ほとんどの人は独自の考えも信念もなく生きています。それでも、しばらく生きていると自分の信条を持ちたいと思うようになります。そういった時に便利なのが、宗教や思想なのです。
自らオリジナリティのある考えを一から作り上げるというのは大変なことです。ですから大抵は借り物の宗教や思想を安易に持ってきて、それを自分の思想、信条としてしまうのです。その信条は自分にとって心地よいもので、世界の矛盾を上手く説明してくれるように見えるものを選びます。
例えば、打ちひしがれた人々は天国や地獄、因果応報を説いてくれる宗教、強いものに頼って何か誇りを得たいと感じている人は右寄りの思想、本当は体制側の人間になれたはずなのに叶わなかったと考える人は反体制的な思想といった具合です。また特定のグループに入るため、あるいは隠れ蓑として特定の思想や宗教を信じる場合もあります。
こういった思想や宗教というのも一種のシステムです。上手く行っている時は良いですが、そのうち様々なことが説明できない、あるいは自分の好みとも矛盾する事が出て来る事があり、そうなると、システムの根幹を揺るがさない範囲で、末端の信条をちょこちょこ変えていくことになります。それでもどうにもならないとなると思想や宗教そのものを丸ごと変えることになるのです。
ですから何らかの宗教や思想を持っている人は、全く別の思想や宗教に転向させ易いのです。優れたスパイが寝返る話がありますが、これは無理やり転向させたのではなく、本人が合理的に納得した上でなっているのです。
これとは別に、いい年をして何の信条も持っていない人を特定の思想に染まらせるのは難しいのです。そもそもそのような思想を必要としなかった人達だからです。
信条や思想を持った人達は少数でも無視できません。何も考えていない人より、はるかに力があるからです。
その一方で信念を持たない人は多くいますが、彼らは強い者になびく葦でしかありません。オーウェルの「動物農場」に登場する羊のように、簡単なシュプレヒコールを覚えさせれば、それを繰り返し叫ぶようになるのです。短くて響きのよいスローガンは強く一貫しているように見える為、簡単に洗脳されてしまいます。
表面上何か思想を持っているように見えても、彼らは多数派に付和雷同しているだけです。
本当に一貫性がある人というのは自分独自の判断基準を持っています。矛盾するようですが何かの思想や宗教に凝り固まっているのではなく、柔軟に考えを変えていきます。本物と偽物を見分けるセンスを持っていると言った方が近いかもしれません。