コザの「白人街」をゆく

コザの「白人街」は胡屋十字路から嘉手納基地へかけてのゲート前通り一帯です。すっかり廃れた「黒人街」とは違って、今もコザの繁華街となっています。英語の看板を掲げる店も多く、アメリカ人の姿もちらほら目立ちます。
 
 

   

米兵相手のクラブもいくつか残っています。かつては英語の看板ばかりが目立ち、日本語の表示は「沖縄人お断り」だけの店も多かったといいますが、復帰後は円高や駐留米軍の縮小で米兵相手の商売だけでは立ち行かなくなり、「日本人歓迎」の看板を出すようになったとか。

   

英語の看板を出しているのはクラブだけではありません。スシハウスやスチームバスもありました。スチームバスって、今風にいえばサウナでしょうけど、当時としてはソープランドのルーツでもあります。

民家を改造したような小さな店の看板も2カ国語表記です。でもこんなスナックに米兵が来るの?

米兵相手の質屋さん。復帰前は1ドル=360円の固定レートだったのに、最近では1ドル=100円台前半ですから、米ドルで同じ給与だと日本円に直せば三分の一に下がったことになります。質屋が繁盛するのももっともですね。

   

インド人経営の仕立て屋がありました。コザが基地の町であった頃、アジア各地からアメリカン・マネーを求めていろんな人たちが集まっていました。軍事基地で働くフィリピン人も多かったとか。

かつては華人もたくさんいました。沖縄の華人は台湾人や上海人が多かったようですが、本土復帰と前後して沖縄を去った人が多いといいます。しかし最近は台湾人観光客が増えていて、「歓迎光臨」と中国語で看板を出すみやげ物店もありました。

英語の看板を出す店はどんどん潰れてゆき、日本語の看板の店に変わっています。アメリカ統治の頃は、米軍基地で地元労働者のストライキがしばしば起こりました。すると米軍側はオフリミット(米兵の基地外出禁止令)を出し、客足が途絶えた飲食店業者らがスト中の労働者を襲撃するという騒動もあったようです。当時のコザ市は経済の基地依存度は実に83%まで達していて、沖縄の本土復帰運動が盛り上がる中で、この街では「復帰反対集会」が開かれたといいます。

「白人街」のもう1つのメインストリートであるBC通りは、街ぐるみで改装されて地元向けのオシャレなショッピング・モール「中央パークアベニュー」に変身しています。

警察からのお知らせが2カ国語表記なことに、かつてここが「白人街」であったことの面影が感じられます。

基地のゲート前にはアメリカン・スタイルのホテルというよりモーテルが残っています。

アメリカ人相手のビデオシアター。かつてこの建物はバンク・オブ・アメリカ(バンカメ)の支店でした。アメリカ統治下で米系銀行が進出したのですが、本土復帰後は日本でアメリカ資本の銀行が一般の預金業務を続けるのは法的に難しくなり、支店は琉球銀行へ譲渡された後、閉鎖となりました。金融機関の対外開放が進んで「シティバンク」が進出している現在では、考えられないことですね。

コザ郊外の泡瀬にはプラザ百貨店、ロジャース百貨店などアメリカ式のデパートがありました。私は1975年、まだ車が右側通行だった頃、沖縄海洋博ツアーに参加してここに立ち寄り、「なんか倉庫みたいなデパートだなー」と感じた記憶がありますが、今ではすっかり日本式のショッピングセンターになっていて、アメリカ製品が多いわけでもありません。ロジャース百貨店の中に入ると、メインテナントは三越でした。
 

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