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【Penペン草紙】

イチロー引退 50歳まで…かなわず でも数々の夢をありがとう

2019年3月22日 0時46分

古居記者がイチローをインタビューした記事を掲載した2016年8月9日付の中日スポーツ5面

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 昨年末、イチローの神戸の自主トレ先を訪ねた。フリー打撃ではスタンドに5連発。この時投げていた元プロ選手は、例年以上の飛距離に驚いていた。1カ月後、オリックス時代のコーチ、新井宏昌さん(現ソフトバンク2軍コーチ)も同様のシーンを見たという。

 だが、名球会メンバーでもある師は「ブランクが大きいし、実際のボールはもっと速い。本人の感覚も気になる。年を重ねてくればズレてくるから」と楽観していなかった。「東京ドームでいいものが出てほしい」と願っていたが、その時は最後まで訪れなかった。

 3年前の企画取材。イチローから「『50歳まで』は、最低でも50歳まではやるという意味です」と聞いてうれしかった。「いつか野球を辞めることになっても、僕は普通に、ここ(神戸のグラウンド)で野球をやっている」との難解ロジックも心地よかった。

 イチローとの会話では耳慣れない言葉が時々出てくる。誇りを意味する「矜恃(きょうじ)」もその一つ。「矜」は矛の柄で、古代中国の武士が誇らしげに矛を手にするさま。まるでバットをかざす、打席中のルーティンのようだ。いつ旅を終えても祝福が待つ。そこに価値を見いださず、ずっとグラウンドの上に…。それが「野球の研究者」の矜恃と思っていた。

 2001年のメジャー初安打は、本拠地シアトルで中前へ。第2回ワールド・ベースボール・クラシックでの決勝打も、粘りに粘って中前へはじき返した。高校時代、「センター前ならいつでも打てる」といわれた巧打者。だが運命の日、日米通算4368本目は生まれなかった。

 「50歳のシーズンを終えて『やり残したものがある』と言ってみたい」。そのはずではなかったか。平成の世を席巻した野球少年にはせめて最後に1本、絞り出してほしかった。でも最後は全力で走り、一塁は間一髪。らしさが見えた。数々の夢をありがとうございました。(1994~98年オリックス、2001、02年マリナーズ担当・古居宣寿)

 

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