878年1月13日から18日という短期間に書き上げられた。作曲家自らの手によって、翌1879年の元旦、ラインベルガーが宮廷楽長として音楽監督を務めたミュンヘンの諸聖徒教会にて世界初演が行われた。同時期に選出されたローマ教皇レオ13世(就任1878年2月20日)に献呈され"聖グレゴリーの騎士"に叙せられたが、その叙勲は1879年の7月なのか1880年なのかはっきりしない。WebMasterは「写真で見る生涯と作品」本文説(p.205)をとって、1879年1880年が正しいと思っている。

 

 なお初演は当時の資料が散逸しているため、詳細はわかっていない。だが1879年、1880年、1888年そして1889年の復活祭の日曜日(他に1891年6月)にラインベルガーの手で演奏されており、特別な祝日に演奏する格別な作品だったようである。

 

(追記2019/Feb/25)

 オットー・ウルスプルンクがこの曲は「19世紀で最も美しく純粋な無伴奏ミサ曲」と評した言葉が、現代にも伝わっている。(『カトリックの教会音楽』ポツダム/p.274 / "Die katholische Kirchenmusik" Potsdam 1931, S. 274)

 

 

無断転載を禁じる。


序文

 

現在の世紀(訳者註:20世紀)においてヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガーのミサ曲は数多の教会の聖歌隊のレパートリーとしての安定した関係を形成した。典礼及び教会音楽の改革のために努力した期間に書かれ、それらは教会の音楽の中の多声部例であるとしばしば考えられ、伝統と現代の要素が表現の新しい種類の音楽を生み出すように結び付けられた。使用されるその歌いやすさ声部を書くことは、伝統的なことであった。不協和音の処置を豊かに描き、高度な調節的関係の可能性を広げることに触発されたようだ。

 

彼が16歳の時に最初のミサ曲を書いたときは、若い作曲家にとってはこの音の世界は目新しいものではなかった(訳者註:実際にはラインベルガーによるミサ曲の作曲は7才の頃に行われている。現存はしていない)。ガブリエル・ヨーゼフ(訳者註:ラインベルガーの出生時の名前だがここは英訳の誤植)はリヒテンシュタイン侯国の首都ファドゥーツにて1829年(訳者註:1839年の誤植)、侯の執事(訳者註:会計係、年金運用官などとも書かれている場合もある)、ヨハン・ペーターの息子として生まれる。わずか12歳でミュンヘン音楽院に進み、ピアノ、オルガン、和声と対位法を学んだ。1953年に全ての教科を優秀な成績にて終了。この時にはすでに彼はミュンヘン市内のいくつかの教会でオルガニストを務めていた。6年後母校の教員となる(訳者註:1859年、20歳の時)。これが彼の教師としての経歴の始まりであり、亡くなるまでその成功の増加を追及することになる。ハンス・フォン・ビューローは彼の印象をこう表現している。ラインベルガーは「その能力に等しく、洗練され学生への愛情といい、ドイツ国内において比類なき本当の理想的な作曲の教師」と。

 

ラインベルガーの演奏家としての活動範囲は、作曲家としての作品発表で表すことができる。それは彼の宗教的声楽曲とオルガン作品は彼を活発なオルガニストと合唱指揮者であることを示している。合間の歌劇場やコンサート・ホールにおける、舞台作品、オーケストラそして室内楽に及ぶ。彼の手紙から、晩年彼が教会音楽への転身を見出した事を読み取ることは難しくない。彼は1877年9月に「常に喜びの度合いの高さ」を必要とするその地位に「重大な心の芸術的指向」と言って宮廷楽長に就任した。そして別の手紙ではこう付け加えている。「宮廷楽長の地位の良いところは、劇場とは無縁であることです」と。教会の仕事場から離れ、オペラやコンサートの仕事もこなさなければならなかった彼の前任者フランツ・ヴュルナー(訳者註:b.1832-1902。コールユーブンゲンの作者)とは異なり、ラインベルガーは自分自身を教会の活動の環の中のみにしたいと考えていた。

 

聖カイェタン教会の記録によると(訳者註:St. Kajetan's Church。Cajetanとも。1857年にラインベルガーはバイエルン王立宮廷オルガニストとして聖カイェタン教会のオルガニストを務めた)、年間に催される礼拝への参加、手近にある楽器や楽譜、1806年から1900年まで王立聖歌隊の作曲だけではなく宮廷指揮者フランツ・ヴュルナー(1866-1876)とヨーゼフ・ラインベルガー(1877-1895)たちは、ミュンヘンの教会音楽の構築とレパートリーに対して興味深い見識を提供した。作曲家と指揮者が、しばしば素人芸と二流に反する機会を持った期間の間に、かつてのミュンヘンの宮廷指揮者、オルランド・ディ・ラッソによって聖カイェタンで始められた伝統が生きていて、イタリアのバロックの巨匠、そしてウィーンの古典派を導いた。ラインベルガー自身がこの伝統に結びつていた。彼はパレストリーナによるミサ曲の公演で、彼の時代のアカペラの理想的作品 - ヴィアダナ、ハスラー、ロッテ - に敬意を払った(ミサ"教皇マルチェリ"も含んでいる)。モーツァルトやミハイル・ハイドンの教会音楽にも注意を払い、すべての時期の芸術的表現と、その教会音楽の独自の手段を開発しなければならないという意見を、彼は強調し、「不変の法則に基づく」時間の「感覚と展望に」という表現を与える必要がある。

 

ラインベルガー自身の教会音楽作品は - ミサ曲、ミサ曲の断片、モテット、讃歌、および宗教的歌曲 - 教会音楽のとてつもなく長い彼自身の研究の賜物であった。過去との3つの異なる関係を認識できる。ローマとベネチア楽派の声楽ポリフォニー、バッハと同時代の対位法、ベートーベンの中期創作期に由来する作品。ラインベルガーは全部でミサ曲を18作品作った(訳者註:レクイエムを抜いた数と思わる。ミサ曲の総数は23)。うち4曲は学習期のものである。それらは Jugendvereichnis (JWV 幼少期作品目録)には作品150、257(訳者註:2と57の誤植)そして71が見て取れる。これらのミサ曲は1842年(訳者註:1847年の誤植)のファドゥーツ時代と1853年から1856年にかけてのミュンヘン時代に創られた。無伴奏作品が一つ、合唱とオルガン伴奏のものが2つ、もう一つは合唱とオーケストラのための作品である。これらのミサ曲はバイエルン州立図書館に保管されている。

 

ラインベルガーは出版した作品にだけ作品番号を与えた。同時に、彼が本当の業績であると判断した作品を示す彼の印刷された作品目録があり、そこには1860/61年から1901年(彼の没年)まで書かれたミサ曲が含まれている。1871年にメゾソプラノとオルガンのためにかかれた『ミサ曲ヘ短調作品62』を除いて、ほとんどが合唱とオルガンのための作品である。作品目録では二つの作品がオーケストラ伴奏の作品がある(混声合唱のための作品169、そして男声合唱とブラスバンドのための作品172)。4つの無伴奏ミサ曲(ニ短調作品83、ヘ長調作品117、ト長調作品151、これらは全て混声四部合唱。そして二重合唱八声部の変ホ長調の作品109)。ラインベルガーの八声部のミサ曲は1878年1月13日から同月18日にかけて作られた。初演は1879年元旦に宮廷教会の王立宮廷合唱団にて、作曲者自らの指揮にて執り行われた。1789年、ミュンヘンにて出版された初版の楽譜にはこのようにかかれた。

“Cantus Missae / ex octo modulatione vocum concinnatus / a / Josepho Rheinberger / Opus auctoris centesimum nonu. / Editio heac relate in tabularium musicum / sola legitima et authentica haberi debet. / Monachi / sumtibus Josephi Aibl / Pretium: / Partitionis M.6 / Vocum M.8 / Leoni. XIII. / Antistiti Sacrorum Maximo / Divini Cultus Amplificatori / Patrono Artium Bonarum / Josephus Rheinberger / Grati et Obsequentis Animi Ergo / Opellam hanc Offert Dedicat / Quam Parens Sanctissimus / Singulari Dignatione Benignitatis / Nomini Suo Inscribi / Passus Est."


(訳者註:面倒くさいので訳は省略。レオ13世への献呈時の楽譜の表紙と序文(Leoni. XIII. / Antistiti Sacrorum Maximo以下)。ラテン語)


スコアを見てみると、それは古のベネチア楽派における二重合唱のミサ曲やモテットを思い起こさせる。慣習的手法に囚われないグロリアとクレドの長いテキストの言葉の演奏は、八声により頂点へと駆け昇っていくパッセージにて、伝統的聖歌隊の対話と調和している。四声の女声合唱は、旧い「分割」技術の様式により男声合唱に並置される。テキストの解釈と音楽の変奏を与える、ユニゾンのパッセージと声部の倍増が絵画的構造を変化させる。外見上、筆致は16-17世紀の様式に似ているが、パレストリーナのスタイルを管理する規則に関して、旋律との和声の両方でより大きな自由度を維持している。加えて、サンクトゥスの開始部や"Et in terra pax(地には平和)"、クレドの"Crucifixus(十字架にかけられ)"や"et apostolicam(使徒の)"など、グレゴリオ聖歌由来のテーマで三度の積み重ねからなる音色配列もある。ラインベルガーも、多声をテーマに彼の時間の和声の要素を使用しました。例えばグロリアの冒頭、クレドの“et unam sanctam(そして私は信じる一つの)”、アニュス・デイなど。ラインベルガーも、多声をテーマに彼の時間の和声の要素を使用した。「歌えることとボーカルラインの自然さ」が「古い古典的な声の多音音楽の反響」として見られるならば、より豊かなハーモニーが、まだ特定の現代的であることの印象を伝える。このラインベルガーは、ブルックナーがかつて作ったような「6-4の和音も無く、三和音の導音もない、シャープやフラットもなし」で、一方的な歴史的アカペラスタイルを踏襲するセシリア運動の純粋主義の努力とは対照的な作品を意図的に書いた。ラインベルガーは、他方、「対位法の堅実さが、あらゆる基準に、自由に、そして、簡単にあらゆる考えに合うことができたそのような方法で」彼の時代の作曲の原則を使用しました。一方で古楽にたいする彼の態度、そしてセシリア主義に、他方では、正確に彼の偉大な同時代の人それに呼応している。一度アントン·ブルックナーはかなりぶっきらぼうに述べている。「パレストリーナは素晴らしい、だがセシリア主義なんてありえない、ナンセンスだ」。(訳者註:ブルックナーはセシリアンの司教のために"正しき者の唇は知恵を語り Os justi"を作曲した。この曲には一切の♯と♭が無い)

 

ラインベルガーは、「真の教会の音楽」を作り上げることについての、彼の時代の強い論争にあまり与しなかった。それでも彼自身の作品そのものが、不毛な議論において彼の立場を明らかにしている。全セシリア協会の機関誌に掲載された彼に対する差別的かつ侮辱的な攻撃をかんがみ、ラインベルガーは、おそらく最高レベルの決定に興味を持っていただろう。それゆえに、彼はCantus Missaeを時の教皇レオ13世に献呈し、見返りに教皇の勅書によって聖グレゴリーの勲位の騎士になった。ラインベルガーの教え子、ヨゼフ・レンナーはこう描写しているCantus Missaeは「咲き誇るようなポリフォニーで愛情と気配りで真に宗教的な雰囲気を浸透させ、ラインベルガーによって書かれたアカペラの作品の頂点をなす」と。

 

Stuttgart, June 18, 1981 Willi Schulze

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