| 満州は古くから様々に国が移り変わる土地でした。特に近代になっても多くの軍閥が実権を取っており、あまり政治的に安定したとは言いがたい側面があったと理解しています。 その為もあってか、学問においては、欧米には遅れをとっていた印象があります。そのため、例えば発掘などを行って過去の歴史を探るといった考古学は無かったのでしょうか、満州の地域の遺跡は近代になって日本人による発掘と調査が行われたものが多くあります。また満州国設立後は満州の各大学で研究が進んだものと思われ、論文も作成されています。もし機会があれば、当時の論文も読んでみたいものです。 | | | |
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| 満州の地域は古くから人がおり、有史以前のいわゆる石器時代の巨石の遺跡があります(ドルメンやメンヒル、ストーンサークルと呼ばれます)。 また貝塚もみつかっておりこのあたりは日本と良く似ています。 その後、周、漢、高句麗、渤海、遼、元、明、清と時代は移り変わり、そしてそれぞれの遺跡が発掘研究されています。 画像は、普蘭店にある巨石構造物、ドルメンです(支石墓/しせきぼ:巨大な石を利用して作られた墓で、地下に石室を作り、上に大きな石を覆うのが一般的な造られ方です)。 | | | |
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| 有史以前の遺跡を日本の考古学者と共に発掘している風景です。キャプションには『数千年前の遺物を再びこの世に顕す仕事は意味深い仕事といわねばならぬ。』とあります。一見、石材が煩雑に積み上げられただけにも見えますが、随分と古い遺跡の様です。作業者は厚着をしており、なにやら寒そうです。 | | | |
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| 遺跡から掘り出された、遼の時代の古碑です。遼は契丹人(きったん)の王国で、創立者は阿保機(あほき)です。このレリーフももしかするとこの阿保機の歴史を彫ったものかも、と想像しています。 | | | |
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| 遼のあとには金がさかえ、これは女真人(にょしんじん、またはじょしんじん)によって作られた国です。 写真はその時代の城跡で昭和5年の撮影、城壁は荒れ放題です。 城壁の上には木が生え、手前はどうも畑のようです。城の門、左には農民と思われる人が道具を置いて休憩しているようです。門の中には家畜も見えます。 写真のキャプションから 『遼につづいて起こりその上京を哈爾濱の東の阿什河畔に建設した。 これは当時の土城の遺跡をのぞむもので、城内は種々の建物の跡等もみられ往々にして当時の器物なども発見されるという。同時代の遺物は全土に分布している。』 金の創始者、完顔阿骨打についてウィッキペディアから引用します。 『阿骨打は、女真族完顔部の族長で、金の初代皇帝である。日本では女真名である阿骨打に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。なお、中国姓は王である。』 | | | |
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| 先ほどの門をクローズアップ、左したの人の大きさと比較しても大きなものです。 ボロボロではありますが、アーチの上淵、そして門の上側にはなんらかの意匠があったものと思われます凹凸がみられます。 もしかすると完顔阿骨打に由来の紋章があったかもしれません。 | | | |
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| 昭和2年には、東亜考古学会の濱田博士の元、東京大学、京都大学に支那(当時の中国)の学者が合同で古墳などの組織的学術的な発掘を行っています。 画像はその発掘風景です。 | | | |
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| 満州には全土に土城や城壁がのこっていますが、多くは遼の時代に作られ、金の時代に使用されたものです。 その他、継続して様々な城壁が作られてきました。 画像は錦州に残る高句麗時代につくられた門です(撮影は昭和5年)。 壁は崩れかけており、何時、頭の上から石が落ちてきてもおかしくない感じがします。 また家々が寄りかかるように建っています。 こうした歴史的建造物の傍らには、その価値を知ってか知らずか、家がそうした壁に寄りかかるように立てられていたり、あるいは直ぐ傍まで耕され高粱畑があったりします。こうした風景も満州ならではの風景でしょう。 | | | |
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| 凌源で行われた化石の採掘風景です。シャベルにつるはしで作業しています。有史以前の研究も進んでいたようです。 | | | |
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| 博物館収蔵品の撮影です。 お墓の石室の内部で、模型とあるので展示用のレプリカを撮影したものの様ですが、写真を見る限り縮尺がわかりません。左にある絵から、壁の紋様まで細かく作られており、実物大かもしれません。 各種の学問や調査が進むにつれ、博物館の展示の内容も充実してきたものと想像しています。 | | | |
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| 入り口付近の紋様をクローズアップしてみます。 こうした絵や紋様がたくさんあったことから、一般公開にはレプリカを使ったのでしょうか。また恐らく日本国内の古墳調査と同じく、これの本物は調査後に封印されたのでしょう。 | | | |