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【社会】<この町で歩む 福島・富岡の小中学校 再開1年> (上)ゼロから出発 笑顔の卒業
「お医者さんになって、たくさんの人を助けたい。町の人たちの笑顔が私を元気にしてくれたから…」 福島県富岡町の小中学校四校を集約した「富岡校」で二十二日にあった小学生の卒業式。三人の同級生と並んだ小六の鈴木亜佑菜(あゆな)さん(12)は涙をぐっとこらえながら、夢を語った。 東京電力福島第一原発事故により閉鎖されていた学校が再開したのは、昨年四月。その直前、亜佑菜さんは福島県いわき市から町に移った。一時間半かけて町内の職場に通う父親の負担を減らすために、「富岡に行こう」と両親の背中を押した。母美鈴さん(34)から「学校に来るのは、うちらだけかもしれないよ」と言われても、家族で暮らしたかった。 富岡校の児童生徒は卒業した中三生を含め、小学生十七人、中学生六人。全校児童生徒二十三人は、原発事故前の一クラスの人数にも満たない。二学年が同じ教室で学ぶ「複式学級」で、亜佑菜さんらは五年生二人と机を並べた。 「人数が少ないので先生に質問しやすい。勉強が分かるようになった」と亜佑菜さん。アットホームな学校が気に入っている。「それに毎日、お父さんと一緒に夕食を食べられるようになった」と笑った。 小学校の岩崎秀一校長(59)は「ゼロからのスタートだった」。 五、六年生の担任の尾形泰英教諭(36)は、学校が再開した日を振り返る。「五人が教室にぽつんと座っていた。やれるかなあ。大丈夫かなあって。不安でしょうがなかった」 三月二十日の最後の授業で、尾形さんは「挑戦しに来たが、きつかった」と打ち明けると、子どもたちは「知ってるよー」。時折合いの手を入れながら聞き入る教室に、一年で築き上げた信頼がにじむ。 小学校では担任を持つ三人の教員全員が複式学級を経験するのは初めて。昨年五月の研修に参加できたのは尾形さん一人だけで、試行錯誤の日々だった。「四十五分の授業で六年生に三十分を使ってしまうこともあった」と、尾形さんは反省する。 放射能との向き合い方も課題だ。町の大半で避難指示が解除されたとはいえ、住民が町に戻らない理由には放射線量への不安が根強い。学校のある地域は放射線量が十分に低いものの、山のある西側や福島第一原発に近い北側は線量が高いという現実がある。校庭にモニタリングポスト、給食の放射能検査など、事故前にはどれも必要なかった。 「『富岡町は大丈夫?』と他県に行けば必ず聞かれる」と、教職員は口をそろえる。放射能の影響を伝えるために自ら教壇に立つ岩崎校長は、子どもたちに同じ質問を投げ掛ける。返ってきた答えは「僕たちが住んでいるから大丈夫」。 だが「それでは納得されない」と岩崎校長は言う。「大丈夫という科学的根拠を知ること。それが風評や差別に立ち向かうことになる」。震災と原発事故が教科書の中の出来事の子どもたちに被ばくの危険性を説明し、一緒に校内の線量を測定もしてきた。 何が正解かは分からない。それでも教職員に共通するのは「富岡出身であることがマイナスにならないようにする」という思いだ。 ◇ 全住民の避難を強いられた福島県富岡町に、子どもたちが戻って一年。原発事故の被災地で再開した学校の今を追った。 (松尾博史)
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