コザの黒人街を歩く

沖縄本島の真ん中あたりにコザという街があります。今では隣の村と合併して沖縄市になりましたが、かつては日本で唯一のカタカナ名の市=「コザ市」でした。

戦前のコザは越来村という、何の変哲もない農村でしたが、戦後アメリカ軍の統治の下で「基地の街」として一躍発展した都市です。ベトナム帰りの米軍兵があふれていた頃のコザは、半ば風俗店と化した飲食店が密集し、それは「白人街」「黒人街」と地元沖縄の人たち向けの「社交街」の3つに、はっきりと分れていました。

今でも「社交街」はほとんどそのまま残り、「白人街」は観光客向けのしゃれた商店街に変身しましたが、「黒人街」はすっかり寂れて、かつての面影はまったくありません。でも裏通りを歩けば、ここが黒人街であった頃の「痕跡」を発見することができました。

那覇から「新赤道ゆき」という妙な行き先(?)のバスに乗り、「コザ高校前」で降ります。ここから先が「黒人街」だった場所ですが、表通りはフツーの商店街になっていて、郊外型のスーパーや大型書店も進出してます。わずかに残ったバーも、地元の人向けの「民謡スナック」になっていました。夜になれば三線の音が賑やかに鳴り響く店なんでしょうね。

「店の名前がウチナーグチ(沖縄方言)で書いてあって、さっぱり意味がわからない」ということをネタにしようと撮った写真ですが、スキャンしたら不鮮明すぎて読めないですね(苦笑)
 

当時は黒人が「白人街」を歩いたり、白人が「黒人街」を歩けば、すぐ袋叩きに遭いました。地元の「琉球警察」ではどうすることもできず、白人兵と黒人兵でコンビを組んだMP(憲兵隊)がパトロールしていましたが、それでも暴力事件は絶えず、シルー(白人)とクルー(黒人)とのケンカのとばっちりで放火された家もありました。白人から「ブッシュ」とあだ名されたこの街も、今ではすっかり静かな住宅街に変わり、黒人の姿はありません。

ナイトクラブだった建物。入口のヒサシがアヤしい形をしています
 

大部分のバーは廃業してしまい、地元住民向けとなった店がわずかに残っているだけです。

廃墟と化した映画館もありました。

かつて「黒人街」でバーの次に多かった店は服の仕立て屋でした。沖縄を統治していた米国民政府(USCAR)が発行していたプロパガンダ誌『守礼の光』63年1月号には、「琉球人の仕立て技術が進歩したため、外国人仕立て屋の琉球進出はほとんど見られなくなった」なんて記事も出ています。当時は沖縄の人件費は安かったので、アメリカ本国へ戻る途中にここでスーツを仕立てて行く黒人兵も多かったんでしょうね。

廃業した店の看板にはほとんど英語が併記されています。ここはもと床屋さん。

黒人兵御用達だったであろう連れ込みホテルの跡。ベトナム戦争の最前線で白人兵の弾除けとされた黒人兵たちは「ここでは仲間と必ず出会え、心おきなく遊べる」とコザの黒人街を自分たちの聖域にしていました。60年代にアメリカ本国で「ブラックパワー」が高揚した頃には、沖縄でも「黒人解放」のデモが行われたようです。

白人と黒人との対立でいつも巻き添えを食っていた地元住民ですが、本土復帰を目前にした70年12月、ついに怒りが爆発して「コザ暴動」が起きました。通りかかった70台以上の米軍ナンバーの車が次々とひっくり返されて焼かれ、出動した米軍はベトナムでも使用したCSガスを使って鎮圧しようとしましたが、勢いを増した群衆は米軍基地にも乱入して、アメリカ人小学校を焼き打ちする事態になりました。

米軍基地は今でもコザの中央にデンと残っていますが、白、黒、黄色が入り乱れての殺伐とした乱闘は、とりあえず過去の話となりました。

コザの白人街へ行く

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