- 2019 03/22
- 日本ノンフィクション史 作品篇
■山崎朋子『サンダカン八番娼館』
次いで第4回(1973年)の大宅賞では、まさに『諸君!』掲載(1972年4、8、10月号)論文から鈴木明「『南京大虐殺』のまぼろし」が受賞した。ここまでで「池島枠」「諸君!枠」という概念を用いてきたが、桐島を送り出した第3回が池島の関わった最後の大宅賞となり、この回からは文藝春秋から審査に加わるのは沢村三木男に代わっている。
そこで選考の性格も変わった印象がある(臼井吉見、扇谷正造、開高健、草柳大蔵の4委員はそのまま留任しているが)。『諸君!』連載を受賞作とした、その意味では文字どおり「諸君!枠」と言えそうな「『南京大虐殺』のまぼろし」だが、前に触れた本多勝一『中国の旅』に始まる、いわゆる“百人斬り論争”で、本多を批判する一方の立場を代表するもの。背後には反本多、反朝日の多数勢力を背負っており、「われわれ」に向かって物怖じせずにものを言うひとりの書き手という印象は薄くなっている(朝日の扇谷正造が選評で《現代ジャーナリズムに一つの反省を促す貴重な礎石となるであろう。》としているのは本多との関係を思うと興味深い)。
そして一人で戦う女性という立場からも、足踏みないし若干の後退を感じる。
第4回の女性受賞者となった山崎朋子の『サンダカン八番娼館』は、「からゆきさん」の女性に女性が聞き取りを行うスタイルは採っているものの、女性だから聞き取れた仕事といえるかどうか。というのも、そこで山崎は《海外に連れ出され、そこで異国人を客》とした「出稼ぎ」女性に近代日本史上最も悲惨な存在として注目するというステレオタイプの見方を踏まえているからであり、こうした「からゆきさん=底辺女性」とする価値観は近代日本で生成され、男女を問わず担っていたものだったからだ。
それに対して山崎に先んじて元海外「出稼ぎ」女性への聞き取りを行った森崎和江は、彼女たちが異国の地においてなお日本人のアイデンティティーを持ち続け、結果として自らが日本の海外膨張主義の「先兵」となってしまう屈折した自縛の構図を浮かび上がらせていた。それこそ同性ゆえのきめ細やかな聞き取りの成果と言えるのではないか。森崎は「抑圧された性」のひと言では括れない海外「出稼ぎ」女性の実態が《いたましげに寄りそいつつ、自らの生活態度をくずそうとはしない市民的なまなざし》(「からゆきさんが抱いた世界」『現代の眼』1974年6月号)によって見失われがちだと批判していた。
つまりそこには市民としてのわれわれが前提とされている。そんな『サンダカン八番娼館』を選んだことで、ひとりの女性が海外事情を等身大で描く、それまでの女性ノンフィクション路線は一歩後退した印象がある。ただ、この回は候補作に多くの女性作者の作品が入っていることが特徴的で、選評のなかで開高健が《今回のは全体に水準が高く、しかも八人の候補者のうち六人まで筆者が女性であるので、何事かを暗示されるようでもあった》と書いている。それまで女性作品を選んできた経緯が、応募作の増加、作品のレベルアップに繋がっていったのではないか。
■中津燎子『なんで英語やるの?』と吉野せい『洟をたらした神』
そんな第4回を経て第5回(1974年)には、第3回までの「池島枠」「諸君!枠」の印象を引き継ぐ作品が再び受賞する。中津燎子『なんで英語やるの?』だ。著者の中津は戦後、国連軍の電話交換手として働くために日系二世の男性に英語を習った。彼の教育法は徹底して英語の発音を身につけさせるものだった。そのうちに縁あって米国に留学、そのときにも電話交換台のアルバイトをしている。在米中に結婚し、1965年に帰国。岩手県で今度は自分が英語を教え始める。
その格闘ぶりはまさに“アメリカ”をたった一人で体現して立ち回る女性という印象だ。日本人の女子高校生が発音する日本的な英語が中津には一言も分からない。There are、It isを、英語風だと信じ込んで「ゼアラア」「イリス」と一続きに発音する習慣を直すために、中津は莫大な努力をする。
それはまず言語に向き合う身体の問題である。中津は英語と日本語の違いが単語や文法だけではないと考えている。まず発声法からして異なるのだ、と。
《英語には破裂音と言う音があるのは皆知っている。ところがこの破裂は文字通り、破裂するのがあたり前で、破裂するためには十分な呼吸が用意されなければならない》。アメリカ人は生まれてすぐに腹式呼吸で声を出すことを身につけている。それはアメリカ人にとってみれば当たり前なので、日本人に英語を教える時にそのポイントに気づかない。交換台で働く中津に英語を教えたのは日系二世の男性であり、彼は親の発音を聞いていて呼吸法の違いに気づいた。だから中津には4メートルも離れて発音をさせるトレーニングを強いた。
こうしたエピソードを拾い読みすると、今の英語教育にも通じる発音至上主義の印象が強くなるが、それは全くの誤解だ。中津は、英語の発音を身体で覚えるように幼い頃からネイティブスピーカーに英語を学べば国際人になれる、などとは全く考えていない。《英語でいかにうまく自己表現が出来ても、それは単なるお喋べりでしかない。……理解する、と言う事は、ことばの意味以上に、風俗風土、習慣、宗教、感覚、情緒、すべて理解していなければならないのだ。この能力が、先ず最初にあって、それから言語能力が問われる。発音や抑揚の問題は、ほぼ最後の要因となるだろう》《国際人とは、自分自身の、ひいては自分の母国の文化をしっかりと持っている人だ。だから他国の人々と対等に話が出来、相手の文化をも理解が出来る。自分が何もない人間は、相手をはかる尺度すらなく、その時、その時の風の吹きようで、どのような色にも染る。精神的無国籍者の典型的なタイプは、たとえどのように自由に見えても、結局は相手によって色が変えられる、と言うむなしさを持っている》。
そう考える中津は英語早期教育に反対する。
ではなぜ発音にこだわるのか。中津に英語の発音を教えた日系二世の男性はこう語っていたという。
《私は、日本の人がまちがいだらけのひどい英語を使うのを批難しません。正式に習得しなかったからね。しかしそれを、アメリカ人たちが賞讃しうけ入れるふりをして、裏面では、首をすくめて馬鹿扱いにし相手にもしない事が最も不愉快です。わからなければわからない、と言えばいいのです。そして又、それにだまされている日本人も不愉快です。》
確かにアメリカ人が、外国人の下手くそな英語を称賛しつつ受け入れるふりすらしなくなったケースもある。2018年11月、中間選挙の結果を受けた記者会見で、トランプ大統領は日本人記者の質問に「何を言っているのか分からない」と述べ、まともに返答しようとしなかった。英語での質問に挑戦する勇気を称えつつ、裏で首をすくめて馬鹿扱いする偽善より正直でよかった、というべきなのか。発音の壁が、いかにコミュニケーションを困難にしているか、目の当たりにした瞬間だった。
トランプが登場する遥か前に、英語米語圏の文化が、皮を一枚剥くと姿を現すよそよそしさを経験した中津は、日系二世の英語教師の言葉にも同意できた。そして、世界の人たちは理解しあえると安易に信じる価値観ともひとりで戦おうとしたのだ。その意味で『なんで英語やるの?』も、どこにでもありそうな英語教室を運営するレポートでありながら、「常在戦場」の緊張感が常に張り詰めている作品となった。臼井吉見が選評で《著者には今後もてきぱきと八方当りさわりのある発言を期待する。どうぞ、おんな大宅に成長してほしいと思うがいかに》と書いているのが印象的だ。
翌第6回(1975年)では吉野せい『洟をたらした神』が受賞した。
《阿武隈山系といえば物々しいが、海をめがけて踏み伸ばした脚にもたとえられよう末端。うねうねと空に浪打つ山嶺のその小指の先のちっぽけな菊竹山に巣くうて、既に半世紀が流れた。私は再び繰り返されぬ自分の生涯の歳月を今日まで運命などとぼやかずに、辛抱強く過ごして来た。だがたじろがぬつもりだった己惚れた自分の足跡を遠くしずかに振り返ってみて、今更にその乱れの哀れさ、消えがてな辿々しい侘しさ、踏みこらえたくるぶしの跡の深いくぼみの苦しさを、まじまじと見はるかす。》(「老いて」)
大正11年(1922年)から昭和49年(1974年)まで、菊竹山の麓で農作業を続けてきた経験を書き連ねたエッセー集である同作を、開高健は《一刀彫の木彫にあるような簡勁さと渓流のさやぎのようなみずみずしさにうたれる。“物”に手を触れて生きぬいてきた人の文品はこれほどまでになるかと思わせられる》と絶賛する。吉野は1899年生まれで受賞時に75歳。ソ連、アメリカと始まって、国際社会と身体一つでぶつかっていった体験を描いた女性の作品に賞を与えてきた大宅賞は、日本国内にも、孤立無援のなかで生活という戦いを静かに続けて、それを珠玉の言葉にした女性を発見するのだ。大宅賞の男女ペア受賞の“法則”がこの年度を最後に崩れていったことをすでに指摘したが、それは、東西冷戦期の世界を急ぎ足で網羅し、国際化の時代のなかで盲点となりがちな国内の、それも僻地の生活史にも目を向ける女流作品が登場し、書き手が世代的にも若手から高齢者まで“一周り”し、女性のノンフィクション作品の全貌が見えてきたと感じさせたことが反映していたのかもしれない。(以下次回、「『女性枠』を設けてみたものの……」)