ここには、ドラえもんの基本的な紹介を載せています。
ここで再復習したり、知らなかったことを覚えていって下さい。
ドラえもんの歴史
「ドラえもん」とは、1969年(昭和44年)12月より、小学館学年雑誌に連載が開始された、藤子・F・不二雄(当時は「藤子不二雄」)こと故・藤本弘作の子供向けマンガである。
ここではドラえもんの連載が始まり、作者が没するまでの約30年間を、順に振り返っていこうと思う。
まず連載当時の児童漫画界の状況を整理してみると、当時は昭和30年代の手塚治虫を代表とする漫画家の影響を受けた子供が、大人になりつつある時期であった。幼少時よりマンガに慣れ親しんできたその世代には大人になってもマンガに抵抗はなく、逆に子供向けマンガとは違う、大人が読むマンガを希求した。その結果売り出されたのが「青年向け雑誌」であり、ジャンル的に言えば「劇画漫画」が台頭してきたのである。
ドラえもん連載開始当時は、文字通り劇画の絶頂期であり、その反動からか、従来のスタンスであった「子供向けマンガ」というものが読者に好まれていないという状況を呈していた。漫画界を巻き込むその劇的変化は当然藤本も無関係ではなく、師である手塚を始め、トキワ荘での仲間達もみな劇画に移行していき、盟友・安孫子素雄さえも、「魔太郎が来る!」を始め、従来の「子供向け」ではないマンガに移りつつあった。そのような時期にあって、藤本も高年齢層を意識したSF短編を発表し、人気を得てはいたが、やはり自身の活動のホームグラウンドは「子供向けマンガ」と認知していたらしい。
とは言ったものの、かつての「オバケのQ太郎」のような爆発的ヒット作も生まれず、自分のお気に入りの作品であった「モジャ公」も世間的には高い評価は得られず、藤本本人もかなり苦しんでいた時期であったらしい。そんな時、「ウメ星デンカ」終了に伴い、それに変わる新キャラクターを創造することになった。だが、いくら考えても新キャラのアイデアが浮かばない。悩んでいるうちに新作予告を掲載する時期になってしまった。困り果てた藤本が苦肉の策で書いたのが、今では伝説となっている「主人公のいない予告」であった。
それから藤本が新たなキャラを生み出すまでの苦悩の物語は、後年のマンガ「ドラえもん誕生」に詳しいが、いろいろなきっかけを下に、藤本は「ドラえもん」というキャラクターを創り出した。ドラえもんは「小学一年生」から「小学四年生」、そして未就学児童雑誌の「よいこ」「幼稚園」に連載されることとなった。
連載が開始された当初の「ドラえもん」は、現在知られているものとはかなり異なる部分を持っていたことは、今では結構知られていることだと思う。かつての「オバQ」路線を踏襲するつもりだったのか、初期作は文字通りのドタバタギャグマンガとなっており、物語構造も、主人公であるドラえもんが何らかの騒ぎを起こすというようなものであった。ポケットの中から出す未来の道具に関しても、そのドラえもんの暴走に拍車をかける程度にしか使われないことも多く、作者としては、「ドラえもん」というキャラクターをどのように生かしていくべきなのか、試行錯誤をしていた段階だったと思われる。実際、ギャグテイストでありながらも後年の作品のような「ハートフル路線」の作品も確かに存在し、かと思えば、ドラの暴走を助長するキャラクターとなるはずであった「ガチャ子」も創造されている。
そして連載を続けていく中で、次第に藤本はドラえもんという作品の方向性を決定づけたようである。だが、原作とは違った方向性であったものの73年に一度アニメ化したり、同年、「小五」「小六」にまで連載を拡張したり、74年に小学館が新たに発行した「てんとう虫コミックス」のトップを飾って単行本化したにも関わらず、ドラえもんは新たな問題に突き当たることになる。それは、「連載終了」である。
この「連載終了」については、今もって不明な点も多く、ファンの活発な論議を呼んでいるが、「連載を終了する」という目的があったことは確かなようである。ドラえもんはそれまで「小四」までしか連載されていなかったため、小四3月号においてとりあえずの最終回が二回書かれていた。後年に藤本は「他のアイデアを考えても、どうしてもドラえもんに帰り着いてしまう」と回想しているが、藤本にとってもドラえもんは特別な作品であったことは間違いないだろう。そのため、一旦は最終回を書いたものの、再びドラを書き続けることに決めたため、「さようなら~」の原稿を掲載し、そして翌月の小四で「帰ってきたドラえもん」を掲載したと考えられる。ところが、ドラえもんの連載を継続しようという動きが藤本側から起きたのか、出版社側から起きたのかは、未だにはっきりとしていない。
紆余曲折はあったものの、それ以降もドラえもんの連載は続き、76年の「少年サンデー」への特別編掲載を経て、ドラにとって運命的とも言える雑誌が77年に創刊される。それは「コロコロコミック」である。創刊当初のコロコロコミックは正にドラえもん一色と言うべき内容で、さらに各種の企画ページも充実、特に故・方倉陽二執筆の「ドラえもん百科」では、作品世界の知られざる珍妙な設定が続出し、当時の世代人に多大な影響を与えた作品となっている。「コロコロ」の行ったことで敢えてあげるとすれば、原作では数えるほどしか出演していなかったドラミをクローズアップしたことであろう。73年に初登場しながらもあまり知られていなかったドラミが有名になった要因として、コロコロを抜きにすることは出来まい。
次第にドラえもんの人気も上昇していき、その熱を受ける形で79年より始まったのが、ご存じシンエイ動画版のアニメである。現在でも大好評放送中のこのアニメが放送されるやいなや、全国に空前のドラえもんブームが巻き起こった。73年版のアニメと違い、あくまで原作を尊重して作品が作られていたのが、大きな要因であろう。そしてこの年にはもう一つ重大な事件があった。「大長編」のスタートである。
ドラえもん人気に後押しされる形で、「アニメの映画化」の話も早い時期に決まっていた。そこで、76年の少年サンデーに掲載した中編作品「のび太の恐竜」に加筆、後日談を加えた作品を映画とすることになり、その原作マンガはコロコロに連載されることになった。その映画は大ヒットし、現在まで連綿と続く「ドラ映画」の基礎を作り上げた作品である。その人気の余波を受け、81年には春と夏に映画を公開するという前代未聞の事態まで発生した。当時のドラ人気の物凄さを知ることが出来る良い事象である。
そのままマンガ、アニメ共にドラえもんは順調な道を歩むはずであった。だが、それは思いも寄らない形でやってきた。それは藤本の体調悪化に伴う連載の休止だった。86年では手術をしたために「竜の騎士」の連載が三ヶ月遅れ、翌八七年の春に再び入院、休養するためにその年の大長編は描かれないという異常事態に陥ってしまった。今でも知られているドラえもん最終回のデマが流れたのもこの時期であり、小学館はコロコロを始め、各誌でこの噂を否定していた。
88年に無事復帰したものの、今までのような連載形式をとることは体力的に難しく、必然、短編新作の数は減っていき、大長編により比重が置かれることとなった。「藤子不二雄」のコンビを解消したのもこの年である。だが、91年に再び入院し、この時の病状が今までよりも重かったため、一時は存命を絶望視されたこともあったという。そして学年雑誌での短編連載は91年四月号を持って終了し、「雲の王国」も連載途中で絵物語に変わるなど、一般読者にまで影響を与え、誰もが病状を心配していた。
それでも再度復帰し、大長編のみを描き続けてきた藤本は、94年に「小三~五」誌に、「大中編」ともいうべき作品「ガラパ星から来た男」を執筆した。タイムパラドックスや進化した動物など、ドラ世界の面白さのエッセンスがふんだんに盛り込まれた、藤本のマンガセンスが全開にされた作品である。だが、これ以降藤本は学年誌に戻ってくることはなかった。96年、その時はやって来たのである。
96年9月23日午前2時10分、肝不全で藤本弘、藤子・F・不二雄は永い眠りについた。最後の大長編となった「ネジ巻き都市冒険記」の執筆中に。藤本の洗礼を受けて育ったすべての人間がその日、悲しみにくれたことも記憶には新しいと思う。そしてその瞬間、「ドラえもん」は藤本の手をはなれ、現在は藤子プロの手によって大長編が制作され、テレビアニメも放送され続けている。
原作者は遠い星の人となったが、「ドラえもん」の歴史は終わらない。これからドラえもんはどのような道を歩み、どのような作品となっていくのか。それを見届けることはすべてのファンが果たさねばならない、最初で最後の義務であるように思う。