■現場重視、政策決定の過程から関わる
次は三条天皇が即位した翌年の改元(1012年、寛弘9年)だ。このときの議論は、元号候補の「太初」は中国で不祥事が多い、「政和」は秦の始皇帝の名(政)と重なるなどの理由で次々に外されていった。「長和」は、まあ合格ではないかと権大納言の藤原行成が発言したが、「和」の字はよくない、、本来は元号に使うべきでないと他の公卿が反対した。会議は袋小路に入ってしまった。
そこで好機到来とばかり、議長役の道長は前回の最有力候補である「寛仁」を持ち出した。しかし今回の候補に上がっておらず、提出されていないものを選ぶことはできないと、会議メンバーから総スカンを食らった。道長に劣らず公卿らにとっても、元号選定はゆるがせにできない重要事だった。当時、道長は娘を天皇の后とし、最高の権力をふるう存在だったが、それでも一致して抵抗したのだ。結局、比較的反対の少なかった長和に決まった。
ここで諦めては、権力を長く維持できないのだろう。6年後の1017年、道長は後一条天皇の即位改元の際に、またもや勝負に出た。最初の候補案に「寛仁」は入っていなかったのだろう、道長は再提出を命じている。「天受」「地寧」「乾道」「崇徳」「淳徳」「寛徳」らのライバルを制して最後に「寛仁」が選ばれた。
満場一致、というわけにはいかなかったようだ。左大臣の藤原顕光が「寛仁は、以前タブーに触れて不採用となった」と主張したものの、後一条天皇の名は「敦成」。仁の重複が問題となった過去は先例とならないと退けられた。道長はようやく、念願を達成したことになる。
久禮氏は道長が「寛仁」にこだわった理由について「最初に考案した大江匡衝(まさひら)との親しい関係が影響した」と分析する。匡衝は文人官僚として、過去に元号案を2度採用されていた。匡衝の妻は紫式部らの同僚で「夫妻ともに道長に気に入られていたようだ」と久禮氏。匡衝の孫である匡房も、元号案が5回も採用された。「左大臣の源俊房との親密な関係があったことは見過ごせない」と久禮氏は言う。俊房が左大臣に就任する際に、匡衝が白河天皇に推薦したという「借り」もあったようだ。
久禮氏は「御堂関白と称された道長だが、実は関白に就任したことはなく、摂政も短期間で辞めている」と指摘する。関白の職権には決裁権がなく、あくまでも天皇の補佐的役割だ。「道長は現場重視の政治家だった。大臣として政策の決定過程から関わり、政治をリードした」と久禮氏。道長の政策に「長保元年令」がある。贅沢の禁止などで社会秩序の引き締めを目指したものだ。物価対策も手掛けており、社会政策に取り組む政治スタンスだった。
元号に晩年まで関心を持ち続けた。「治安」への改元(1021年)時に道長は摂政・太政大臣を辞任して出家していたが、私邸で側近らとかなりの部分まで詰めた。本来なら朝廷で論議すべきなのに、権力乱用だと怒った大納言の藤原実資は、正式の改元定を欠席して抗議の意志を示した。
(松本治人)
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