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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


共産主義の恐ろしさをウクライナの悲劇に学ぶ

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ウクライナは飢饉のときの2年間で、1千万人の国民と家畜たちが死んでいきました。
さらに第二次大戦で、民族の4分の1にあたる700万人の兵士が死亡しました。
大戦後もソ連の内政によって400万人から1000万人が殺されました。


20190318 ウクライナ
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


このブログで何度かご紹介させていただいた数多久遠さんが、新著『北方領土秘録』を出版なさいました。
早速読ませていただきました。
小説ですので、たいへんに読みやすい。
思わず夢中になって読んでしまいます。
外交とは、国益とは。
そういうことの学びや気付きのある本です。
ものすごくお薦めです。



さて、この小説のなかで重要な役割を果たしているのが、「ウクライナ」です。
黒海の北側に位置するこの国は、かつてはソ連の一部となっていました。
そしてソ連の一部となることで何が起き、そしてなぜ彼らは独立の道を選んだのか。
今回はウクライナの歴史を考えてみたいと思います。

 *

ウクライナは、もともとはロシア発祥の地で、ヨーロッパの穀倉地帯と呼ばれる豊穣な土地です。
ほとんどの国民は、敬虔なロシア正教の信徒です。
そのウクライナに、旧ソ連の前身となる「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が誕生したのが、大正8(1919)年のことです。
ソビエト連邦は、このウクライナに出来た「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に、大正11(1922)年になって「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」、そして「白ロシアソビエト社会主義共和国」等が合併して出来上がった連邦国家です。
だから「ソビエト連邦」と言います。


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20190317 MARTH



下の写真は、帝政ロシア時代のウクライナ地方の絵葉書です。
おそらく1921年頃のものであろうといわれています。
つまり、ウクライナが、まだ共産圏に取り込まれて間もないころのものです。
二人の女性は、とても暗い表情をしています。
けれど、それでもまだこのときはお二人ともそれなりの体型をされています。
つまり、食える状態にはあったことを示しています。

ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民
ソ連に取り込まれたばかりのウクライナの農民


この当時、旧ソ連の最大の外貨獲得手段が、ウクライナで産出される小麦です。
ただ、帝政ロシアの時代と、共産主義国であるソ連になってからでは、その輸出の仕方が、まるで違うものでした。
どういうことかというと、帝政ロシアの時代には、当年度の小麦の出来高によって、国内消費分に余力があれば輸出するというものでした。
ところがソ連時代には、これが逆転したのです。

農民の都合や天候など一切関係なく、クレムリンで政治が「これだけの収量を輸出に回すから国内で徴発せよ」と決めます。
そしてその通りに徴発される。

あたりまえのことですが、農作物の出来高は、天候によって変動します。
ところが共産主義というのは、なにごとも「政治主導」です。
天候や農家の都合など関係なく、政治によって収量が決められるのです。
出来高が多ければそれに越したことはありません。
けれど出来高が少ないとどうなるか。
これが「政治主導」に内包される恐ろしさです。

当然、ウクライナの住民たちの生活は苦しいものになります。
食べるに食べれないような状況になれば、黙っているわけにはいきません。
ウクライナの人たちは、ですからさかんにソ連政府の批判を行いました。

ところがここでも共産主義の恐ろしさが発揮されます。
ソ連政府は、こうしてソ連政府の行う徴発に抵抗したり、批判したりする者を、片端から逮捕、投獄したのです。
政治によるこうした粛清は、政治家が敵対する政治家を追い落とすというだけにとどまりません。
ソ連に批判的な知識人は、全員、抹殺されるのです。

あたりまえのことですが、知識人を抹殺したからといって農業生産高があがるわけではありません。
そもそもいくら豊かな土壌に恵まれたウクライナだとはいっても、あまりに過度な収穫高目標は、現実論として達成不可能です。
しかし「政治主導」に、そのような現地の事情は関係ありません。

小麦は、当時のソ連の重要な輸出品目です。
つまり小麦は、ソ連にとっての重要な外貨獲得手段です。
ソ連政府は、いまどきのどこぞの国と同様に、世界中に政治工作員を送り込んでいましたが、彼らがそういう工作活動を広汎に行おうとすればするほど、ソ連政府には外貨が必要です。

ソ連政府は、そのためにこれだけの費用がかかるから、これだけの輸出をしなければならない、そのためには国内でこれだけの小麦の生産をし、これだけの小麦の徴発をしなければならないと、「政治的」に、机上で小麦の生産高を勝手に決めてしまうわけです。

本来ならば、それだけの生産量を安定的に上げるためには、耕作地の拡大、農法の近代かによる収穫高の向上、肥料など小麦の生産に役立つインフラ整備などといった、具体的に収量を拡大するための手当が同時並行で勧められなければなりません。

しかし、そのような収量拡大のためにとソ連政府が採った行動は、単にウクライナの農民に高負担な税をかけただけでした。
要するに、海外工作活動をするための外貨を獲得するために、農業生産の実態などまるで無視して、一方的にはなから達成できっこないような過大な政治的生産ノルマを課し、その(政治的)ノルマに基づいて、徴発量をあらかじめ決め、その通りに徴発を行うという暴挙をしたのです。

さんざん国民の生活が第一と綺麗ごとを並べ立て政権をとっておきながら、政権をとるやいなや、手のひらを返したように、政権中枢にいる者たちだけが経済的に繁栄し、好き放題の贅沢をし、民衆の生活などまるで省みないどころか、無茶な挑発のために、農民たちが飢えて死んでも、まったくなんとも思わない。
そういう政治が、現実の「政治主導」の政治であったわけです。

スタニッツァ・ボルタフスカヤという村があります。
この村は、ウクライナの併合当時、人口4万人の村でした。
この村は、定められた食料徴発を拒否しました。
もちろん、全面拒否ではありません。
自分たちの生活に必要な最小限の小麦を手元に残し、できるだけ定められた納税小麦量に近づける納付の努力はしたのです。
けれどその納付量は、あらかじめ定められた収量に満たないものだったのです。

すると、ここでソ連は何をしたと思われますか?

軍隊をこの村に送り込んだのです。
武器を持たず、抵抗できない村の住民たちを全員、見せしめのために検挙されました。
そして男はバルト海の運河建設の現場へ、女性はウラルのステップ地帯に送られました。
老人や子供たちは消息不明となりました。

運河建設に送り込まれた男たちは、年齢、体力、栄養状態に一切かかわりなく、休みのない重労働を強いられました。
そしてほぼ全員、死亡しました。

女性たちは、ウラルのステップ地帯というところに送られました。
そこは中央アジアの砂漠地帯で、農作物どころか、草木一本生えていないところです。
そこで女たちだけで農地を開拓し、必要な税を納めることを強要されました。

結局、ここに連れてこられた女性たちは、全員死んでしまいました。
そのため記録には何も残っていません。
ただ、当時、女性たちが逃げないように、そこにはソ連軍が派遣されていました。
大東亜戦争の末期、いきなり参戦してきたソ連兵が、満洲の日本人女性たちに何をしたのかを思い返せば、女性たちがそこでどのようなめに遭わされていたのかは、簡単に想像がつくことだろうと思います。

ウクライナの民衆への、達成不可能な過度な生産ノルマは、結果としてウクライナの多くの農民たちの労働意欲を削ぎました。
そして小麦が減産しはじめました。
それでもノルマ分の徴発は実施されました。
農民たちは、徴発分を提出すると、何も食べものが残らないという状況になりました。

さらに現場を知らないソビエト政府当局は、数々の法を制定しました。
農産物は全てソ連邦の「人民に属する」ものとされ、農作物の換金や、(政治的)ノルマの不達成、落ち穂拾ったり、穂を刈るという農民としては「あたりまえ」の行為さえも、「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられるようになりました。

さらに農民の逃散を防ぐため、ソ連政府は、昭和7年末に「国内パスポート制」を施行しました。
これによってウクライナの農民達は土地に完全にしばりつけられました。
そしてウクライナの国境も封鎖されました。

ソ連政府から派遣された共産党のオルグ団は、空中パトロールと称して空から農民たちの行動を監視しました。
さらに農場には、コムソモールのメンバーが、作業の見張りに送り込まれました。
そして、飢えてひもじい思いをしている子供達には、肉親を告発すれば、食物や衣類やメダルが与えられるという制度を敷きました。

それだけではありません。
共産党員と称する者たちが、毎日のように一軒一軒の農家を回り、食卓から焼いたばかりのパンやおかずまで、勝手に持っていきました。

食料を没収された農民たちは、当初はジャガイモで飢えをしのぎました。
鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べました。
そして遂には、病死した馬や人間の死体までも掘り起こして食べるようになりました。
この結果、多くの人が感染症に罹(かか)って病死してしまいました。
食べるものがなくて、幼い赤ちゃんを殺して食べたという記録もあるそうです。

通りには行き倒れた農民たちの死体があふれました。
そうした死体は、当時、そこここに山積みされ、村には死臭が漂いました。
この惨状に、都市部から送り込まれた共産党員さえも、なんだかんだと理屈をつけて、逃げ帰る者が多かったといいます。

ウクライナで餓死した子供
ウクライナで餓死した子供


子を持つ親たちは、我が子の誘拐を恐れて子を戸外へ出さなくなりました。
なぜかというと、誘拐された子は、殺されて食べられてしまうからです。

この頃のソ連は、5ヵ年計画の大成功を世界中に宣伝していました。
すべての財産が国営化された計画経済により、ソ連の人々は、最小の労働力で最大の経済的成果をあげ、ソ連人は誰もが幸福に暮らす理想国家だとされました。

なるほど都市部のインフラは次々整備され、豪奢で立派な建築物が立ち並んでいきました。
けれども、そうした建築物は、満洲から摘発した日本人抑留者と日本が満洲で建設した工場や建造物を、日本人労働力ごとまるごとソ連に持ち帰ってそこで無給と過酷な条件での強制労働によって築造したものです。
そして国家繁栄の根本である農業は、ウクライナの農民から、絞れるだけ絞り取った結果のものでしかありませんでした。
宣伝と実態の乖離、これが共産主義の恐ろしさです。

外で繁栄を自慢しているソ連は、まさかウクライナの惨状を世界に見せるわけにはいきません。
そこで何をしたかというと、ウクライナの惨状を「政治的になかったこと」にしました。
このあたりも、程度の差こそあれ、昨今のわが国のメディアの姿勢に共通するものがあります。
左翼と言われる人たちの常套手段です。

当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウやH・G・ウェルズ、ニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティ等は、「模範的な運営が成されている農村」だけを見せられました。
そして「素晴らしいソ連の成果」を信じこまされ、それを世界に向けて報道しました。
それはソ連当局の望み通りの視察報告でした。
こういう宣伝に、いま騙されている人がいるというのは、実に悲しいことです。

それでも惨状は、人づて、口づてで洩れ伝わります。
ウクライナの惨状に対し、国連や国際赤十字などが、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に何度も要請を行いました。
けれど、ソ連政府は、断固として「飢饉は存在しない」と、これを突っぱねました。
「存在しない飢饉への救済」は不要だったのです。

結局、昭和7(1932)年から翌年にかけて、ウクライナでは六百~七百万人が餓死しました。

飢餓当時のウクライナの農民
左にやせ衰えて生気の失せた子供が見えます
ウクライナの農民


この時期のソ連は、ちょうどレーニンからスターリンに書記長が変わったばかりの頃です。
スターリンは、ソ連の工業化を強硬に推進しました。
そのために、西側から重工業機械や専門知識を次々と導入ました。
そうした設備や人材投資のための資金は、穀物輸出に頼るしかなかったのです。

ソ連の食料の輸出高は、1928年には5万トンでした。
それが1929年には65万トンです。
1930年には242万トンになり、飢饉に入った1931年には259万トンが輸出されています。
ところがこの間に、ソ連国内の食糧生産高は、12%減少しているのです。
生産高が下っているのに、輸出高が50倍以上に膨れ上がっている。
それが何を意味するのかは、上の写真が物語っています。

ちなみに、ソ連の食糧輸出は、ソ連が所期の目的を達成した1932年には90万トンに減っています。
いっきに7割も輸出が減っているのです。

ソ連から食料を買い付けしていた各国の企業は、いきなり食料を売ってくれなくなったソ連に、目を丸くしました。
しかし、そもそもそれらの企業は、共産主義国家とまっとうな取引ができると思ったこと自体が、大きな間違いだったのです。

ちなみにソ連は、1931年から1933年にかけて、700万人もの餓死者を見殺しにしながら、同地区の政府管轄の倉庫の中には供給可能な在庫食料が眠っていました。
その量はもちろん充分とはいえかもしれないけれど、計算してみればわかることだけれど、わずか十万トンの穀物さえあれば年頭から7月末まで100万人が死なずにすんだのです。

ウクライナの農場は、もともとは富農(クラーク)と、農奴によって構成されていました。
これはかつての日本の農業にも少し似ています。
日本では、江戸時代に年貢の納税義務を負っていたのは、土地持ちの自営農家です。
多くの小作農たちは、農家から土地を借りて農業をし、税は国ではなく、地主さんに物納でおさめていました。

ただ、日本とウクライナの違いは、土地を持たない小作農の多くが、武家の次男坊や三男坊だったことです。
江戸日本における年貢を納める農民というのは、今風にいえば、農場の経営者で、その農場主が雇っている小作農たちの多くは、武家の子女たちだったわけです。
つまり、徴税を行う側の兄弟姉妹たちが、農場主の下にいるわけで、ですから小作農たちは、決して奴隷のような存在ではありません。

一方、ウクライナの場合は、富農(クラーク)と、小作農は、所有者と奴隷の関係です。
農場の生産管理等は、クラークが100%行い、農奴たちはその下で、言われた通りにモノとして働かされているだけという関係でした。

これをソ連の共産主義者たちは、クラークたちを、ブルジョアとして抹殺することで、農奴たちに「農場を解放」するとしたわけです。
そうなると、昨日まで農奴だった者たちが、今日からは地主です。
その先には幸せな暮らしが待っていると思わされました。

そして農場主であるクラークや、ウクライナの民族主義者、インテリ、共産主義への反対者など、共産主義者たちにとって邪魔だと思われる人々を、ブルジョア主義者であるとして大量に抹殺しました。
その結果、地主、作家、学者、政治闘争を行う民族主義者たちは、収容され、暴行され、殺されました。
こうしてウクライナでは、餓死の他に百万人が粛清されました。
また、1千万人がシベリアで森林伐採作業や、極寒地での白海運河建設の為に連れ去られました。

いままで土地を持たなかった農奴にしてみれば、自分たちの親方が逮捕され、親方の土地が自分たちのモノとして分配されれば、という、いまでいうならバラ撒き政治に、はじめのうちは大喜びしました。
ところが粛正のあとどうなったかといえば、農奴たちは、絶対に達成できない(政治的)生産ノルマを課せられ、その多くが飢え死にするという事態を招きました。

この頃の米国は、1929年には大恐慌がありました。
国内は不況にあえぎ、町には失業者があふれていました。
そしてその不況を打破するために、新しく生まれたソ連という巨大な人口を擁する大国に、巨大市場の夢を抱きました。

そしてスターリンは、ソ連の工業化の推進のためと称して、米国から多数の人材を高給でヘッドハンティングしてました。
これまた昨今、斜め上の国が原発技術者などを、想像を絶するような高給でヘッドハンティングしている様子に似ています。

ただ、そうしてヘッドハンティングされた米国の技術者やエリートたちが、ソ連に行ったあと、どのような人生を歩むことになったのか、ヘッドハンティングされた人々が消息不明となったいまとなっては、もはやわかりません。
国家観を失い、高給に吊られるとどうなるのかということも、歴史が証明しているといえるのではないでしょうか。

さて、時代がずっと下って、1980年代のことです。
ウクライナの飢饉から50年が経過した頃です。
西側諸国に在住していた300万のウクライナ人たちが、かつての民族虐殺を忘れまいと、行動を起こしました。

これに対して、当時まだ健在だったソ連当局が示した回答があります。
それは、
「ヒトラーの手先となって、
 戦後西側へ亡命したウクライナ人達による
 100%偽証言である」
というものでした。
要するに事態の全否定です。
そしてソ連解体後のロシア政府も、この問題については、前の政権のしたこととして何も謝罪をしていません。

多数の人に地獄の苦しみを味あわせ、多くの人命を、この世の地獄のような姿で奪っても、口を拭って知らん顔をする。
それが政治主導であり、社会主義者、共産主義者などの左翼の、真の姿です。
それは中共のウイグルやチベット、法輪功弾圧、昨今の日本における口蹄疫でも、まったく同じです。

ウクライナは飢饉のときの2年間で、1千万人の国民と家畜たちが死んでいきました。
さらに第二次大戦で、民族の4分の1にあたる700万人の兵士が死亡しました。
大戦後もソ連の内政によって400万人から1000万人が殺されました。

動画をひとつご紹介します。
ウクライナ人のセーニャさんが描くサンド・アートです。
このアートには、芸術祭の審査員全員が涙したといいます。

ちゃんとした歴史を学べば、真実が見えてきます。
逆にいえば、ちゃんとした歴史をまなばせまいとする人たちが、どういう人たちかということも、おのずと明らかになるということです。

みなさまも、お時間があれば、是非、冒頭のサンド・アートの動画をご覧いただきたいと思います。
およそ8分ほどの動画です。

Kseniya Simonova Incredible Sand Art On Ukraine's Got Talent


※この記事は2014年3月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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01-02 古事記と日本書紀の違いとは
第一章
02-01 隠身と別天神
02-02 創生の神々と十七条憲法のただならぬ関係とは
03-01 諸命以と修理固成という重要語
03-02 見立てると成り成りて
03-03 ヒルコをめぐる三つの意味とは
03-04 神議(かむはか)り
03-05 国生みと神生み
03-06 イザナミの神避りと古代の葬祭


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03 孝行
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09 我が郷土
10 人の名誉を重んじる
11 勇気
12 進取の気象
13 信義
14 国旗
15 慈善 







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コメント
主義者に運命を託してはいけない。
ウクライナは「ヨーロッパの穀倉地帯」です。
ソフホーズは国営農場
コルホーズは集団農場
素晴らしい!と習いました。
今ではどちらも解体されたと聞きました。
一部の農協ではやり方を引き継いるようですが,昔のように中央政府の指令で生産するシステムはもう無いそうです。
但し「ワイロ」という「ノウハウ」だけは昔通りだとか。
歴史を語る方々の中にも「ゴロ」はいます。
『後は野となれ山となれ』
そんな主義者に運命を託してはいけない…ねずさんの警鐘は常に重たいです。
夜勤明けで眠いですが、一気に拝読しました。
ありがとうございます。
2019/03/21(木) 07:56 | URL | takechiyo1949 #VCU7f5e.[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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