吉野氏は「元号候補は前年度に準備していたものを再利用し、複数案から天正を選んだのは信長自身だった」と指摘する。朝廷は追認しただけの形で、信長は改元で自分の時代の到来を宣言した。直後から浅井・朝倉氏の滅亡、長篠の戦い、紀州侵攻、大坂本願寺の降伏、伊賀侵攻、武田氏の滅亡、中国攻略……天正10年(82年)の「本能寺の変」まで快進撃が続いた。
■秀吉は儀式全体まで指導力発揮
天下統一への道を引き継いだ秀吉は、まずは信長の政治的遺産をいち早く継承し、自分流のカラーへ染め直すことに力を注いだ。しかし、なぜか元号には無関心だったように映る。天正20年(1592年)に「文禄」へ改元した時は、秀吉の業績である大坂城建城も九州攻めも、北条氏を滅ぼしての全国統一も終わっていた。公式の改元理由は後陽成天皇の即位だが、即位したのは6年前だ。吉野氏は「ひとつの年号が20年以上の長期にわたると改元の機運が高まってくる」と言う。
なぜ秀吉は、信長のように新元号を使って、自分の時代を示さなかったのか。吉野氏は「天正=信長のイメージが朝廷から一般庶民まで強すぎて、忠臣の印象も大事にしたい秀吉は、簡単には代えられなかった」とみる。秀吉自身にとっても天正は縁起の良い元号だ。元年に長浜城主、2年に筑前守、5年に中国攻略司令官、10年に天王山の戦い、13年に関白就任と右肩上がりの時代にあたる。「秀吉個人の心情としても、急いで改元する必要性を感じていなかったのだろう」と吉野氏。
秀吉がこだわったのは、文禄5年(1596年)の「慶長」への改元だ。大地震で伏見城が大破するなど被害は畿内全体に及んだ。秀吉は改元の儀式に参加する公卿のメンバーなども指示したという。「信長は改元の実施や元号については意見を通したが、秀吉は改元定の人選など儀式全体まで指導力を発揮した」と吉野氏は指摘する。慶長は秀吉自身が希望し、難陳も行われなかった。「秀吉が選んだ元号とみられる」と吉野氏。
関ケ原の戦いに勝利した家康は、早く元号を代えたくて仕方がなかっただろう。しかし現実の改元は15年後だった。自制した原因は、大坂城の豊臣秀頼の存在だったという。現実的な権力では、家康は秀頼を圧倒していた。しかし秀頼は秀吉の実子であり、現職の右大臣でもあった。吉野氏は「朝廷が秀頼を公卿と処遇して、新元号決定に関与させる可能性は十分にあった」と指摘する。それだけは避けなければならなかった。
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