2012/11/14 開始
001
侯景、字を萬景と言い、朔方の人とも雁門の人とも言われる。若い頃から慣習を無視するような生活をしていたため、郷里の人からは恐れられていた。成長すると、驍勇にして膂力の持ち主となり、騎射に長じていた。北鎮の戍兵に選抜されると、順調に戦功を挙げていった。北魏の孝昌元年(525、梁の普通六年)、懷朔鎮の兵であった鮮于脩禮と言う者が、定州で叛乱を起こし、郡縣を攻め落としていった。八月、柔玄鎮の兵であった吐斤洛周が、その党与を率いて、幽、冀に侵攻して、脩禮と連合した。兵は十余万を数えた。孝昌二年(526、普通七年)の八月、脩禮が一党の元洪業に殺されてしまった。これによって、脩禮の部下は潰散してしまいかけたが、それを同じく一党で懷朔鎮將の葛榮が收集して吸収した。その榮は、武泰元年(528、大通二年)の二月、洛周も攻め殺して、その兵を吸収した。これを「葛賊」と言った。同月、北魏の孝明帝(元
)が
すると、太后の胡氏が朝政を掌握しようと画策したが、天柱將軍の爾朱榮が晉陽から洛陽に入って、胡氏とその親族を皆殺しにした。景は手勢を引き連れて、初めて榮と対面した。榮は景を高く評価して、その場で軍事を任せる事にした。八月、葛賊が南逼してくると、九月、榮は自ら討伐に乗り出し、景に前駆を任せた。河内で決戦を繰り広げ、葛榮を生け捕る事に成功した。この戦功によって、定州刺史、大行臺に抜擢され、濮陽郡公に封じられた。これによって、景の威名は世に知れ渡るようになった。
第二回更新~第五回更新
002
中興二年(532、中大通四年)の二月、高歡が、北齊の神武帝とされる人物であるが、北魏の丞相に任命されると、四月、洛陽に入って爾朱氏を誅殺した。景は手勢を引き連れて、今度は歡に下り、歡に任用されるところとなった。景の性質は残忍酷虐で、軍を馭するに厳整を以ってした。しかし、鹵獲したり略奪した財宝は、全て將士に分け与えていたため、皆なその命令に從った。そのため、向かう先では多くの勝利を重ねていった。景が兵権を総攬するようになると、歡に次ぐ地位となった。東魏の武定三年(545、大同十一年)の十二月、司徒に、武定四年(546、中大同元年)の六月、河南道大行臺に任命されると、十二月、兵十万を配されて、河南の統轄を命じられた。歡の病状が悪化すると、子の高澄に
「
侯景は狡猾にして多計であり、反覆(裏切)するかは分かったものじゃない。俺の死後、必ずやお前の用にはならない。
」
と言い残した。そして、書を為して景を召し出した。景はこれを知ると、禍が及ぶのではないかと憂慮して、武定五年(547、大同十三年)、行臺郎中の丁和を梁へと派遣して、上表して降服を願い出る事にした。その内容は
「
この景が聞きましたところでは、股肱が體合すれば、四海は和平となると。上下が猜貳すれば、封疆は幅裂すると。故に周(周公・旦)と邵(邵公・
)は徳を同じくしたため、越常の貢が来臻しました。飛(殷・飛廉)と惡(殷・惡來)が離心したため、諸侯が背叛したのです。これは蓋し成敗の由とする所であり、古今で画一と思われる事です。
003
この景は、その昔、魏丞相の高王(高歡)ともに並肩勠力して、共に災釁を平し、危を扶けて主を戴して、社稷を匡弼しました。そして、中興以後(531~532)は、無役で從えられなかった事は無く、天平(534)から今に及ぶまでは、事があれば真っ先に出されました。城を攻めれば常に陷とし、野戦では必ず殄(勝)ちました。筋力は鞍甲を消(滅)ぼし、忠貞は寸心を竭(尽)してきました。そして、機運に乗藉して、位階は鼎輔に及びました。そのため、誓死して節を
(尽)し、仰しては時恩に報いるべきであり、首を隕とされ腸が流れ出たとしても、溘焉したとしても貳(裏切る)する事はしないと決心しました。どうして翰墨を言して、一旦にこれを論じられましょう?この景が恨むところは、義の死する所に非ざる事と、壯士が足り得ない事です。この景、命を惜しんだりはしません。ただ恐れるのは、無益の死だけです。
004
丞相は既に疾患に遭われましたが、政は子の澄に出されました。澄の天性は険忌であり、触類で猜嫉しては、諂諛して次々に進言するなどして、搆毀していきました。部分が未だ周ならざるも、信を累ねて賜召さてれおきながら、社稷の安危を顧る事も無く、惟だ私門の植(建)たざるを恐れている有様です。甘言や厚幣によって、忠梗を滅せんと規(図)っています。その父が殞すれば、何の容が賜されるやら。讒を懼れ戮を畏れ、拒しては返れないため、、遂に汝、潁で観兵し、周、韓で擁旆しました。豫州刺史の高成、廣州刺史の暴顯、潁州刺史の司馬世雲、荊州刺史の郎椿、襄州刺史の李密、
州刺史の
子才、南
州刺史の石長宣、齊州刺史の許季良、東豫州刺史の丘元征、洛州刺史の可朱渾願、揚州刺史の樂恂、北荊州刺史の梅季昌、北揚州刺史の元神和らは、皆な河南の牧伯であり、大州の帥長ですが、それぞれ水面下で私図を結び、呼応する期日を定め、馬に秣して戈を潛め、時を待ってすぐに動けるようにしております。函谷以東、瑕丘以西は、全て聖朝に帰誠して、有道に息肩する事を願っております。勠力同心して、死しても二志は抱きません。ただ青、徐の数州は、折簡が必要になりますが、一駅から走来するだけで、経略を労する必要はありません。
005
また、この景、高氏と釁隙が已に成ってしまっております。患に臨んで徴を賜されましたが、これに赴かなかったため、たとい平復されたとしても、終に合理は無いでしょう。黄河以南は、この景の職する所であり、用意に反掌させられ、附化させるのも難しくはありません。群臣は
仰しておりますので、この景の声に耳を傾け、唱するでしょう。齊、宋が一平されれば、徐も燕、趙に事うるでしょう。謹んで陛下が天網を宏く開くのを惟んみれば、方に書と軌を同じゅうしようとしております。この寸款(少しの誠意)を聞かば、霈然されると信じております。
」
と言うものであった。二月、この書を攜えた丁和が至ると、梁の高祖(蕭衍)は群臣を召して廷議した。尚書僕射の謝舉を始め百辟らが議したが、皆な侯景を迎え入れるべきではないと結論付けたが、高祖はこの結論を無視して、景を迎え入れる事にした。
第六回更新
006
高歡が死去すると、その子の高澄が後継についた。北齊で文襄帝とされる人物である。高祖は詔を下して景を河南王に封じると共に、大將軍、使持節、董督河南南北諸軍事、大行臺に任命して、承制を行わせた。鄧禹(後漢)の故事に倣って、鼓吹一部が給された。太清元年の五月、澄は大將軍の慕容紹宗に、景のいる長社を包囲させた。景が西魏に救援を要請すると、西魏は五城王の元慶らに兵を与えて、救援に差し向けた。これを知った紹宗は、退却していった。六月、景が今度は、司州刺史の羊鴉仁に援軍を求めた。鴉仁は長史の鄧鴻を援軍に出し、鴻が汝水まで至ると、慶軍は夜の内に姿を消していた。これによって、懸瓠、項城を押さえる事に成功した。そして、刺史を派遣して、この地を鎮させるよう求めた。七月、これを受けて詔が下され、鴉仁が豫、司二州刺史に任命され、懸瓠に移鎮された。また、西陽太守の羊思建が殷州刺史に任命され、項城を鎮する事となった。
第七回更新~第十回更新
007
東魏は元帥(高歡)を喪ったばかりか、景も河南ごと梁に寝返ってしまった。そのため高澄は、景が西、南と合從して、己の患いとなるのではないかと恐れるようになった。そこで、八月、景に書を送って
「
位が大寶ともなれば、これを守るのは易すくないと聞く。仁誠を以って重任されても、そのまま終えるのは実に難しい。或いは身を殺して名を成しても、或いは食を去って信を存しても、性命は鴻毛に比しく、節義は熊掌に等しい。そうであれば、挙しても徳を失わず、動しても過事は無く、進みても惡(憎)まれず、退いても謗言は無い。
008
先王(高歡)は司徒(侯景)と夷險に契闊し、孤子(私)と相於してきた。そのため、眷属のようであり、衿期は
綣しており、綢繆して寤語していた。つまり、義は終始を貫き、情は歳寒に存していた。司徒は少(若)きより長するに及び、微から著に至るまで、共に相い成生し、てきたが、恩徳が無かった事は無かった。既に爵冠は通侯であり、位標は上等となり、門は駟馬を容れ、室では万鍾が饗され、財利は郷党を潤し、栄華は親戚にまで達している。意気は相傾し、人倫は重とされ、知己を感じさせ、義は忘躯に在った。眷して國士と為る者は、漆身の節を立てる。饋するに壺
を以ってする者は、扶輪の効を致す。そうであれば、尚なるは已む事は無く、ましてその重なるはその通りであろう。
009
幸いにも故旧の義を以って、子孫を相い託して、方に秦晉の匹(類)を為し、共に劉范(劉氏、春秋・周卿士。范氏、春秋・晉大夫)の親を成さんと欲している。日の往きて月の来たりて、時の移ろいて世の易(変)われども、門に強蔭の無く、家に幼孤の有らば、璧を加えて遺(見棄)てず、宅を分けて相い済(助)け、先徳を忘れる無きが如く、以って後人を恤(慈)しむうものだ。しかし、負杖行歌を聞きて、狼顧して犬噬してしまえば、名を成す所は無く、義を取る所は無く、忠臣の跡を蹈めず、自ら叛人の地に陷ちようとしている。力は自ら強とするに足りず、勢は自ら保つに足りず、烏合の衆を率いたところで、累卵の危と為るだけだ。西は黑泰(西魏。宇文泰)に救を求め、南は蕭氏(梁)に援を請うていては、狐疑の心で、首鼠の事を為してしまう。秦に入ろうにも秦人に容れられず、呉に帰そうにも呉人に信じられないであろう。今、相い視すれば、未だ見その可なるは見えず、終久し得るか、これが安帰となるか知れたものではない。本心を推察すれば、それは不可能であろう。このような不逞の人が、曲(邪)に両端の説を為さば、遂に市虎の疑を懐かれ、投杼の惑を致すだけであろう。
010
此度の挙止は、事が既に露見しており、人は疑誤して、自と覚知を想い、門の大なるも小なるも合して、並びて司寇に付いた。近くにいる者が、偏師に命じて、前駆として討伐に乗り出しているから、南
、揚州は、時に応じて剋復されるよう。機に乗じて、長駆して懸瓠に至らんと欲した。しかし、炎暑のため、後に図る事とした。方に國靈に憑いて、
(恭)んで天罰を行わんとすれば、器械は精にして新であり、士馬は強盛である。内外は徳を感じ、上下は心を齊(等)しくしており、三令五申すれば、湯火を蹈む事も出来る状態である。もし、旗鼓が相い望み、埃塵が相い接すれば、勢は沃雪の如くであり、事は注螢に等しくなろう。
011
そもそも、明なる者は危を去りて安に就き、智なる者は禍を転じて福と為すものである。寧ろ我をして人に負かしむも、人をして我を負かしめず。從善の門を開かれれば、先迷の路は改められる。今、心を刷(清)めて意を盪(洗)い、嫌を除いて悪を去っても、想いはなお疑を致し、未だ信じられまい。もし卷甲して来朝し、垂
して闕に還らば、豫州刺史を授けよう。そして、終君の世まで、部するところの文武は追攝しない事とする。進みてはその祿位を保ち得て、退いても功名を喪わず。君門の眷属は、恙無きを得て、寵妻や愛子も、亦た送還されよう。通家を為すばかりか、親好も成ろう。食言せざる事は、皎日の如しである。
012
君は既に函谷で東封する事も、南向して称孤する事も、人から制を受ける事も出来ず、威名は頓(俄)かに尽きるであろう。空しく兄弟や子姪をして、足首異門させ、垂髮(子供)や戴白(老人)をして、塗炭を同じゅうさせるであろう。聞きし者は酸鼻は、見し者は寒心するであろう。まして骨肉は、愧の無きままでいられようか?
013
孤子は今日、この書を送る気は無かった。ただ蔡遵道が言う。『司徒は本より帰西の心は無く、深く悔禍の意を有している。西兵が將に至らんとするを聞き、遵道を遣って
中に向わせ、その多少を参(調)させた。少であればその同力を与して、多であれば更にその備を為せ。』と。また言う。『房長史が彼方に在りし日、司徒は嘗て書啓を送って、將に過を改めて自と新たにせんと欲した。已に李龍仁に差(背)き、発遣せんと欲するも、房が已に遠なるを聞きて、遂に発を停す。』と。未だ遵道のこの言が虚であるか実であるか、知る事は出来ていない。ただ、既に聞いたところでは、尽く告げてはいないであろう。吉凶の理は、自らこれを図る事を考えている。
」
と諭した。
第十一回更新~第十五回更新
014
景はこれに対して書で報いて
「
蓋し身を立て名を揚げるのは、義であると聞く。躬の在りて宝とするのは、生であると聞く。苟しくも事がその義に当たれば、則ち節士はその躯を愛(惜)しまない。刑罰が斯れ舛(乱)れれば、則ち君子は実にその命を重じんる。その昔、微子は狂を発いて殷を去り、陳平(前漢)は智を懐いて楚に背いたのは、最もな道理があったのだ。
015
僕は郷曲の布衣であり、本より藝用には乖(合)わない存在であった。初めて天柱(高歡)に逢うと、忝くも帷幄の謀を賜された。晩くに永熙(北魏。532~534年)に遇すると、干戈の任を委ねられた。出身(出世)して國を為すと、綿歴すること二紀、危を犯して難を履んできた。風霜を避ける事はしようとも思わなかった。遂に得躬を袞衣で被う事を、
(夕食)に玉食を口にする事を、当年に富貴となるを、光榮身は世に光栄となるを得た。それが、一旦にして旌旆を挙して、桴鼓を援し、北面して相い抗するは、何ぞや?実に以危亡を畏懼し、禍害を招くを恐れ、躯を非義に捐てては、身と名の両方を滅する理由だ。どうしてか?往年の暮れ頃、尊王(高歡)は疾に遘(罹)られ、神は善を祐けず、祈
するも
(癒)える無し。遂に嬖幸をして威權を、
寺(宦官)をして詭惑をほしいままにさせたため、上も下も相い猜するようにあり、心腹は離貳してしまった。僕の妻子は宅に在り、無事に圍(守)られているが、段康の謀は、所以を知る無く、廬潛が軍に入るも、未だ何故かは審かならず。翼翼たる小心によりて、常に戦慄を懐き、面目を靦(汚)すも、どうして自と疑わない事があろうか。師を長社に廻すに及び、自ら状を陳ぶるを希(願)うも、簡書の未だ達せざる内に、斧鉞が已に臨(至)った。既に旌旗が相い対し、咫尺にして遠からざれば、書を飛して奏し、兼せて鄙情を申した。しかし、群率は雄を恃みとして、眇然として顧ず、戟を運びて鋒を推して、専らに屠滅を欲していた。囲を築いて水を堰めたため、三板が僅かに存すだけで、目を挙げて相い看れば、命は
刻(時間)に懸っているのが分かり、死亡するを忍びなければ、城下に出戦するほか無かった。禽獣は死を惡(嫌)い、人倫は生を好む。送地されて拘秦されるは、楽と為すに非らず。ただ、尊王には平昔に与され、比肩して共に帝室を奬しており、形勢が参差であり、寒暑が小異であったとしても、丞相と司徒は、雁行するだけである。福祿や官栄は、自と是れ天の爵するところであり、労して後に受かるもので、理は相い干するものではなく、炭を呑むを求めるを欲するなど、何たる謬であろうか!人の財を窃するを、猶お盗と謂うのであれば、祿は公室を去る時には、それを取らないものである。今、魏徳は衰え、天命は未だ改まらずと言えども、恩を私第に祈っている者に、どうして関言するに足りようか。
016
賜に示す、「不能東封函谷,受制於人(函谷に東封するも、人に制を受くも能わず)」と。これは、僕が祭仲(春秋・鄭)を賢として、季氏(春秋・魯。季孫氏)を襃すると言っているようなものだ。無主の國にあって、禮が在ったとは未だ聞いた事は無く、動くに法は無い。何を以って訓を取れようか。財を分けて幼を養いて、事を令終に帰させる。捨宅して孤を存させるは、誰が隙末と云うであろうか。
017
また僕に言う、「衆不足以自強,危如累卵(衆は以って自ら強とするに足りず、危きは累卵の如し)」と。然紂は億兆の夷人を有していたが、すぐさま降りて十乱し、紂が百剋するも、終に自と後は無かった。潁川の戦は、つまり、殷監であろう。軽重は人によるが、非鼎(貴か否か)は徳によるものである。忠信を能くするのであれば、弱と言えども必ず強となるであろう。殷は聖が啓(起)こるのを憂して、危とするところは何と苦であろうか。まして今、梁道は
熙であり、招携するのに禮を以ってし、我を虎文(武官)とし、縻(繋)ぐに好爵を以ってした。方に五岳を苑とし四海を池とし、夷穢を掃して以って黎元(人民)を拯け、東は甌越に羈し、西は
、隴に通さんと欲す。呉、楚は剽勁であり、帯甲は千群である。呉兵冀馬、控弦は十万である。合わせて僕が部するところの義勇は林の如くであり、義を奮して威を取り、期せずして発し、大風が一振すれば、枯幹は必ず摧され、凝霜は暫くして落ち、秋帯は自と殞(落)ちるであろう。これは弱であり、誰が強と称するに足りようか!
018
また両端に誣され、二國より疑を受けた。物情を斟酌すれば、どうしてこうなろうか。その昔、陳平は楚に背いて、漢に帰して王となった。百里(春秋・虞、百里奚)は虞を出でて、秦に入りて霸をなした。蓋し昏か明かは主により、用とされるか捨とされるかは時に在る。禮を奉じて行わば、神はこれを庇しよう。
019
書に『士馬精新,剋日齊舉,誇張形勝,指期盪滅(士馬の精新にして、日を剋して齊しく舉し、形勝に誇張すれば、期を指して盪滅せん)」と称す。寒
が白露させれば、節候は同じと言う事であり、秋風が揚塵させれば、馬首の向く方向が異なる事があろうか。ただ北方の力爭を知るも、未だ西、南の合従を識らざれば、意は前途せんと欲しておきながら、坑穽がその側にある事を知らないと言う事に他ならない。もし、危を去りて正朔に帰らしめ、禍を転じて網羅を脱させんとして、彼が既に僕の愚迷を嗤っているのであれば、同じように君の晦昧を笑おう。今、既に二邦に引かれており、揚旌して北討し、熊虎が斉しく奮い、中原を剋復すれば、荊、襄、廣、潁が既に關右に属したように、項城、懸瓠もまた南朝を奉じるであろうから、幸いに自とこれを取れば、どのような恩賜で労されようか。権変が一ならざるは、理は万途ある。君計を為す者は、割地して両和させるに、三分して鼎峙させるに及ばず、燕、衞、晉、趙は相い奉祿するに足り、齊、曹、宋、魯は全て大梁に帰したように、僕をして得南朝に輸力させ、北には姻好を敦くさせて、束帛が交行させ、戎車を動かさせない。僕は当世の功を立て、君は祖禰の業を卒(終)わらせれば、各が疆界を保ち、躬は歳時を享け、百姓は乂寧となり、四民は安堵しよう。農夫を隴畝に駆るのか、勍敵を三方に抗するのか、干戈を首尾に避けるのか、鋒鏑を心腹に当てるのか、どれがよいか。太公を將としても、存を獲する能わざれば、帰の高明は、何を以って済を為し得るか。
020
また来書に云う、『僕の妻子は司寇に拘されている』と。これを以って要を見れば、反するべきだと言うのが見えてくる。これでは褊心を疑われる事になり、未だ大趣が分からない。どう言う事か?その昔、王陵が漢(前漢)に附いたが、母は帰さなかった。太上(劉邦)が楚に囚えられたが、羹を乞うに自若としていたと言う。まして妻子であれば、意に介す事であろうか。もし、これを誅する事が有益と言うのであれば、止めんと欲するも能わざる事であり、これを殺して損無しと言うのであれば、ただ坑戮されるであろう。家累とは君に在るものであり、どうして僕に関わりのある事であろうか。
021
遵道が伝えたところは、頗る謬に非らず。ただ縲紲に在って、備尽されざるを恐れるあまり、故に陳辞を重ねた上に、更に款曲を論じたのであろう。望まれる良図とは、時恵にして旨に報いる事である。その昔、盟主を共にして、事は琴瑟に等しくするも、讒人によって間されてしまい、翻して讎敵と為った。弦を撫して矢を搦し、覚えずして傷懐(傷心)し、裂帛を裂して書を還すも、何と述するべきか知らず。
」
と陳べた。
第十六回更新
022
十二月、景は軍を率いて
城に包囲攻撃を仕掛けたが、陥落させるには至らなかったため、
城から退き、城父城に攻撃目標を変更し、これを陥落させた。また、行臺左丞の王偉、左民郎中の王則を建康に派遣して、諸元氏の子弟から一人を選んで魏主に擁立して、北伐の輔佐させる事を建策した。これが聞き入れられ、太子舍人の元貞に詔が下され、咸陽王とされた。江を渡ってから、偽位に即く事を許し、乘輿と副御を資給した。
第十七回更新
023
高澄は慕容紹宗に景軍を追わせた。これに景は渦陽まで軍を引いたが、馬は数千匹、甲卒は数万、車が一万余両をなお保有していた。渦北に布陣して、紹宗軍と対峙する策略を取った。しかし、太清二年(548、武定六年)の正月、景軍の兵糧が底を尽いてしまった。また、士卒が北人で構成されていたため、南渡する事を快く思っていなかった。そのため、麾下の暴顯らがそれぞれ手勢を引き連れて、紹宗に降服してしまった。これによって、景軍は潰散してしまった。景は腹心の数騎に守られながら、峽石から淮を渡ると、そこで散兵の収拾を図った。騎馬と歩兵八百を集めると、壽春へと落ち延びていくと、監州の韋黯がこれを城に引き入れた。景は貶削を求める上表をしたが、優詔によってこれは認められなかった。そして、その上表とは逆に、豫州牧に任命された。本官はそのままである。
第十八回更新
024
景は壽春に拠点を構えると、遂に反叛を考えるようになっていた。そのため、属城の居民を召募して軍士とすると、市估と田租を停止し、百姓の子女は全て將卒に配した。八月、軍人の袍を作るために錦一万匹を求める上表をすると、中領軍の朱
が議して、御府錦を以って遠近の頒賞に当てて、辺城の戎服を使われるのは認められるものではないため、青布を支給すべきであると結論づけた。景はこの布を得ると、全て袍衫に仕立てさせた。そのため青色であった。また、臺所の武器の多くが、その性能が劣っていたため、東冶の鍛工を呼び寄せる事と、新たに製造させる事を求める上表をすると、どちらも認められた。景は渦陽の敗北の後、多くの徴求をしたが、朝廷は含弘を示して、拒絶する事は無かった。
第十九回更新
025
これに先立って、前年の太清元年(547、武定五年)の九月、豫州刺史で貞陽侯の蕭淵明が軍を指揮して彭城を包囲したが、十一月、東魏軍に撃ち破られていた。太清二年の二月、東魏と書のやり取りをし、前好を復活させようではないかと言う流れになっていった。高祖は北魏と連和する事を決断した。景はこれを聞いて驚き、早馬を出して強く諫めたが、高祖はこれに耳を貸さなかった。この後、表疏は跋扈となり、その言辞は不遜となっていった。
陽王の蕭範が合肥に鎮していたが、司州刺史の羊鴉仁と共に、何度も景が異志を抱いていると上表をした。領軍の朱
が
「
侯景は数百の叛虜であり、何の役に立ちましょうか。
」
と対処を求めたが、どちらも聞き入れられる事が無かったばかりか、逆に賞賜が加えられた。そのため、姦謀をますます強める結果をもたらした。また、臨賀王の蕭正德が朝廷に怨みを抱いていると知ると、秘密裏に交結を求め、正德はこれを聞き入れた。これによって景は、遂に反旗を翻した。馬頭、木柵に攻め入ると、太守の劉神茂、戍主の曹
を生け捕りにした。そのため高祖は詔を下して、合州刺史で
陽王の蕭範を南道都督に、北徐州刺史で封山侯の蕭正表を北道都督に、司州刺史の柳仲禮を西道都督に、通直散騎常侍の裴之高を東道都督に任命して、景の討伐に向かわせた。歴陽から渡河している。また、開府儀同三司、丹陽尹、邵陵王の蕭綸を持節に任命して、衆軍を董督させた。
第二十回更新
026
景は中軍大都督の王顯貴を留めて壽春城の守備を任せ、十月、軍を出すと合肥に向かうと見せかけ、
州に急襲を仕掛けた。すると、助防の董紹先が開城して降服してしまった。刺史で豐城侯の蕭泰を生け捕りにした。高祖がこれを聞くと、太子家令の王質に兵三千を与えて、江に巡行させて守備に当たらせた。景が歴陽に進攻すると、歴陽太守の莊鐵は弟の莊均に兵数百を与えて、景の營に夜襲を仕掛けさせた。景はこれを迎え撃って、均を討ち取った。鐵は降服した。蕭正德は大船の数十艘を先行させていた。荻を積載していると称していたが、その実、景を渡河させるためのものであった。景が京口に至り、渡河しようとしたが、質の動向が気になって動けずにいた。しかし、質が急に退いて去っていった。その理由が分からなかったため、景はこの情報を信用できずにいた。そこで、斥候を放って、情報の通りかを探らせた。出すに際して
「
質が退いたのが事実であったらば、江東の樹枝を折ってまいれ。
」
と言った。斥候がその通りに樹枝を持ち帰ったため、景は大いに喜んで
「
我が事はなれり。
」
と言うと、采石から渡河した。馬が数百匹、兵が千人であったが、京師はこの動きに気づいていなかった。景は軍を分けて姑孰を急襲すると、淮南太守で文成侯の蕭寧を生け捕りにした。そのまま軍を慈湖まで進めた。そのため高祖は詔を下して、揚州刺史で宣城王の蕭大器を都督城内諸軍事に任命した。都官尚書の羊侃を軍師將軍に任命して、その副官とした。また、南浦侯の蕭推に東府城を、西豐公の蕭大春に石頭城を、輕車長史の謝禧に白下を守らせた。
第二十一回更新
027
景が朱雀航に至った。蕭正德は先に丹陽郡にいたが、ここに至って、兵を率して景に合流した。建康令の
信が、兵千余を率いて航北に配されていたが、景軍が航に迫ってきたのを発見すると、兵に航を死守するよう命じた。一舶を沈める事が出来たが、結局、軍を棄てて南塘へと逃亡した。遊軍が航を閉じて景を渡らせた。皇太子の蕭綱は、乗馬を王質に授けると、精兵三千を配して、信の救援に向かわせた。質が領軍府に至った時、まだ布陣が終わっていない情況で、景軍と遭遇してしまい、敗走させられた。景はこの勝ちに乗じて、闕下まで一気に軍を進めた。西豐公の蕭大春が石頭城を放棄して逃亡すると、景は儀同三司の于子悅に石頭城を守らせた。謝禧も白下城を放棄して逃げ出している。景は百道から城に攻勢を掛け、兵に火炬を持たると、大司馬や東西の華諸門に火を放たせた。城中は騒然となり、守備隊形を整える事も出来ずにいた。羊侃が門樓を鑿し、そこから水を通して火を消そうと試みた。これが功を奏して、鎮火に向かっていった。景軍は今度は東掖門を突破しようとしたが、またもや侃が立ちはだかった。門扇を鑿すと、その穴から槊を突き通して、数人を貫き殺すと、東掖門からの進入を諦めて兵を引いた。それではと、東宮の牆に登り、城内に矢を射掛けさせた。夜になると、綱は兵を選抜して、景のいた東宮に火を放たせた。東宮の臺殿は灰燼に帰した。景も城西の馬厩、士林館、太府寺に火を放った。翌日、景は数百の木驢を製造させ、城攻めに掛かった。しかし、城上から飛石を浴びせ掛けられ、直撃を受けた物は全て破壊されてしまった。景は苦戦を強いられ、陥落させられないばかりか、兵も器も損傷が拡大していったため、城攻めを取り止めにした。その代わりに、長囲を築いて内と外とを隔絶させる作戦に出た。そして、中領軍の朱
、太子右衞率の陸驗、兼少府卿の徐驎、制局監の周石珍を誅殺するよう上表した。城内から賞格が記された書の結わえられた矢が、外へと何本も射放たれた。その内容は
「
景の首を斬る事が出来た者には、景の位をそのまま授けよう。また、銭一億万、布絹はそれぞれ一万匹、女樂二部も授けよう。
」
と言うものであった。
第二十二回更新
028
十一月、景は蕭正德を帝に擁立した。正德は儀賢堂で皇帝位に即くと、太清二年を以って正平元年と改めた。童謠に「正平」の言があったため、号を立てる際にこれに応じる形を取ったのである。景は自ら相國、天柱將軍となった。正德は娘を景の妻とした。
029
景は東府城に攻撃を仕掛けるに当たって、百尺の樓車を製造させた。そして城
に鉤梯子を引っ掛け、城内への進入に成功した。兵数千を与えられた儀同三司の盧暉略は、長刀を手に城門を挟むように布陣した。城内にいた文武の官は、丸腰状態で城外へと追い立てられ、そこを暉略軍に襲われたため、死者は二千余人に上った。南浦侯の蕭推は、この日に殺害されている。景は蕭正德の子の蕭見理と暉略に、東府城の守りを預けられた。
第二十三回更新
030
景は城の東西に土山を築かせて、城内に圧力を加えた。城内でも同じく両山を築いて、これに応じようとした。この築山には、王公以下の全員が土を運んだ。景が至った時には、京師の攻略が目的であったため、号令は甚だ明らかであり、百姓に危害を加えるような事は無かった。しかし、攻城するも陥落させられずにいたため、兵の心は離れ始め出した。また、援軍が集結すれば、数日もせずして潰滅させられるのではないかと恐れた。そのため景は、兵に殺掠の許可を出した。兵が一斉に殺掠に走ったため、屍が折り重なって路を塞いだ。兵は富室や豪家を略奪して回った。子女や妻妾は、全て連行されて軍營に入れられた。土山を築くに当たっては、貴賎の別無く、昼夜に息わず働かされ、殴打や鞭も加えられた。そして、疲弊した倒れた者は、その場で殺して山を築く土で埋められた。号哭の声は天地を震わせるほどに挙がった。それでも、百姓で逃げ出したり隠れたりしようとする者が出なかったばかりか、それと分かりながら城外へと次々と出てきたのであった。旬日の間に、その数は数万に至ったほどである。
第二十四回更新
031
儀同三司の范桃棒が、密かに梁に降服する使者を派遣していたが、これが露見した。景は桃棒を拉殺した。邵陵王の蕭綸が、西豐公の蕭大春、新淦公の蕭大成、永安侯の蕭確、超武將軍で南安郷侯の蕭駿、前
州刺史の趙伯超、武州刺史の蕭弄璋、歩兵校尉の尹思合を指揮下に置き、歩兵騎兵の三万を率いると、京口から鍾山へ一夜の内に急行し、夜が開ける前に陣立てを完成させた。景軍はこれに大いに驚き慌て、船団は全て逃散してしまった。景は兵一万余に分けて綸軍に当たらせたが、綸はこれを蹴散らし、首級千余を挙げる大勝利を挙げた。翌朝、景は覆舟山の北で体勢を立て直した。綸も陣を並べて、景軍に対向した。景は進まず、戦況は膠着した。日が暮れると、景は軍を引き上げ始めた。駿が騎兵数十を率いて景を挑発すると、景は一転して軍を返して攻撃を加え、駿軍を敗走させた。時に伯超は玄武湖の北に布陣していたが、駿軍の急を見ても救援に駆けつけなかったばかりか、その場から軍を離脱させようとしたため、軍は混乱に陥った。それを景が見逃すはずは無く、これを追撃して潰滅させた。綸は京口へと退却した。景軍は輜重や器甲を尽く鹵獲し、挙げた首級は数百、捕虜は千余であった。また、大春、綸の司馬の莊丘惠達、直閤將軍の胡子約、廣陵令の霍儁などを生け捕りにした。城下へと引き摺り出すと
「
既に邵陵王は捕えられた。
」
と言わせた。しかし霍儁だけは
「
王は僅かに失利しただけに過ぎず、既に全軍は京口に戻っている。城中を堅守していれば、援軍もすぐさま至ろう。
」
と屈服しなかった。兵に刀で殴られても、霍儁の言辞や顔色に一切の変化は無かった。景はこれを義として、釈放させた。
032
この日の晩、
陽王の蕭範の世子の蕭嗣と、裴之高が後渚に至り、蔡洲に布陣した。景は軍を分けて、南岸に配した。
第二十五回更新
033
十二月、景は諸攻具を始め飛樓、橦車、登城車、鉤
車、階道車、火車を製造させた。いずれも高さが数丈で、一車に二十輪が取り付けられていた。それらは闕前に並べられ、一斉に城攻めに掛かった。火車からの攻撃で城東南隅の大樓を焼き払うと、景軍はこの火勢を利用して攻勢を掛けたが、逆に城上から火車に火が放たれ、攻具は全て消失してしまい、景軍は作戦の変更のために、いったん城壁から離れる事を余儀無くされた。次の作戦として、土山を築いて、そこから城内に攻撃を仕掛けようとした。城内では、柳津が地下道が掘らるように命じ、その土山が下から崩そうとした。これが成功した。景は再び土山の造営を諦め、城攻めに用意した攻具を焼き払うと、柵へと退却した。そんな中、材官將軍の宋嶷が、景に降服してきた。そして一計を案じた。それは、玄武湖の水を臺城に引き込めば、城外は水かさが数尺に達するであろうから、そうなれば、闕前の御街を水没させられるでしょう。また、燒南岸の民居や營寺に火を放てば、焼き尽せると言うものであった。
第二十六回更新
034
司州刺史の柳仲禮、衡州刺史の韋粲、南陵太守の陳文徹、宣猛將軍の李孝欽が、救援に駆けつけた。
陽王世子の蕭嗣、裴之高も渡河し終えていた。仲禮は朱雀航の南に、之高は南苑に、粲は青塘に布陣し、文徹と孝欽は丹陽郡に入り、嗣は小航の南に布陣した。皆な淮水に沿って柵を造った。正平二年(549、太清三年、武定七年)の正月、景にこの情報がもたらされ、景は禪靈寺の門樓に登って、各軍の情況を望んだ。粲の營壘がまだ完成していないと見るや、北岸から渡河して、粲軍を急襲した。粲が迎え撃つも敢え無く破れ、粲の首は城下に晒された。仲禮は粲軍の敗北を知ると、すぐさま甲を身に纏い、数十騎を引き連れて救援に向かった。景軍を強襲して、首級数百を挙げた。投水して死んだ兵は千余を数えた。仲禮はそのまま突撃を続けたが、深入り過ぎてしまった。仲禮の乗馬が泥に脚を取られ、仲禮は投げ出され、そこを襲われて重傷を負わされた。この戦い以後、景軍は南岸に渡ろうとはしなかった。
第二十七回更新
035
邵陵王の蕭綸が臨城公の蕭大連らと共に、東道から南岸に集結した。また、荊州刺史で湘東王の蕭繹は、前年の十二月に世子の蕭方等を、十一月には兼司馬の呉曄、天門太守の樊文皎を京師へと向かわせていた。ここに至って、湘子岸の前に布陣した。高州刺史の李遷仕、前司州刺史の羊鴉仁も兵を率いて、これに続いていた。この二軍と共に、
陽王世子の蕭嗣、永安侯の蕭確、文皎が兵を率いて淮水を渡河して、東府城前の柵を攻め落として焼き払うと、遂に青溪水の東に陣を布いた。景は儀同三司の宋子仙を南平王第に配して、青溪水の西に沿って柵を設営させ、これに相対させた。二月、景軍の兵糧が底を突き始めた。米は一斛で数十万にまで跳ね上がったため、人民で相い食む状態に追い込まれた者は、十に五、六人に上った。
036
梁の救援軍が北岸に到着すると、百姓は老を扶し幼を攜えて、その軍の下へと向かい始めた。しかし、淮水を渡り切った所で、救援軍の兵は競うようにして、その人民から略奪を始めたのであった。景軍にも、梁軍に投降しようとしていた兵がいたが、これを聞いて思い止まった。景軍が城外に至った時、城中では守りを固めて、景軍の撃退に関しては、援軍に望みを掛けていた。そして今、四方から援軍が雲合し、百万と号するほどの兵数が、營を連ねるようになったが、既に一ヶ月余日が経過していた。城中では疾疫が発生し、死者が半数を超える事態になっていた。
第二十八回更新
037
景は講和を求めてくると、梁はこれを聞き入れずにきたが、事の急なるに至って、これを聞き入れる事にした。これに景は、江右四州(南豫州、西豫州、合州、光州)の地の割譲と、宣城王の蕭大器を人質に差し出させること、その後に包囲を解いて江を渡河させる事を要求した。その代わり、儀同三司の于子悅、左丞の王偉を入城させて、人質とする事を伝えた。中領軍の傅岐が議して、宣城王は嫡嗣の重にある事から、これを聞き入れてはならないと陳べた。その代わりに、石城公の蕭大款を人質として差し出すべきであると陳べると、これが聞き入れられて、これを元にして詔が下された。西華門外に壇が設けられると、尚書僕射の王克、兼侍中で上甲郷侯の蕭韶、兼散騎常侍の蕭瑳を向かわせ、子悅、偉と共に登壇させて盟を共にさせた。左衞將軍の柳津が西華門下に出てくると、景も柵門から出てきた。そして、津と遠く離れて相対すると、牲を刑して歃血して盟とした。
038
南
州刺史で南康嗣王の蕭會理、前青冀二州刺史で湘潭侯の蕭退、西昌侯世子の蕭彧が兵三万を率いて、馬
洲へと至った。景は北軍が白下城から上ってくる事によって、江路が断たれてしまう事を恐れていた。そのため、北軍を南岸に移すよう求めた。これによって、北軍は江潭苑に移るよう命令が下された。景が上表して
「
永安侯、趙威方が、柵を隔ててこの景を詬(罵倒)して、『天子が汝と盟したが、我らは終に汝らを逐うであろう。』と言っています。そこで乞うのは、この二人を召して城に入れさせ、進発させて欲しいと言う事です。
」
と陳べたため、二人は招集された。景はまた上表して
「
西岸から信書が至り、高澄が既に壽春、鍾離を得たとの事です。これでは、どこに居ても安足する所はありません。そこで、廣陵、
州をお貸しいただきたい。壽春、鍾離を回復すれば、すぐさま朝廷に奉還いたしますので。
」
と陳べた。
第二十九回更新~第三十六回更新
039
彭城の劉
が景に
「
大將軍は頓兵して既に久しくなりますが、攻城するも抜けずにおります。そして今、援軍が雲集しており、更に破るのが難しくなってきました。兵糧もこの一ヶ月を支えられるかどうか不安です。運漕路が断たれている上に、野に掠する所無く、嬰児が掌上にいるような状態ですが、折りしも信書が至りました。和を講じて全軍を返す絶好の機会であり、これが計の上なるものです。
」
と説き、景はこれに同意を示したため、講和を求めたのであった。しかし、この後、援軍の号令が統一されておらず、勤王の効は為せないと分かった。また、城中では疾死する者が増加の一途をたどっていると知ると、必ずや和に応じると判断した。謀臣の王偉も
「
王は人臣を以って兵を挙げて背叛し、宮闕を囲守して、既に十旬を超えています。妃主が逼辱され、宗廟は凌穢されて、今日ここに至って、何れの所に身を置けましょう。願わくは王、その変を見られよ。
」
と説いたため、景は我が意を得たりと、抗表して
「
この景が聞きましたところでは、『書不盡言,言不盡意(書は言を盡さず、言は意を盡さず)。』と。しかし、意は言に非ざれば宣せられず、言は筆に非ざれば尽されず。この景が憤を含みて蓄積した理由を、黙ったまま止む事は出来ません。密かに惟んみれば、陛下の睿智は躬に在り、多才にして多藝です。その昔、世季に当たって、漢、
に龍翔して、凶を夷して乱を剪して、家怨を雪ぎ、然る後に前王の武(跡)を踵(踏)んで、光(広)く江表を宅とし、文(周・文王)、武(周・武王)を憲章し、堯、舜を祖述したのです。兼わせて魏國が
遲たとなった事により、外からの勍敵は無くなったため、西は華陵を取り、北は淮、泗を封じる事が出来ました。そして、高氏と好みを結び、
軒は相い屬(連)なるに至り、疆
には虞(憂)いは無くなって、十有余載となりました。躬ら万機を覧じ、劬勞して治道されています。周(周公・旦)、孔(孔子)の遺文を刊正して、訓釈は真なるは祕奥の如しでした。享年が長久となれば、本枝も盤石となりました。人君の藝業は、これより京(大)なるは莫しです。この景が一隅に踊躍したる理由は、南風を望みて歎息したからです。名を図る事と爽(失)を実とする事は、聞見が同じでないでしょうか。この景が委質してより策名し、前後のその事跡は、これまでの表奏にて、既に具に陳べております。しかし、憤懣に堪えざるため、再び陛下の為にこれを陳る次第です。
040
陛下が高氏と通和されて、歳は一紀を踰え、舟も車も往復して、道路は相い望むようになり、必ずや災を分かち患を
(憂)い、休(幸)を同じくし戚を等しくするでしょう。むしろ、この景の一介の服を納れて、この景に汝、潁の地を貪(探)らせるには、河北は絶好の地でした。しかし、檄にて高澄を詈し、聘使の未だ帰らざる内に、これを虎口に陥れて、兵を揚げ鼓を撃ちて、彭、宋に侵逼されました。そも敵國が相い伐するに、喪を聞かば則ち止めるものであり、匹夫の交とは、孤を託し命を寄すものです。万乘の主にもかかわらず、利を見て義を忘るとは、このような行動ではないでしょうか?これが失の一です。
041
この景は高澄と、既で仇憾を有しており、義は國を同じゅうするにはあらざれば、身を有道に帰したのです。陛下は授けるに上將を以ってし、任ずるに専征を以ってしたばかりか、歌鍾や女樂、車服や弓矢をも賜されました。この景、命を受けて辞さざりしは、実に報效を思ったからです。そして、旆を嵩、華に挂け、旌を冀、趙に懸け、劉夷し蕩滌して、宇内を一匡するを欲したのです。陛下は朝服にて江を済(渡)り、東岳に告成する事によって、大梁をして軒黄(黄帝)と盛を等しくさせ、この景をして伊(殷・伊尹)、呂(周・呂望)と功を比(等)しくさせ、裕を後昆に垂れて、名を竹帛に流さんとするのが、誠に生平の志でした。陛下はその功を分けんと欲するも、任を賜する能わずして、この景をして河北を撃たしめました。また、自と徐方を挙げんと欲するも、庸懦の貞陽(貞陽公。蕭淵明)を遣り、驕貪の胡(胡貴孫)、趙(趙伯超)を任じたため、旗鼓を裁たれ、鳥散魚潰してしまったばかりか、慕容紹宗に勝ち乗じて席卷されてしまい、渦陽の諸鎮で甲を棄てなかった所はありませんでした。疾雷は耳を掩うに及ばず、散地はよく全を固くするせざるように、この景をして狼狽させたばかりか拠を失わせ、妻子は戮されました。これは実に、陛下がこの景を負すこと深きです。これが失の二です。
042
韋黯が壽陽を守らせるも、兵は一旅も無く、慕容は凶鋭であり、長江にて飲馬せんと欲しました。この景が淮南に退いて保たざれば、その勢を測る事は出来なかったでしょう。既に逃遁させた事によって、辺境は寧を取り戻すに至り、この景はこの州の作牧とされ、蕃捍を命じられました。そのため、余燼を收合して、労来して安集し、兵を励して馬を秣し、剋申(剋日)して後に戦って、韓山の屍を封じて、渦陽の恥を雪ごうとしたのです。陛下はその精魄を喪われ、再び守気を取り戻されないままに、貞陽の謬啓をお信じになられてしまい、通和を請うに至りました。この景が何度も執(断)るように陳べましたが、疑閉されて聴れず、飜覆されることこのようでありました。童子ですら猶おこれを羞じるでしょう。それが人の君に在りしが、その德を二三(二転三転)させるとは。その失の三です。
043
そもそも畏懦が逗留するのは、軍の常法です。子玉(春秋・楚)は小敗ながらも、楚に誅されました。王恢(前漢)は失律したらば、漢より戮を受けました。貞陽は精甲が数万、器械は山積でした。対して慕容は軽兵で、兵は百乗も無く、拒抗する能わざるはずが、貞陽は囚執されました。帝の猶子が事もあろうに、敵庭に面縛したのです。誠にその属籍を絶って、以って征鼓に釁るべきでした。しかし、陛下は追責する無かったばかりか、その苟存を憐んで、微臣(景)を以って、相い貿易(交換)するを規したではありませんか。人君の法は、このようなものだとでも言うのですか?その失の四です。
044
懸瓠は大藩であり、古えは汝、潁と称されていました。この景は州を挙げて内附しようとしましたが、羊鴉仁が頑なに入るを認めませんでした。しかも、入る事が出来た後には、故無くこれを放棄しました。しかし、陛下は嫌責する無かったばかりか、北司に還居させたではありませんか。鴉仁がこれを棄てたのに、罪とされる無く、この景がこれを得ても功とされませんでした。その失の五です。
045
この景が渦陽で退衂したのは、戦の罪には非らず、実に陛下が君臣や相と見誤ったためです。それでも、壽春に還ってからは、悔色を見せる事無く、朝廷を祗奉して、悪を掩して善を揚げました。しかし、鴉仁は自ら州を棄てたにもかかわらず、切歯して歎恨し、内心では慚懼を抱き、遂にこの景が反しようとしていると啓しました。反しようと言う形迹があるとの事でしたが、どこにその徴験(証拠)があると言うのですか?頓爾に誣陷され、陛下の辯究もありませんでしたが、黙って信納しました。どうして誣人の莫大の罪が有るも、並肩して主に事えられるでしょうか?その失の六です。
046
趙伯超は拔くに無能でありながら、任は方伯に居しています。している事と言えば、百姓から漁獵(略奪)して、多くの士馬を集めているだけで、國の為に功を立てようと言う意欲は無く、ただ自らが富貴と為る事だけを考えています。権幸の為に貨を行い、声名を求め買め、朱
の徒は、金貝を積み受けたため、遂に皆な胡、趙と称するようなりました。昔の關(三國・蜀、關羽)、張(三國・蜀、張飛)に比するものとして、天聴を掩して誣(欺)いたのが、真実と言えます。韓山(寒山)の役では、女妓を隨行させており、裁(僅)かに敵鼓が聞えただけで、妾と共に逝(逃)げ出し、貞陽を待つ事もしなかったため、隻輪も返ってきませんでした。この罪を論ずれば、九族を誅するとの結論に至ります。中人に納賄したのに、また州任とされました。伯超が無罪であれば、この景の功はどう論じられるのでしょう?賞罰に章無くんば、何を以って國たるでしょうか。その失の七です。
047
この景は、下を御するに素より厳であり、物を侵させる事はありませんでした。關市や征税(徴税)は、全て停止や免除したため、壽陽の民は、頗る優復されていると抱くようになりました。裴之悌らは助戍として彼方に在るも、この景の検制を憚って、遂に何も出来ぬまま遁帰しました。そして再び、この景が反しようとしていると啓したのです。陛下は違命も離局も責めなかったばかりか、正に浸潤の譖を授けました。この景を処するにこのようであったらば、何れの地をしても安んじたでしょう。その失の八です。
048
この景は雖才は古人に謝すと言えども、実に頗る事を更(改)めて、民を撫して衆を率いて、幼から長に至るまで、少(小)さきは運動(行動)を来(労)い、多(大)きは遺策の無きとしました。身を有道に帰すに及び、忠規を
竭さんとして、いつも陳奏してきましたが、常に抑遏されました。朱
は軍旅を独断し、周石珍は兵仗を総尸し、陸驗、徐驎は穀帛を典司していますが、皆な隠す事無く貨を求め、金の非ざれば行おうとしませんでした。境外の実情から、舍人の省を定計しなければなりません。將を挙げて師を出すに当たっては、主者の命を奏する事を責務としなければなりません。この景は中人に賄賂を送らなかったため、常に抑折されたのです。その失の九です。
049
陽(
陽王、蕭範)は合肥に鎮していて、この景と隣接しています。この景、皇枝である事を推して、いつも祗敬していました。しかし、嗣王(
陽世子、蕭嗣)は庸怯であり、虚見で備御していて、この景が使命を有していたため、彈射を加えたのです。或いはこの景が反すると声言し、或いはこの景が繊介であると啓したのです。招携するには禮を以ってすべきであるのに、忠烈の士が何を以ってこれに堪えられるでしょうか。その失の十です。
050
その余(他)の条目についていは、詳しくは陳べませんが、進退は惟れ谷(窮)まったために、何度も表疏したのです。言は直にして辞の強なれば、龍鱗に忤る箇所もあったでしょうが、遂に厳詔が発せられましたが、討襲されてしまいました。重華(虞舜)は純孝であったそうですが、それでも凶父の杖を逃れました。趙盾(春秋・晉)は忠賢でしたが、殺君の賊を討ちませんでした。この景、何の親にて何の罪にて、坐して殲夷を受けなければならないのでしょうか?韓信は雄桀であり、項(項羽)を亡して漢(劉邦)に霸させましたが、末には女子に烹され、
通の説を悔しました。この景、この書伝を読むたびに、いつも心では常に笑これをっていました。どうして彼の覆車に遵うのを容れて、陛下が佞臣の手を執るのを快しとし得ましょうか。是れを以って晉陽の甲を興し、長江を乱して直ぐに済(渡)り、願うは赤
に升るを、文石を踐むを得て、口は枉直を陳べ、指は臧否を画き、君側の悪臣を誅し、國朝の粃政を清して、然る後に藩翰を還守して、以って忠節を保つ事です。実にこの景の至願です。
」
と陳べた。
第三十七回更新
051
三月朔の朝、城内では景が盟に違ったとして、烽を挙げ鼓が譟(鳴)らされた。これを合図にして、羊鴉仁、柳敬禮、
陽世子の蕭嗣が東府城の北に進軍を開始した。柵壘が未だ完成していないところに、宋子仙に強襲されて敗れた。淮水に追い込まれて死んだ兵は数千に上った。送られてきた首級を、景は闕下に積ませた。
第三十八回更新
052
景は于子悅を派遣して、更なる和を求めた。梁は御史中丞の沈浚を、景の下へ向かわせた。景が志を捨て去っていないと見るや、浚はその事を強く責めた。景はこれに激怒して、即座に石闕の前水を決壊させると共に、至る所から城に攻撃を仕掛けた。攻撃は昼夜を問わず続けられ、城は遂に陥落した。乘輿や服玩を鹵獲し、後宮の嬪妾を連れ去り、王侯や朝士を捕えて永福省に送ると共に、二宮(上臺、東宮)の侍衛を撤収させた。王偉に武德殿を守らせ、子悅を太極東堂に配すると、天下に大赦を発する矯詔を出し、合わせて自らを大都督、督中外諸軍事、録尚書に任命するとした。侍中、使持節、大丞相、王はそのままとした。城中には屍が積み重なっていて、埋葬する暇も無かった。また、死んだものの斂されていなかった者や、助かる見込みの無い者を集めると、景はこれら全てを焼き払わせた。その臭気は十余里まで届いたと言われる。尚書外兵郎の鮑正が病状が悪化すると、これを引き摺りださせて、同じように火をつけた。熱さと苦しさで火の中を転げ回ったが、しばらくして息絶えた。この時には、救援軍は皆な引き返している
第三十九回更新
053
景は矯詔を出して
「
過日、姦臣が命をほしいままにして、社稷を危機に陥れた。丞相(侯景)の英発に賴みであり、入りて朕の躬を輔けた。征鎮や牧守は、それぞれ本任に復帰せよ。
」
とすると、蕭正德を侍中、大司馬に降し、百官は全て元の職に復帰させた。
054
景は董紹先に兵を与えて、廣陵を攻撃させた。南
州刺史で南康嗣王の蕭會理は、降服して城門を開けた。紹先を南
州刺史に任命している。
055
北
州刺史で定襄侯の蕭祗は、湘潭侯の蕭退、前潼州刺史の郭鳳と共に兵を率いて、救援に向かっていた。しかし、ここに至って、鳳が淮陰を拠点にして景に応じようと謀った。祗らはこれを抑える事が出来ず、二人共に東魏に亡命した。景は蕭弄璋を北
州刺史に任命した。州民は結束して、これに抵抗する構えを見せた。そのため景は、廂公の丘子英、直閤將軍の羊海に兵を与えて、救援に差し向けた。しかし、海が子英を斬り殺して、軍ごと東魏へと投降してしまった。これによって、東魏は淮陰を手中にした。
056
景は儀同三司の于子悅、張大黑に兵を与えて、呉郡へと進攻させた。呉郡太守の袁君正は、戦わずして降服して、これを迎え入れる事にした。子悅は至ると、呉郡中で略奪を繰り広げた。多くを徴発し、子女を連れ去り、百姓を毒虐したため、呉人で怨憤しなかった者は無く、これによって、それぞれが城柵を立てて、自衛手段を講じた。
057
景は西州へと移り、儀同三司の任約を南道行臺に任命して、姑孰を鎮させた。
第四十回更新
058
五月、高祖が文德殿で崩御した。臺城が陥落した時、三月であるが、景は王偉、陳慶を先にやって、高祖に謁見させていた。すると高祖が
「
景は今、いずくに在るや?卿、召し来たらせよ。
」
と言った。高祖が文德殿にいると、景が入朝してきた。その時、甲士五百人を護衛として引き連れ、帯剣したまま升殿した。拜が訖わると、高祖が景に
「
卿は戎に身を置いて日は久しいが、労は無かったか?
」
と問うたが、景は黙然として答えなかった。また高祖が
「
卿は何州の人であり、どうしてここに至ったか?
」
と問うたが、景はこれにも答えず、傍らにいた任約が替わりに答えている。景は退出すると、廂公の王僧貴に
「
私は常日頃から鞍に跨り敵と対してきた。矢刃が交わされる中にいたが、意気は安緩としていて、遂に怖心を抱く事は無かった。だが今日、蕭公と見みえたが、人をして慴(畏)れさせるものがあった。天威に非ざれば犯し難いと言えよう。私は正直、二度と会いたくは無い。
」
と言った。高祖は実際には既に屈していたが、その意はなお忿憤を有していた。時に奏聞があっても、その多くが譴却された。景は深く敬憚を抱き、これ以上は逼しようとはしなかった。景が軍人を直殿省内に派遣した時、高祖が制局監の周石珍に
「
あれは何者のであるか?
」
と問うた。これに周石珍が
「
丞相のでございます。
」
と答えた。すると高祖が
「
何者であるか、丞相とは?
」
と問いを重ねた。そのため周石珍が
「
侯丞相であります。
」
と丁寧に答えたが、高祖はこれに怒りを露わにして
「
その者の名は景であろうが。どうして丞相などと言ったか!
」
と言った。これ以後、求めた事の多くが思い通りにならず、御膳に至るまで裁抑されてしまったため、遂に憂憤を抱くようになり、疾して崩御したのであった。
第四十一回更新
059
景は高祖の死を隠して喪を発せず、昭陽殿に殯したため、殿外の文武官職で知る者は無かった。二十余日の後、梓宮を太極前殿に升した。そして、皇太子の蕭鋼を迎えて、皇帝位に即かせた。簡文帝である。ここで景は矯詔を出して、梁に連行された北人で奴婢とされた者を赦免して、その力を利用しようと画策した。
060
儀同三司の來亮に兵を与えて、宣城を攻撃させた。しかし、宣城内史の楊華に誘き出され、亮は斬られてしまった。これを知った景は、將の李賢明に華の討伐に当たらせ、華は降服して郡を明け渡した。
061
景は儀同三司の宋子仙らに兵を与えると、東の錢塘に進軍させた。新城戍主の戴僧易は縣に拠点を構えてこれと対峙した。
062
景は中軍都督の侯子鑒を呉郡に向かわせ、于子悅、張大黑を捕えて護送させると、二人を誅殺した。
063
東揚州刺史で臨城公の蕭大連が州を、呉興太守の張
が郡を拠点にして対抗すると、南陵以南でも同じようにして、それぞれが守りを固めた。景の制命が及んだ範囲は、呉郡以西、南陵以北に過ぎなかった。
064
六月、景は儀同三司の郭元建を尚書僕射、北道行臺、總江北諸軍事に任命して、新秦を鎮させた。
第四十二回更新
065
呉郡人の陸緝、戴文舉らが兵一万余を挙げると、呉郡太守の蘇單于を殺して、前淮南太守で文成侯の蕭寧を主に推して、景との対決姿勢を示した。七月には宋子仙がこれを聞きつけ、攻撃を加えると、緝らは城を棄てて逃走した。景は呉郡から海鹽、胥浦の二縣を分離して、武原郡とした。
066
ここに至って、景は蕭正德を永福省で殺害した。元羅を西秦王に、元景龍を陳留王に封じた。また、諸元氏の子弟で王に封じられた者は、十余人を数えた。柳敬禮を使持節、大都督に任命し、大丞相に直属させて、戎事に参与させた。
067
八月、景は中軍都督の侯子鑒、監行臺の劉神茂らに東討を命じた。子鑒は呉興郡を撃ち破り、呉興太守の張
の父子を捕えて、京師へと護送した。景は二人とも殺している。
068
景は宋子仙を司徒に、任約を領軍將軍に任命した。また、爾朱季伯、叱羅子通、彭儁、董紹先、張化仁、于慶、魯伯和、
奚斤、史安和、時靈護、劉歸義を、いずれも開府儀同三司に任命した。
069
陽王の蕭範が兵を率いて柵口に軍を進めると、江州刺史で尋陽王の蕭大心が、これを追って西上した。景が姑孰まで出てくると、範麾下の將の裴之悌、夏侯威生がへいを引き連れて、景に降服した。
070
十一月、宋子仙が錢塘を急襲すると、戴僧易は降服した。景は錢塘を臨江郡、富陽を富春郡とした。王偉、元羅を共に儀同三司に任命した。
071
十二月、宋子仙、趙伯超、劉神茂が會稽に進攻すると、東揚州刺史で臨城公の蕭大連は城を放棄して逃亡を図ったが、神茂がこれを追撃して生け捕りにした。景は裴之悌を使持節、平西將軍、合州刺史に、夏侯威生を使持節、平北將軍、南豫州刺史に任命した。
072
百濟の使者が到来したが、城邑が戦火に焼かれたのを目の当たりにして、端門の外で号泣した。道行く人も、涙を禁じえなかった。景がこれを聞いて激怒し、莊嚴寺に拘禁して、出入りを認めなかった。
第四十三回更新
073
大寶元年(550、武定八年)の正月、景は矯詔を出して、自らに班劍四十人を加えて、前後部羽葆鼓吹を給し、左右長史、從事中郎四人を置いた。
074
前江都令の祖皓が廣陵で挙兵すると、南
州刺史の董紹先を殺意概して、前太子舍人の蕭
を刺史に推した。また、東魏と結んで援軍を求め、檄を遠近に飛ばして、景の討伐を訴えた。景はこれを聞いて大いに慌てたが、即日の内に侯子鑒らをその指揮下に置いて、京口を出発し、水陸から進軍した。皓は城の守りを固めたが、二月、景の攻撃を受けると、三日で陥落した。景は皓を車裂きにした後に晒すと、城中の老幼を問わず全て斬り殺させた。子鑒に南
州事を監させた。
075
景は宋子仙を京口に召還した。
076
四月、景は元思虔を東道行臺に任命して、錢塘に鎮させた。侯子鑒を南
州刺史に任命した。
077
五月、文成侯の蕭寧が呉の西郷で挙兵すると、旬日の間に兵は一万に達した。寧はこれを率いて、西上を開始した。廂公の孟振、侯子榮がこれを返り討ちにして、寧の首級を挙げた。その首級は、景の下に送られている。
078
七月、景は秦郡を西
州、陽平郡を北
州とした。
079
任約、盧暉略が晉熙郡を攻撃して、
陽王世子の蕭嗣の首級を挙げた。
080
景は王偉を中書監に任命している。
081
任約が進軍を続けて江州を強襲すると、江州刺史で尋陽王の蕭大心は降服した。蕭繹は、後の世祖であるが、江州の守りが失われたと聞くと、九月、衞軍將軍の徐文盛に兵を与え武昌へと向かわせて、約の侵攻に備えさせた。
082
景は再び矯詔を出して、自らを相國に進位させて、泰山等二十郡に封じて漢王とし、入朝不趨、讚拜不名、劍履上殿の特権を与えるとした。これは蕭何の故事と同じである。
083
景は柳敬禮を護軍將軍に、姜詢義を相國左長史に、徐洪を左司馬に、陸約を右長史に、沈衆を右司馬に任命した。
084
景は舟師を率いて皖口へ向かった。
085
十月、武林侯の蕭諮を廣莫門で殺害した。諮は常に出入太宗の臥内に出入りしていたため、景とその周辺は穏やかならざるものを感じていた。そのため殺害されたのである。
第四十四回更新
086
景はまたも矯詔を出した。その内容は
「
蓋し懸象は天に在りて、四時は辰斗に則る。群生(人民)は地に育まれ、万物は大明を仰照している。是れを以って垂拱して当
すれば、則ち八紘は共に輳(集)まろう。圖を負いて位を正せば、則ち九域は同に帰そう。故に雲名水号の君、龍官人爵の后で、河、洛に符を啓しなかった者は無く、岱宗で封禪しなかった者は無い。そして、四夷を奔走させ、万國を来朝させた。虞、夏を逖聴して、道はいよいよ新(改)まった。商、周に及ぶと、未だ変わる事は無かった。幽(幽王)、厲(厲王)に及ぶと競(逐)えなくなり、戎の馬を郊に生じさせた。惠(惠王)、懷(懷王)が御を失すると、胡の塵が蹕を犯された。遂に豺狼をして毒を肆にさせ、伊(伊水)、
(
水)を侵穴された。
をして孔熾させ、咸(咸陽)、洛(洛陽)に巣栖された。晉鼎(西晉)が東遷してより、多くの年代を歴(経)て、周原は回復されないままに、歳は実に永久となっている。宋祖(劉宋、劉裕)の経略を以ってしても、遠圖は中息された。齊は和親を号したが、空しく冠蓋を労した。我が大梁は符に膺(応)じて帝に作(即)き、震(東)に出でて皇に登した。
(宇)を浹(広)く仁に帰させ、區を綿(絶)えなく化を飲させた。疆を開き土を闢き、瀚海を跨して以って
を揚げた。来庭入覲は、塗山に轍を比(並)べたのに等しい。玄龜は洛を出で、白雉は豐に帰した。鳥塞は文を同じくし、胡天は軌を共にした。謂(意)せずして高澄が跋扈して、魏邦(東魏)を虔劉して、華夷を扇動し、王職に供せずして、遂に狼顧して北侵し、馬首を南向した。天に厭されて昏偽となると、醜徒にしばしば尽され、龍豹は期に応じて、風雲は節に会した。相國漢王(侯景)は、上徳にして英姿であり、蓋し惟れ天授であろう。雄謨にして勇略であり、懐抱を出した。珠魚が応を表し、辰昴が暉に叶う。『六韜』を剖析すれば、四履を錙銖となるであろう。騰文すれば豹変し、鳳が集い
が翔した。翼を奮いて来儀し、圖を負いて降った。ここに初めて律に秉し、実に先に啓行し、この廟算を奉じるは、
醜を克除する事であった。鼎湖から上征(上昇)したが、六龍に晏駕された。干戈は暫く止み、九伐は未だ申されていない。そして、悪が稔(重)なりて貫き盈ふれ、元凶(高澄)が殞斃したが、弟の洋(高洋)が逆を継ぎ、長く乱階が続いている。彼の「
(『詩經』「魯頌・
水」)」の音ととは異なり、東魏と同じように荐食しようとしている。偽号を偸窃して、心から希むは挙斧であった。豐水の君臣は、図を奉じて援を乞い、關河の百姓は、泣血して師を請い、咸(皆)なの願うは國靈を承奉して、王化を思覩した。朕は寡昧ながらも、纂戎下武して、庶うは堯黎を拯い、冀うは禹跡を康する事である。そもそも車服は庸(功)を以ってし、名は事に因って著しくなる。周師は殷に克ちて、鷹揚して尚父(呂望)より創(始)まった。漢は狄を征戎し、明友は実に始(初)めて遼を度(渡)った。まして神規叡算は、眇では測り難く、大功懋績は、事は言象するに絶う。どうしてこれまでの常名を習いて、これを保ちて守固する事が出来ようか。そこで相國には、宇宙大將軍、都督六合諸軍事を加える事とした。他の全ては元のままとする。
」
と言うものであった。この詔文が太宗に呈された。太宗はこれを見て
「
將軍に宇宙の号が有ったであろうか!
」
と驚いた。
第四十五回更新
087
北齊の將の辛術が陽平を包囲したため、十一月、行臺の郭元建が救援に駆けつけた。術はここで兵を退いた。
088
徐文盛が貝磯に侵攻してくると、任約は水軍を率いて迎え撃ったが、文盛に大いに撃ち破られた。文盛は大舉口まで軍を進めた。
089
景は皖口に屯していたが、京師は虚弱であった。そのため、南康王の蕭會理を始め北
州司馬の成欽らは、この機に強襲を計画した。建安侯の蕭賁がこの計画を知ると、景に報告した。そこで景は、會理とその弟で祈陽侯の蕭通理、柳敬禮、欽らを捕えさせ、全て殺した。
090
十二月、景は矯詔を出して、蕭賁を竟陵王に封じた。南康王の謀略を発いた事に対する賞である。
091
張彪が會稽で義兵を挙げると、上虞を攻め破った。太守の蔡臺樂が討伐に当たったが、抑え込む事は出来なかった。彪はそのまま諸
、永興などの諸縣を撃ち破っていった。景は儀同三司の田遷、趙伯超、謝答仁らに彪の討伐を命じ、東へ進軍させた。
092
大寶二年(551、天保二年)の正月、張彪は別將を錢塘、富春に侵攻させた。田遷が進軍してこれと干戈を交え、撃ち破った。
093
二月、景は王克を太師に、宋子仙を太保に、元羅を太傅に、郭元建を太尉に、張化仁を司徒に、任約を司空に、于慶を太子太師に、時靈護を太子太保に、
奚斤を太子太傅に、王偉を尚書左僕射に、索超世を尚書右僕射に任命した。
094
北
州刺史の蕭
が、西魏に投降しようとしていた。しかし事は露見し、景は
を誅殺した。
第四十六回更新
095
湘東王の蕭繹は、巴州刺史の王珣らに兵を与えて武昌に向かわせ、徐文盛の援軍とした。任約は西臺の兵が増えた事から、景に急を報告した。三月、景が自ら兵二万を率いると、西上して約の救援に向かった。四月、景が西陽まで軍を進めると、徐文盛は水軍を率いて迎撃に出てきた。景は大敗を喫した。景は郢州が守りが無く、兵も手薄であると知ると、宋子仙に軽騎兵三百を与えて、急襲させた。子仙はここを陥落させ、郢州刺史の蕭方諸、行事の鮑泉を捕え、武昌の軍人の家口を尽く捕えた。文盛らの下にこの報がもたらされると、恐怖に駆られ、江陵へと逃げ戻った。景はこの勝ちに乗じて、西上を続けた。
096
湘東王の蕭繹は、領軍將軍の王僧辯に兵を与えて東下させ、徐文盛に代えようとした。僧辯が巴陵に軍を進めると、景軍が巴陵に向かっているとの報がもたらされたため、僧辯は壁を堅くしてこれに対抗しようとした。景は延々と包囲陣を布くと、土山を築かせた。そして、五月、昼夜の別無く攻撃を続けたが、撃ち破る事は出来なかった。軍中で疾疫が蔓延し始め、これによって兵の大半が死んだり動けなくなってしまった。繹は平北將軍の胡僧祐に兵二千を与えて、巴陵に救援として差し向けた。僧祐軍の接近を知った景は、任約に精兵数千を与えて、僧祐軍の迎撃に向かわせた。僧祐は居士の陸法和と共に赤亭までいったん退いて、約軍を待ち構えた。六月、約が僧祐軍と干戈を交えたが、僧祐軍に返り討ちにされたばかりか、約は生け捕りにされてしまった。景がこれを聞くと、夜の内に逃げるように退却していった。そして、丁和を郢州刺史に任命し、宋子仙、時靈護らを留めて和の援護をさせ、張化仁、閻洪慶に魯山城の守りを預けると、景は京師へと帰還した。僧辯が東下して漢口に軍を進めると、魯山城を陥落させ、続けざまに郢城へ攻撃を開始し、こちらも陥落させた。これ以降、梁軍が優勢に戦況を進めるようになった。
第四十七回更新
097
八月、景は太宗を廃して晉安王とすると、永福省に幽閉した。そして、詔の草稿を作成すると、その晉安王とした蕭鋼にこれを書き写させた。その文中、「先皇は神器の重なるを念い、社稷の固なるを思い」の部分まで来ると、涙がこぼれ始め嗚咽し、止める事が出来なかった。この日、景は豫章王の蕭棟を迎えて皇帝位に即かせ、太極前殿に昇らせた。天下に大赦を出すと、大寶二年を以って天正元年と改めた。時に、永福省で風が吹き荒れ、文物の全てをなぎ倒した。これを見た者で、驚駭しない者はいなかった。
098
景が京邑を平定した時、簒奪の志を有するようになっていたが、四方が平定する事がその前提と考え、まだ自ら立つ事をせずにいた。しかし、既に巴陵が失律し、江、郢で軍が失われてしまった。宋子仙らの猛將が外で殲され、雄心が内から挫かれるのではないかと考え、すぐにでも大号を称して、その姦心を遂げるべきとの結論に至った。そこに謀臣の王偉が
「
古えより鼎が移る時には、必ず廃立が起きています。
」
と言った。景はこれに從った、太尉の郭元建がこれを聞いて、秦郡から馳せ参じて、景を諫めて
「
四方の師が至らない所以は、政が二宮の万福を為しているからです。もし弑逆が遂行されたとなれば、海内に怨を結ぶ事となり、事は一去してしまいますぞ。そうなってしまっては、悔やんでも及びません。
」
と言った。王偉が從わないよう強く言った。景は棟が下した詔と矯して、昭明太子を詔明皇帝と、豫章安王を安皇帝と、金華敬妃を敬皇后と追尊し、豫章國太妃王氏を皇太后と、妃の張氏を皇后とした。劉神茂を司空に、徐洪を平南將軍に、秦晃之、王曄、李賢明、徐永、徐珍國、宋長寶、尹思合を儀同三司に任命した。
099
景は哀太子(蕭大器)の妃を郭元建に賜したが、元建は
「
どうして皇太子の妃を降して人の妾と為せようか。
」
と言って、会う事は無かった。
第四十八回更新
100
十月壬寅の夜、衞尉の彭儁、王脩纂に酒を持たせて太宗であった蕭鋼に奉じさせ
「
丞相は陛下が憂に処して既に久しくなっておられるとして、我らをして一觴を奉進せよとお命じなられました。
」
と言った。蕭鋼は自分が弑されると分かった。その上で、盛大に酒を飲むと、酔っ払って寝倒れた。王脩纂が腹に盛土した事によって、鋼は死去した。法服を以って斂して、薄棺で密かに城北酒庫へと運ばせた。
101
太宗であった蕭鋼は、長く幽閉され、朝士の接覲も許されていなかった。いつ禍が及ぶのか分からなかったため、心が休まる時は一時も無かった。その後、舍人の殷不害だけが出入りを許された。鋼は居殿を指差すと、その不害に
「
涓(戰國・魏)はこの下で死んでいる。
」
と言った。また
「
私は昨夜、土を呑む夢を見た。卿、これをどう考えるか。
」
と尋ねた。これに殷不害は
「
その昔、重耳(春秋・晉)は饋塊して、すぐに晉國に反しました。陛下が夢見たところは、この符ではないでしょうか。
」
と答えた。これに蕭鋼は
「
幽冥に徴が有ったとしても、この言が妄となる事を願うばかりだ。
」
と言った。蕭鋼が弑されるに至り、その方法は土であった。
第四十九回更新
100
司空で東道行臺の劉神茂、儀同三司の尹思合、劉歸義、王曄、雲麾將軍で桑乾王の元
らが、東陽ごと梁に帰順してしまった。
を始め別將の李占、趙惠朗が建德縣の江口に配された。思合は新安太守の元義を捕え、その兵を吸収した。
103
張彪が永嘉に攻め込むと、永嘉太守の秦遠は彪に降服した。
104
十一月、景は趙伯超を東道行臺に任命して、錢塘を鎮させた。また、儀同三司の田遷、謝答仁らに兵を与えて、劉神茂の討伐のために東に向けて進軍させた。
第五十回更新
105
景は蕭棟の詔と矯して、自らに九錫の禮を加え、漢國に丞相以下の百官を置くとした。備物が庭に並べられた。忽然と野鳥が景の上を飛び回った。赤足に丹觜、形は山鵲に似ていた。これを見た者は皆な恐怖を覚え、競うようにして射落とそうとしたが、当たる事はなかった。景は劉勸、戚霸、朱安王を開府儀同三司に、索九昇を護軍將軍に任命した。南
州刺史の侯子鑒が白
を献上した。建康で白鼠が捕獲され献上された。蕭棟はこれを景に送った。景は郭元建を南
州刺史に任命した。太尉、北行臺はそのままである。
106
景は再び蕭棟の詔であると矯して、祖父を大將軍、考(亡父を)丞相と追崇させた。また、自らに冕、十有二旒を加え、天子旌旗の建て、出警入蹕とし、金根車に乗り、駕を六馬とし、五時副車を備える事とした。旄頭を置いて雲罕を持たせ、樂
は八
とし、鍾
や宮懸の樂などの一切は、旧儀に倣うものとした。
第五十一回更新
107
景はまた蕭棟の詔と矯して、自分に禪位するとした。これによって南郊で、柴燎して天を祀り、升壇して禪の文物を受けた。いずれも旧儀に依ったものである。轜車の牀に鼓吹を載せ、
駝に犧牲を背負わせ、輦上には筌蹄、垂脚坐が置かれた。景の帯剣は水精で出来ていたが、これが故無く落ちてしまった。そのため、自ら手で拾っている。壇に登ろうとした時、兔が目の前を横切っていった。しかし、横切ったかと思うと、すぐさまその姿は見えなくなった。また、空では、白虹が日を貫いていた。景は太極前殿に戻ると、大赦をだして、天正元年を以って太始元年と改めた。蕭棟を淮陰王に封じると、監省に幽閉した。有司が「警蹕」を「永蹕」と改めるなど、景の名を避けるようにと上奏した。梁律を漢律に改め、左民尚書を殿中尚書に、五兵尚書を七兵尚書に、直殿主帥を直寢に改めた。三公の官を十数も置き、儀同三司が最も多かった。匹馬で孤行して、自ら覊絆を執った。左僕射の王偉が七廟を立てるよう求めた。これに景は
「
どうして七廟か?
」
と尋ねると、王偉は
「
天子は七世の祖考を祭るものです。故に七廟を置くのです。
」
と答えた。併せて七世の諱と、太常に勅して祭祀の禮をそろえさせるよう求めた。これに景は
「
前世については私は知らない。ただ阿爺の名は標だった記憶が。
」
と答えた。周りの者は皆な、笑いを堪えるのに必死だった。景の党友に、景の祖父の名が周(乙羽周)と知っている者がいたため、祖父までは判明したが、それより先は王偉がその名位を定めた者であった。後漢の司徒であった侯霸をその始祖と、晉の徴士であった侯瑾を七世の祖とした。これによって、祖父の侯周が大丞相と、父の侯標が元皇帝と追尊された。
108
十二月、謝答仁、李慶が建德に到着すると、元
、李占の柵に攻撃を仕掛けた。これを大いに撃ち破ると、
、占を捕えて景の下へと送った。景はその手足を断って晒した。数日後、死んだ。
第五十二回更新
109
太始二年(552、天保三年)の正月朔、臨軒で朝会した。景が巴丘で一敗地に塗れて以来、軍兵は減少の一途をたどっていた。そのため、北齊がこの隙を狙って、西師(梁)と掎角の勢を以って攻めてくるのではないかと恐れていた。そこで、郭元建に歩軍を与えて小
へと、侯子鑒には舟軍を与えて濡須へと向かわせて、肥水でその兵力を見せつけて、武威を示めそうとした。子鑒が合肥に至ると、羅城に攻撃を仕掛け、これを陥落させている。しかし元建、子鑒の下に、梁軍が接近しているとの急報がもたらされた。そこで、合肥の百姓の邑居に火を放って、軍を退いた。子鑒は姑孰に留まり、元建は廣陵へ戻った。
110
二月、謝答仁が劉神茂に攻撃を仕掛けた。神茂の別將の王曄、
通は、共に外營にいたが、答仁に降服した。劉歸義、尹思合は恐れおののいて、それぞれ城を棄てて逃走した。神茂は孤立してしまい、答仁に降服した。
第五十三回更新
111
王僧辯が蕪湖まで軍を進めると、蕪湖城主は夜の闇に紛れて遁走してしまった。景は史安和、宋長貴に兵二千を与えて、侯子鑒のいる姑孰の守りを増強しようとした。田遷らを追って京師に戻った。郭長が角の生えた馬駒を献上してきた。三月、景は姑孰へ赴き、壘柵を巡視した。また、子鑒に
「
西人は水戦に巧みである。鋒を争ってはならんぞ。往年、任約が敗績したのは、この例である。しかしだ、馬歩で一たび交えれば、必ずや破ぶれるであろう。汝、壁を堅くしてその変化を見極めよ。
」
と戒めた。侯子鑒はこれを受けて、舟を放棄して岸に上がり、營を閉じて撃って出る事はしなかった。王僧辯らは軍を留めること十余日、各軍がこれを見て大いに喜び、景に
「
西師(梁軍)は我らの強なるに懼しております。必ずや遁逸を欲しており、撃たざれば、この機を失してしまいます。
」
と報告した。これを聞いた景は、侯子鑒に再び水戦の用意をするように命じた。子鑒は歩兵騎兵の一万余を率いて洲に渡り、水軍を率いて併せて進軍を開始した。王僧辯に迎え撃たれ、大破された。子鑒は何とか逃げ切った。景は子鑒の敗北を知ると、大いに慌てふためき、涙がこぼれ始めた。そして顔を隠して衾を引き寄せると、そのまま臥せてしまった。しばらくして起き上がってくると
「
危うく乃公(俺)が殺されるところだった!
」
と歎じた。
第五十四回更新
112
王僧辯が張公洲に軍を進めてきた。景は盧暉略に石頭を、
奚斤に捍國城を守らせた。そして、百姓を始め軍士の家累を臺城内へと押し入れた。僧辯は景が設けた水柵を焼き払い、淮水に入ると、禪靈寺の渚まで進んだ。景はこれに大いに驚き、淮水に沿って柵を立てると、石頭から朱雀航へと向かった。僧辯を始めとした諸將は、石頭城西のみぎわに營を連ねて柵を立てると、落星
にまで至った。景は恐れを深めて、自ら侯子鑒、于慶、史安和、王僧貴らを率いて、石頭の東北に柵を立てて守備体勢を整えた。そして、王偉、索超世、呂季略に臺城を、宋長貴に延祚寺を守らせた。また、僧辯の父の墓を掘り返させ、棺を剖いて屍を焼き払わせた。僧辯らが石頭城の北に進んで營を設けると、景は陣を並べて決戦を挑んだ。しかし、自ら軍を率いた僧辯の奮撃によって、大敗を喫した。子鑒、安和、僧貴はそれぞれ柵を放棄して逃走した。暉略、斤は、それぞれ降服して、城を明け渡した。
第五十五回更新
113
景は敗退したものの、宮へとは入らず、敗残兵をかき集めて、闕下に陣を構えた。しかし、遂に逃げ出す事に決めた。王偉が轡を執って
「
古えより天子が叛(逃)した事がありましょうか!今、宮中の衞士は、まだ一戦するに足ります。逃げ出したとして、ここを棄ててどこに行く場所があると言うのですか。
」
と諫めた。これに景は
「
私は北にありし時は、賀拔勝を撃ち、葛榮を破って、名を河、朔を揚げ、高王(高歡)と一種(同種)人である。今、大江を南渡して来たりて、臺城を取ったのは掌を返すが如きであり、邵陵王(蕭綸)を北山に打ち、柳仲禮を南岸で破ったのは、皆な自ら指揮したところであった。しかし、今日の事は、恐らく是れ天が亡(滅)ぼそうとしているのであろうか。城を守るにいい所にて、一決しようとしているだけだ。
」
と言った。石闕を仰ぎ見ては、逡巡したり歎息したりして、時間ばかりが過ぎていった。皮
に二子を入れて馬鞍に引っ掛け、これを儀同三司の田遷、范希榮らに任せると、騎兵百余を与えて東へ向けて奔らせた。偉は臺城を棄てて逃亡した。侯子鑒らは廣陵へと逃げた。
第五十六回更新
114
王僧辯は侯
に精兵を与えると、景を追撃させた。景が晉陵に至ると、太守の徐永から略奪すると、東の呉郡へと逃亡を続け、四月、嘉興まで至ったが、趙伯超が錢塘を拠点にして、それ以上の進入に抵抗した。景は仕方なく呉郡へと戻ったが、松江に到達したところで、
軍と遭遇してしまった。景軍は陣立てが全く出来ておらず、兵は次々と幡を挙げて降服の意思を示した。景はこれを制する事ができず、腹心の数十人と共に單舸で逃げ出した。二子を水に落とした。滬
から海へと入り、壺豆洲に到達した。しかし、前太子舍人の羊鯤によって、殺されてしまった。景の屍は王僧辯の下へと送られた。首は西臺に送られた。屍は建康の市に曝され、百姓は争うように屠膾を取って
食し、骨を灰になるまで焼き尽くした。以前に景の禍に見舞われた者は、灰を酒に混ぜて飲み干した。景の首級が江陵に到着すると、湘東王の蕭繹は、これを市に晒すように命じ、然る後にこれを煮て漆を塗ると、武庫に入れた。
第五十七回更新
115
景の身長は七尺に満たなかったが、眉目秀麗であった。その性格は猜忍で、殺戮をこのんだ。人を刑する時は、先に手足を斬り、舌を割き鼻をそぎ落として、そのまま死ぬまで放置した事もあった。石頭に大きな舂碓を作り、法を犯した者が出ると、皆なそれで擣殺した。その慘虐なるは、このようであった。簒奪の後は、時に白紗帽を著したかと思えば、青袍を羽織ったりもした。或いは牙梳を髻を挿したりした。牀上には常に胡牀や筌蹄が置かれていて、靴を著いたまま脚を垂して坐した。或いは匹馬に乗って宮内を駆け回ったり、華林園で烏鳥を弾射したりした。謀臣の王偉に軽出を止められたため、鬱怏とするようになり、更に失志してしまった。居殿では
や鳥が鳴いていた。景はこれを忌み嫌った。そのため、人を山野の隅から隅まで回らせて、これを討捕させた。普通年間中(520~526)、童謠が起こり
「
青絲白馬壽陽來 青絲、白馬、壽陽に來たる。
」
と言われた。後に景は果して白馬に跨り、兵は皆な青衣を纏っていた。この乗馬は、勝ちが目前となると、躑躅して嘶鳴し、その意気は駿逸であった。その逆に奔衂する時は、必ず頭を低くして進もうとしなかった。
第五十八回更新
116
中大同元年(546)のある夜に高祖(蕭衍)は、中原の牧守が皆な地を以って来降してきて、朝廷を挙げて慶を称したと言う夢を見た。目が覚めると、これを甚だ喜んだ。夜が明けて、中書舍人の朱
と会った時、夢の内容を話した。これに
は
「
宇内が一となろうとしている時、天道は先に徴を見せるものです。
」
と言った。高祖は
「
私は夢を見る事の少ない人間だが、昨夜はこれに感じた。慰懐するに十分であった。
」
と言った。太清二年(548)、景が果して帰順してきた。高祖は欣然と自ら悅しみ、神通であると言って、これを受け入れるよう議したが、その意中では未だ決心しきってはいなかった。ある夜、視事の手を休めて、武德閤に至ると、独り言のように
「
我が家國は猶お金甌の如きであり、一つの傷缺も無い。今、便に地を受けたが、これは事宜であろうか。もし紛紜が致れば、悔む事も出来ない。
」
と言った。これに朱
が
「
聖明の御宇は、上は蒼玄(蒼天)に応じており、北土の遺黎(人民)で、誰が慕仰しない事がありましょう。またとない機会でありますが、まだその心に達しておりませんか。今、侯景が河南十余州に拠って、魏土(東魏)の半を分けようとしているのです。輸誠送款して、遠く聖朝に帰そうとしているのですから、天がその衷を誘ったのです。人がその計を奬めており、原心審事しても、殊に嘉と言うべきでしょう。今、これを拒して容れざれば、恐らく後来の望を絶つ事になります。この誠は見たままであり、願わくは陛下がこれを疑う事の無きを。
」
と耳打ちした。高祖は朱
の言に深く賛同して、また、前夢を信じて、景を受け入れる議を定めた。貞陽が覆敗され、辺鎮が
擾した時、高祖はこれを憂いて
「
私の今の段がこのようであったらば、晉家の事は作し得ないと言う事か?
」
と言った。
117
これに先立って、丹陽の陶弘景が華陽山に隠遁していたが、博学にして多識で知られていた。詩をなして
「
夷甫任散誕 夷甫(西晉、王衍)は任散であり誕ままにし、
平叔坐談空 平叔(三國・魏、何晏)は坐談して空とした。
不意昭陽殿 昭陽殿は意せずして、
化作單于宮 化して單于宮と作(な)る。
」
と言った。大同末(545)ともなると、人士は競って玄理を談じるようになり、武事を習わなくなっていた。ここに至って、景が果して昭陽殿に居した。
第五十九回更新
118
天監年間中(502~519)、釋の寶誌が
「
掘尾の狗子は発狂して、死の間際、死ぬまで人を噛んで傷つけるであろう。須臾の間に滅亡するが、汝陰からに行って三湘で死すであろう。
」
と言った。また
「
山家の小兒は果して臂を攘げて、太極殿の前で虎視を作す。
」
とも言った。掘尾の狗子、山家の小兒は、どちらも猴の状態である。景が遂に都邑を覆陷させると、皇室を毒害した。
119
大同年間中(535~545)、太醫令の朱
が禁省に赴いた。その夜、犬羊がそれぞれ一匹が御坐に在ると言う夢を見た。寝覚めが悪く、人に
「
犬や羊は、佳物ではない。それが今、御坐に拠していたとは、変が起こるのではないであろうか?
」
と告げた。天子は蒙塵し、景が正殿に登った。
第六十回更新
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景が敗れようとしていた時、僧通と言う道人がいた。その意性は狂っているかの如くであり、酒を飲み肉を喰らっており、凡等と変わらなかった。世間を遊行すること既に数十載であり、その姓名や郷里を知る者はいなかった。言う事は最初は現れなかったが、しばらくするとその通りとなったため、人は皆な闍梨と呼び、景も甚だ信敬した。景が後堂で仲間と共に射した時、僧通もその側にいたが、景から弓を奪い取って景陽山に射掛けて
「
奴を得たぞ。
」
と大声で叫んだ。景は後に党友を集めて宴席を設けると、僧通も呼び出した。僧通は肉を取って塩を擦り付けて、そして景に進めた。
「
好きではなかったか?
」
と問うと景が
「
ちょっと塩っ辛いな。
」
と答えた。すると僧通は
「
鹹せざれば爛臭がしてしまうからな。
」
と言った。果して景の屍は、塩で封じられたのであった。
2012/12/26 終了。
『梁書』 侯景 - 833~864 -
第一回更新 開始 残り119段 全120段 2012/11/14
第二回更新 更新 残り118段
第三回更新 更新 残り117段
第四回更新 更新 残り116段
第五回更新 更新 残り115段
第六回更新 更新 残り114段
第七回更新 更新 残り112段
第八回更新 更新 残り111段
第九回更新 更新 残り110段
第十回更新 更新 残り107段
第十一回更新 更新 残り106段 2012/11/21
第十二回更新 更新 残り105段
第十三回更新 更新 残り104段
第十四回更新 更新 残り102段
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第二十九回更新 更新 残り081段 2012/12/15
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第三十一回更新 更新 残り079段
第三十二回更新 更新 残り078段
第三十三回更新 更新 残り075段
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第五十一回更新 更新 残り014段 2012/12/26
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2012/12/26 終了。