平成の「先」の時代を考える

元号をレベルアップした平安京の天皇 「元号」「日本年号史大事典」から(2)

記事保存

日経BizGate会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。

「延暦」の斬新さ、歴代5位と長く

 白雉、朱鳥、大宝、慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀……。桓武天皇以前に多かったのは祥瑞改元で、元号にも縁起の良い亀や雲、貴金属(=宝)、泉などを示す文字が採用されている。しかし桓武天皇が即位する約3カ月前に定められた「天応」(781年)は具体的な事物は示さず、文字の組み合わせで幸運を示唆した。しかも歴代元号で初めて、1月1日を選んで改元した。「新年号によって、近く即位する皇太子の革新的な姿勢を示す狙いだった」と久禮氏。

 「延暦」(782年)ではさらに徹底し、久禮氏は「国家と官民の長久を祈る意味の漢語を選んだ」としている。改元の理由を示す詔には、中国の元号の歴史を盛り込んだ。以後の元号は桓武天皇流の抽象的な成語が主流となった。延暦の後は大同、弘仁、天長、承和と続いていった。元号の常連だった「亀」が再び登場するのは戦国時代に入ってからだった。

 桓武天皇は、奈良から平安への時代転換を切り開いた改革派のリーダーだ。平城京の旧権力と決別して、律令政治の振興や仏教界の革新、地方行政の改革などを手掛けた。さらに歴史的事業として平安京の造都と東北地方への軍事遠征を強力に押し進めた。

 もともとが即位などは望めない傍流中の傍流。当初は皇族としてではなく、官僚としての経験を積み、大学寮の長官などを務めた。父の光仁天皇自身が、称徳天皇の後継者不在に際して、緊急避難的に62歳で擁立された天皇だ。桓武天皇も母親が渡来系氏族の出身で、朝廷の主流派とは言えない存在だった。非主流の出身だけに保守派からの反発も強かったが、政敵や反対派には果断に対処した。

 傍流だったことが、かえって国家のビジョンや、リーダーとしての天皇のあり方を深く探究することにつながったようだ。遣唐使や天台宗を創始した最澄の派遣は、現代における最先端のハイテク知識を導入するようなものだっただろう。当時の中国は、世界の最新知識の宝庫だからだ。桓武天皇は近代に至ってようやく確立された「一世一代」の先駆者でもある。自らの理念を示した「延暦」の年数は23年8カ月で、昭和、明治、応永、平成に続く歴代5位の長さだ。

 ただ東北への軍事遠征と平安京の都城建造を久禮氏は「当年の費えといえども後年の頼りと呼ばれた大事業だった」と批評する。どちらも達成までは20年、30年といった長い年月と莫大な費用が必要で、民衆にも大きな負担がかかった。桓武天皇は晩年に国家的な疲弊を懸念する側近の意見を受け入れて、造都も軍事遠征も途中で中止させたという。自らの政治的レガシー(遺産)にこだわらないことも桓武天皇の傑出した点のひとつと認めてもよさそうだ。

(松本治人)

閲覧履歴

    クリッピングした記事

    会員登録後、気になる記事をクリッピングできます。