返還直前のマカオをゆく之2
これがマカオ随一の繁華街・新馬路です。かなり閑散としてますね・・・。夜になると道端にアヤシイ女性がたくさん立っていて、かなりアヤシイ感じになってました。
これらの女性はほとんど中国本土から「マカオ3ヵ月観光ツアー」でやって来た人たちです。マカオ観光なんて普通は半日、じっくり見て回っても3日もあれば十分なのに、それを3ヵ月も滞在するというのはようするに最初から金稼ぎ目的なわけで、これぞ「買春ツアー」ならぬホントの「売春ツアー」ですね。マカオと接している中国側の都市・珠海の税関付近には、「マカオ3ヵ月観光ツアー」を扱う旅行社がいくつもあって、ツアー参加者たちは飛行機に乗るわけでも列車に乗るわけでもなく、歩いてマカオにやって来て、そのまま3ヶ月間「自由行動」となります。男性向けの3ヵ月ツアーもあって、こちらの参加者たちはマカオへ着くなり、道っ端で「ガンが治る最新の薬(実はただの胃薬)」や「不老長寿の電波を出すコイル(実はただの銅線)」といったアヤシイ物を売りさばきます。ようするに「ペテン師ツアー」ですね。
裏通りの方がまだ活気がありました。なんとなく一昔前の香港の裏通りみたいですね。
ただ店の看板をよく見ると、香港では「中国語+英語」なのに、マカオでは「中国語+ポルトガル語」で、英語の看板はほとんど見当たりません。それもそのはず、マカオでは数年前まで中国語とポルトガル語以外の看板は禁止され、英語の看板はご法度だったのです。ポルトガル政府が懸念したのは「英語は国際語だから香港が中国へ返還されても英語文化は残るだろうが、マカオが中国へ返還されたらポルトガル文化はなくなってしまいかねない」ということで、だから返還直前まで法律で強制してでもポルトガル語を押し付けようとしていました。公用語はポルトガル語だけだったし、学校でもポルトガル語の授業を義務化しようとしたり、マカオ大学の法学部はポルトガル語だけで授業をしたり、はたまた観る人がほとんどいないのにポルトガル語のテレビ局を作ったり、ラジオ局を買収したり・・・と、ポルトガル色を残すために、あれこれ最後の悪あがきをしていました。
中国返還後のマカオは、いちおう中国語と並んでポルトガル語も公用語として残りましたが、住民のほとんどは「英語なら役に立つけど、ポル語じゃねぇ・・・」と勉強しようとはしません。そりゃ、そうだ。
「風水」ってポルトガル語でADIVIWAOって言うの?ちょっと勉強になったような気がします。
マカオ政庁には翻訳専門の部署があって、看板を作るときには無料でポルトガル語に訳してくれるそうです。そうでもしなければ、誰も看板にポルトガル語なんて書かないでしょうね。ちなみに、ブラジル人に言わせると、マカオのポルトガル語は100年前のポルトガル語だそうです。となると、マカオから見たらブラジル人の喋るポルトガル語は100年未来の言葉?まさかね(笑)
香港から24時間運航しているジェットフォイルは新しいターミナルに着きますが、これは半島の反対側にある古い港です。
かつてはマカオの玄関口で、香港や中国本土へ行く船、今は橋が開通して廃止になりましたがタイパ島やコロアネ島へ行くフェリー、そして遠くポルトガルのリスボンへ向かう船が発着していました。ポルトガル行きの船は1961年に中間寄港地だったゴアがインド政府に占領されてから、運航停止になったままだそうです。
港の周りはすっかり廃れて、ゴーストタウンのようですね。
マカオの玄関口だった頃にはこの一帯にホテルや旅館が建ち並んでいました。現在では「3ヵ月ツアー」の女性観光客が根城にする宿になるか、労務者むけのドヤになるか、はたまた廃業してしまうかで、まともなホテルは1~2軒しか残っていません。この風格ある建物には「広州大旅社」という看板が出ていました。90年代半ばにマカオへ行ったときはまだ営業していましたが、間もなく廃業して火事になったようです。補強してペンキを塗り直したところを見ると、観光資源として保存されるのかも知れません。
港から中国本土にかけての埋め立て地には木造のスラムが密集していました。マカオの人口は30年間で2倍になりましたが、黒居民(ヤミ市民)と呼ばれる中国本土からの不法入境者も多く、取り締まりも香港と比べてかなりルーズでした。そういえば、大韓航空機を爆破した北朝鮮の工作員「蜂谷真由美」こと金賢姫も、「西側社会で暮らす訓練」ということで、中国人になりすましてマカオで生活していたことがあるそうです。ポルトガルが投げやりな統治をしていたマカオは、北朝鮮の工作基地でもあったのです。
さて、マカオの2つの離島のうち、コロアネ島へやって来ました。最近ではマカオ風のポルトガル料理を食べさせてくれるイイ感じの中華風カフェが有名になって、観光スポットにもなってます。これは島の埠頭。かつてはマカオ半島からのフェリーが発着していたのですが、今は橋があるのでフェリーはありません。その代わり、目の前にある中国領の島(横琴島)との間を頻繁に小型船が行き来していて、乗客たちはパスポートも身分証も見せずに乗り降りしています。私もさっそく野次馬根性を出して乗ってみようとしましたが、すぐに警官がやって来て「ダメ!」と言われてしまいました。どうやら、ここから船に乗れるのは双方の島の住民だけに限られていて、埠頭にいる警官は地元の人間ならだいたい顔を覚えているので、フリーパスで通しているようです。カウンターで居眠りしているように見えても、ちゃんと国境警備しているわけですね。
ちなみにマカオ返還後は、コロアネ島と横琴島との間に蓮花大橋という巨大な橋を架けて、正式なボーダーを作る計画らしい。今はどうなってるんでしょうね?
埠頭に面した町には「フランシスコ・ザビエルの骨」が残ってる教会などがあるそうですが、マカオ半島とのフェリーが廃止になってからか、商店街はすっかり寂れています。さすがにこの辺の田舎の裏通りでは、店の看板は中国語だけですね。 しかし道路表示にはしっかりポルトガル語も書かれています。香港では「Nathan Road」といった英語の道路名がついているのはほとんど中心街だけで、圧倒的に多くの道の英語表記は中国語の広東語読みをローマ字にしたものですが、マカオでは路地裏みたいな通りにもポルトガル語の道路名がしっかりと付けられています。400年以上もポルトガルが支配していた歴史を物語っているのか、はたまたそれだけポルトガル語を普及させたいという熱意の表れなのか・・・。ところでこの路地は「美女巷」だそうだけど、なぜでしょう?ポルトガル語の道路名も同じ意味なのかな?
マカオ半島に戻って、ここは中国本土との国境です。国境のゲートは19世紀に建てられたもので、1990年代半ばまで人も車もこのゲートで入管審査を行っていました。現在ではすぐ横に大きなゲートができて、ここは記念碑のようになってしまいました。ゲートの上にはポルトガルの国旗が翻っていますが、戦前、列強が争って中国進出をしていた頃、ポルトガルもそれに乗じて(?)国境線をここより7メートルだけ中国側へ移動させました。しかし戦後、中国に共産党政権ができると銃撃戦が起きて国境線は元の場所に戻されています。ポルトガルはやることがセコイですね。マカオは1999年に中国へ返還されましたが、入国審査ならぬ入境審査があるのは従来通りで、変わっていません。
香港と中国本土との国境は、中心街から30kmくらい離れた郊外にあり、1kmくらい手前から「立ち入り禁止区域」に指定されていて、鉄条網がはりめぐらされものものしい警備をしていますが、マカオの国境はすぐ前が繁華街になっていて、ものものしい感じはまったくありません。ゲート前の一角はバスやタクシーのターミナルになっていて、活気のある駅前広場みたいな感じです。
「人民元でのお支払い歓迎」「香港の馬券販売してます」「里帰りのみやげ物」。。。。このあたりにはポルトガル色はほとんどなく、漢字も中国の簡略字(簡体字)が目立ちました。香港とマカオの 返還前 や 返還後の変化 などの比較をまとめてみましたが、香港と比べてマカオは返還前からかなり中国化が進んでいました。というよりも、金融センターやアジアの貿易拠点として国際化した香港とは違って、あまり西洋化せずに古い中国が残ったままだったという感じがします。教会をたくさん建てたり看板にポルトガル語を書かせても、ポルトガルの影響はごく一部しか定着しませんでした。返還前のマカオですら人口40万人のうちポルトガル人は1000人足らず、ポルトガル語を母語とする混血のマカニーズを加えても1万人足らずで、住民の多くは中国生まれの中国人だったのですから、当然でしょうね。
近い将来、マカオには「観光化されたポルトガルの面影」しか残らなくなるでしょう。