租界の周りの怪しい一角
 
 予備租界  延長道路地区  租界外占領地  
 競馬場  ゴルフ場  避暑地  墓地

租界は中国と列強各国との条約に基づいて設定されたものでしたが、当時の力関係にモノを言わせて、列強各国は租界の周辺にさまざまなアヤシイ一角を作り、租界の境界線を越えて実質的な支配地域の拡大を図っていました。

予備租界

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租界の範囲はたびたび拡張され、特に天津や漢口(現在の武漢)では列強の間で「拡張レース」の様相を呈していたが、「今は拡張しないけど、そのうち租界が狭くなったらここまで拡げる」と、あらかじめ中国側と条約を結んでおいた土地が予備租界。日本が天津と漢口の租界の隣接地に、ベルギーも天津の租界の隣接地に、予備租界を設定した。

予備租界は「まだ租界ではない」から、行政権などは中国側にあり、第三国への貸与を禁じるという内容で、ようは「他の国の租界にされちゃ困るから、先にキープしておく」というもの。漢口の日本租界の予備租界は1898年に設定され、1907年に租界拡大で編入されたが、天津のベルギー租界は1902年に予備租界を設定したものの、ベルギー租界自体が町外れで発展しなかったため、最後まで租界には編入されなかった。

天津の日本租界の場合は少し複雑で、1898年の租界開設時に隣接して予備租界を確保したが、1900年の義和団の乱で日本軍が予備租界やさらに周囲の土地を占領。1903年にもとからの予備租界を日本租界に編入して、その他の占領地(南市と呼ばれた一帯)を予備租界とすることで中国側へ返還したが、その際に(1)第三国へ貸与しないこと、(2)住民が予備租界内の土地を売買する時には「将来、日本租界に編入されても決して異議はありません」と土地権利書に明記させること、(3)予備租界内で中国側が道路や水道などのインフラ整備を行う時は、予め日本側へ通告すること。第三国人がインフラ整備をする時は日本側の許可を得ること、(4)日本軍が占領中に作った道路は、いつでも使えるように中国側が責任を持って整備しておくこと・・・などの細々とした条件を付けていた。1930年代になると天津の日本租界は土地不足になったが、その頃には中国人のナショナリズムが高揚し、各地で租界回収が続いている時代となり、さすがに予備租界を編入することは不可能だった。

こうして南市の予備租界は日本租界に編入されなかったのだが、日本側が行政運営に細々と条件をつけたうえ、隣接する海光寺には日本軍駐屯地(「租界外占領地」の項を参照)があったため、中国側の権力も及びにくく、三不管と呼ばれる暗黒街になってしまった(※)。屋台市や安宿、芝居小屋などのほか妓院(風俗店)だけでも300~400軒が並び、アヘン窟も多く、ヤクザの拠点になっていたらしい。ちなみに三不管とは中国語で「どこの政府の権力も及ばない無法地帯」の代名詞となり、戦後は香港の九龍城砦 も「三不管」と呼ばれるようになった。

※「三不管」の語源はいくつかあって、「殺されても、殴られても、騙されても(警察に)取り合ってもらえないから三不管」という説、「民不管、官不管、洋不管、つまり民間でも役所でも外国人でも管理できないから三不管」説、「中国政府と日本租界、フランス租界の管轄が及ばないから三不管」説・・・などがある。ちなみに『網走番外地』という往年の日本映画も、中国でのタイトルは『網走三不管地帯』だが、ちょっと意味が違うのでは?
天津市内地図(1919年) 
天津日本租界の周辺地図(1931年) 予備租界は「三不管 Sun Pu Kwan」と表記されています。地図に堂々と「無法地帯」とはね・・・

  
天津の日本租界(左)と、「三不管」と呼ばれていた頃の予備租界(右)




延長道路地区

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租界を統治していたいわば市役所のような行政機関は工部局こちらで「租界開設当初はもっぱら道路建設ばかり行っていたので、中国語でこういう名称がついた・・・」と書きましたが、工部局がせっせと道路工事に励んでいたのは、租界を住み良くするためだけではなかった。道路建設と租界のさらなる拡大は表裏一体の関係にあったのだ。

上海共同租界の設置を定めた「土地章程」には、第6条で「公共目的および租界内居住者すべての健康、娯楽、運動のため」に、工部局は租界隣接地や租界外に道路や公園、運動場、娯楽施設を作ることが認められていた。

租界は当初、数百メートル四方と狭く、公園などを作るなら租界の外に作るしかないということだったのだが、工部局が租界外に公園を作ればそこまでの道路や水道も作る、道路を作れば「交通整理のため」を口実に租界の警官を派遣する、租界の警官が派遣されれば「安心して住める」と狭い租界から外国人が移り住む、外国人が移り住めば「治安維持のため」と称して警察署を建て租界の司法権が及ぶようになる、やがて消防署や公立学校やさまざまな施設も建てられ、それらの経費負担ということで工部局は一帯の住民から徴税を行って行政権を及ぼす・・・という経緯で、工部局が道路を建設した一帯は、租界の境界を越えて工部局が不法占領し、実効支配を及ぼすようになり、これらの地域が延長道路地区(または越界地区、越界路地域、越界築路区)

延長道路地区はやがて実効支配を盾に租界へ編入され、工部局は再びその外で新しい道路工事を始めるというパターンの繰り返しで、上海のフランス租界でも同様の手順で租界の拡大を続けた。

1920年代になると中国でナショナリズムが高揚し、さすがにこんな手段で租界を拡大するのは不可能になった。上海の共同租界やフランス租界では1925年以降、租界外での新たな道路建設を断念したが、その時点ですでに広大な延長道路地区を擁していて、共同租界では租界西端から虹橋空港まで約10kmに及ぶ滬西や、租界東北側にある閘北の北四川路一帯(隣接する租界内の虹口とともに日本人街を形成し、日本人の間では勝手に「日本租界」と命名)を不法占領し、実効支配していた。

中国側は27年に上海特別市を成立して行政機構を整備すると、延長道路地区の回復に本格的に取り組む。中国側警官を派遣して工部局警察と対峙したり、住民に中国側への納税や営業許可申請を呼びかけ、中国側に言わせれば「不法占領はやめろ」、租界側に言わせれば「実効支配を続けた既得権の侵害だ」と国際問題化した。中国人住民の中にも工部局への納税を拒否する者が相次いだが、工部局は法的手段を採ろうにも法的なことを言えばそもそも租界をはみ出した延長道路地区こそが違法なわけで、「工部局へ税金を払わないなら、工部局が作ったインフラを使うな!」と、道路への入り口を封鎖したり、下水道管を切断するなどの実力行使を行うしかなかった。

そして32年、共同租界と上海特別市は「延長道路地区の警察署は、副署長を外国人とすること」を条件に、延長道路地区の行政を中国側へ返還することを決めた。しかしこれに猛反対したのが日本。なにしろ上海在住日本人の約半数は北四川路一帯の延長道路地区に住み、日本海軍の上海陸戦隊(上海に駐屯していた日本軍)の本部もここにあったので、警察権が中国側に渡ることは都合が悪かった。34年には「延長道路地区の警察署は特別警察とし、総監は中国人、副総監は英国人、総監補は日本人と中国人として、外国人に関する事件は副総監が最高権限を有し、日本人に関する事件は総監補と協議しなくてはならない」という修正案が出たが、それでも日本は延長道路地区の返還に反対し続けた。

やがてこの問題をひっくり返したのも日本軍だった。1937年に蘆溝橋事件が勃発すると、日本軍は上海にも上陸して租界以外の地域を占領。親日の傀儡政権を樹立して上海特別市政府を支配下に置いた。そうなると、今までは共同租界の一員として「列強の有する権益を顧みず、独断的に主権論を強調する」と中国を非難していた日本は、一転して「租界の旧態を支持する英米」を批判し始めた。閘北の延長道路地区は虹口もろとも日本軍が占領を続けて工部局の支配から切り離され、滬西にも40年に上海特別市の警察署が設置されて、共同租界(工部局)の警察と衝突した。日本は共同租界を「抗日運動の拠点」と見なすようになり、できるだけ親日政権に支配させて工部局の支配地域を縮小させようとしたわけで、それまで返還に反対していたのに、かなり勝手なもんですね。

上海市内地図(1933年)  細かくて見にくいですが、点線が租界の境界線。北側の「日本女学校」や西側の「東亜同文書院」辺りは、点線の外で延長道路地区
上海市内地図(1940年)  延長道路地区に「上海神社」ができました
最新上海市街地図(1940年)  PDFファイル 
上海共同租界工部局年報 1939年の概観 工部局の年次報告書の日本語訳版。滬西の延長道路地区をめぐる上海特別市との対立について


閘北の延長道路地区の日本人街にあった新公園。門番はインド人。租界の公園といえば入口に「犬と中国人は入るべからず」という看板があった・・・という「伝説」がありますが、実際に公園の入口に掲げてあった看板は・・・(クリックすると拡大します)。結局こういう表現を採っていましたが、当時の中国人の一般民衆は、大部分が公園に入れなかったということ。




租界外占領地
城壁外の川沿いの一角が九江イギリス租界。
道路を作って既成事実を積み重ねて租界を広げるなんて面倒くさい、とっとと実力で占領してしまえばカンタンだ!ということで、租界の範囲を設定した条約を無視して列強諸国が勝手に租界の周りを実効支配してしまうケースもあった。

例えば九江のイギリス租界では、1891年から92年にかけてイギリスは租界前の川(長江)を勝手に埋め立てて、公園や運動場、学校などを建設。鎮江のイギリス租界でも、租界前の道路と河原を占拠して、約400坪の公園を作った。

もっと派手にやったのがフランスだ。1902年に漢口のフランス租界を拡張した後に、さらに200m先にある駅(大智門車站)までの間の土地を、カトリック教会や工部局の中国人職員を使って買い占め、それらの土地で徴税を行い、1920年頃までに駅前繁華街を実効支配するようになった。 天津のフランス租界では、1913年に西南部の老西開地区でカトリック教会の建設が始まった際、「建設作業を保護する」という名目でフランス租界の警察官を老西開地区へ派遣、さらに老西開の住民にフランス工部局へ納税するよう呼びかけた。これに対して天津の中国人は猛反発し、フランス商品の不買運動や仏系企業でのストライキが広がったため、フランス側はそれ以上の支配を断念して、老西開地区は中国側とフランスの共同統治のような状況が続いた。しかし1931年になってフランスは再び老西開地区を占領し、フランス租界の実効支配下に置いた。

天津では日本租界も周りを勝手に支配した。義和団の乱の後、日本は天津に軍隊の駐屯権を獲得し、日本租界の西南部にある海光寺を駐屯地にしたが、海光寺と日本租界の間は幅100mほどの沼で隔てられていた(このページの一番上の『天津日本租界之図』参照)。1935年に日本はこの沼を埋め立て占領し、住宅や軍の営舎を建てて日本租界の実効支配下に置いてしまう。もっとも2年後には蘆溝橋事件を契機に日本軍は天津を占領し、さらに中国各地をどんどん占領していったわけで、100mの沼を占領したどころの話じゃなくなります。

  
 九江イギリス租界の川沿いの公園(右)と、漢口の大智門駅と繁華街(左)。いずれも1920年代




競馬場 
漢口=現在の武漢の地図(1919年)。クリックすると拡大します
イギリス人は競馬が大好き。日本で競馬というと、赤鉛筆を耳たぶに挿したオヤジが競馬新聞片手にわんさと群がっているようなイメージがありますが、大英帝国においては競馬場は紳士・淑女の社交場。海外の植民地ともなれば、スタンドにひしめき殺気立つ現地住民を見下ろしながら、イギリス人たちは「ロイヤル・ジョッキークラブ」や「レース・クラブ」の貴賓席でグラス片手に御競馬を鑑賞するわけで、コロニーの支配者にはタマラナイ娯楽なのでしょう。

そこでイギリス人たちが、植民地同様に租界でも競馬を楽しみたいと言い出すのは当然のこと。かくして戦前の中国では、イギリスが上海と天津、漢口に競馬場を作ったが、狭い租界では無理なので、いずれも租界外に建設された。ただしこれらの競馬場はいずれも中国側の行政権力は及ばず、あたかも「租界の飛び地」のように扱われた。

例えば漢口競馬場(右の地図の「外国競馬場」)は漢口のイギリス租界当局が1901年に建設。競馬場の土地をイギリス植民地だった香港政庁に登記して、租界外でありながら治外法権を享受できるようにした。競馬場は漢口西商賽馬体育会(Hankow Race Club & Recreation Ground)という会員制クラブが運営したが、会員はイギリス人のほかフランス人やドイツ人、その後アメリカ人や日本人も増えて、漢口にあった各租界の社交場のような存在だった。毎年春と秋に開催されるレースでは観客の大部分は中国人だったが、外国人会員は貴賓席で優雅に御競馬を楽しめる仕組み。

漢口のイギリス租界は1927年に中国へ返還されたが、競馬場は引き続きイギリスが所有した。しかし中国政府へ売り上げの5%を競馬税として支払ったり、レース開催では秩序維持に中国側の警官が派遣されて、中国側の行政が及ぶようになった。1938年に日本軍が武漢を占領した後も競馬はそのまま続いたが、41年に太平洋戦争が勃発すると、競馬場は「敵国資産」として日本軍が接収。日本軍の下で2回レースが行われたが、「この非常時に競馬どころじゃない」と半年後には日本軍の高射砲陣地なり、終戦後は捕虜(=日本兵)収容所となったとか。

漢口の怪しい「外国競馬場」

天津競馬場は1886年に清朝の天津税関の「お雇い外国人」だったドイツ系イギリス人が、李鴻章に頼み込んで養生園という庭園を譲り受け、建設されたもの。当初は英商賽馬会が運営していたが、イギリス人以外の外国人も会員に呼び込むために1887年に「英商」を「西商」と変えた。しかし実際にはイギリスが支配していて、イギリス総領事が名誉理事長を勤めることになっていた。

競馬場の場所は当初イギリス租界から数km離れていたため、イギリスは租界と競馬場との間に馬場道という道路を作り、その周囲を「延長道路地区」として実効支配し1903年に租界を拡大。それでもまだ租界と競馬場は数百メートル隔てられていたが、ここも「延長道路地区」としてイギリス租界同様に支配をした。

競馬場への入場は外国人に限定されていたが、1920年に中国人が華商賽馬会を作り別の競馬場をオープンさせると、馬券の売り上げを伸ばすために対抗して中国人の入場も認めるようになった。27年に中国各地で反英運動が起きて漢口や九江、鎮江のイギリス租界が接収されると、天津のイギリス租界は接収を恐れて西商賽馬会の理事に中国人も任命した。するとそれまで「中国人の競馬場」をウリにしていた華商賽馬会は、日本人と共同経営の万国賽馬会に改称した・・・なんて感じで西洋VS東洋の「競馬場戦争」が繰り広げられていたが、本物の戦争が始まって37年に日本軍が天津を占領すると、万国賽馬会は閉鎖。太平洋戦争が勃発するとイギリス租界も日本軍に占領されて、西商賽馬会も解散。競馬場では新たに設立された華北競馬会天津支部なる「日本の傀儡競馬会」がレースを続けたそうな。。。

天津市内地図(1940年)  イギリス租界の南に怪しい「英国競馬場」が・・・

そして中国で最初にオープンしたのが上海競馬場だ。上海では1943年にイギリス租界が設置されたが、50年に5人のイギリス商人が●馬総会(Shanghai Race Club)を作ってレースを始めた。その後競馬場は手狭になったため移転し、1861年に「東洋一」と言われた上海●馬庁(上海競馬場)が完成した。上海の競馬場も当初は租界の外にあったが、1899年に租界が拡大されて共同租界の中に組み込まれた。

●馬総会は競馬場の運営のほか、香檳票と呼ばれた宝くじも発売した。香檳票は5ケタの数字を選んで当てるのだが、もう1つ番号を選んでその番号の馬がレースで優勝しないと1等賞が当たらない仕組み。香檳票は当時、上海市民の間で大人気を呼んだが、現在の上海市政府によれば「99・99%以上の人は負けるだけで儲からず、多くの人が競馬場の罠にはまり、行き場を無くした」「競馬場は中国人の血を吸い尽くし、植民地主義者の懐を満すものだった」だそうで。。。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、上海競馬場は共同租界とともに日本軍に占領された。戦争が終わると租界はすでに消滅していたものの、イギリス人を中心とした理事会が戻ってレースを再開しようとした。しかし国民党政府が競馬場の引渡しを要求すると、●馬総会は観客席、コース、厩舎、付属のスポーツジムを4つの会社に分割したうえに、それぞれイギリス領の香港で会社登記をして権利関係を複雑にして抵抗した。結局、ゴタゴタしている間に人民解放軍が上海を占領。上海競馬場は1951年に接収されて、「人民公園」と「人民広場」に生まれ変わったのでした。

※●=足ヘンに包
上海市内地図(1933年)  租界が拡張されて「競馬場」は租界のど真ん中になりました

1930年代の上海競馬場

このほか福州には条約に基づかない共同租界もどきが存在していて、地元将軍との交渉でアヤシイ競馬場を建設したようだ(当時の福州の地図 の一番南側)。

これらの競馬場、戦後ギャンブルご法度の共産党政権ができてから全て閉鎖されたわけですが、ここ は現在でも相変わらず健在で、コロニアルな御競馬が楽しめます。
 

アメリカの偵察衛星(?)から見た漢口(左)、天津(中)、福州(右)の怪しい競馬場跡地
  
 
第20話 大馬主サッスーン卿の上海  上海租界の競馬について
根岸競馬場は大人の社交場だった  幕末から明治初めにかけては日本にも「怪しい競馬場」があったようで・・・
摂州神戸山手取開図  神戸の共同租界・・・いや外国人居留地の地図には、飛び地のような「怪しい競馬場」が
47年収費歴史画上句号  漢口の怪しい競馬場は、共産党政権の下で人民のための「解放公園」として生まれ変わったそうです(中国語)
人民広場  上海の競馬場跡地の今




ゴルフ場 

大正時代の漢口の地図(右)を見ると、競馬場の近くに「ゴルフ倶楽部」が・・・。、武漢市の公式サイトに出ている地図 を見ても、このゴルフ場は租界同様に色分けされています。ということは、これもおそらく競馬場のように、中国側の行政権力が及ばない怪しいゴルフ場だったと思われますが、詳細は調査中です。

・・・と書いてから1年半にわたって調査(?)を続けた結果、『列強在中国的租界』という本にこのゴルフ場のことが載っていたのを発見!

このゴルフ場は競馬場と同じく漢口西商賽馬体育会(Hankow Race Club & Recreation Ground)という会員制クラブが運営していたもので、やっぱり怪しいゴルフ場だった。18ホールがあったそうな。

またこの本によると、1933年の満州事変で日本軍に満州を追われた張学良将軍は、蒋介石から共産ゲリラ掃討副総司令官に任命されて漢口に滞在していた頃、しばしばこのゴルフ場を訪れていたが、ある日プレイ中に日本人(領事館員と三菱商事支配人)とばったり出くわし、日本人は張学良に握手を求めたが、将軍はそれを拒否して横目で睨みながら軽く会釈を返しただけだったとか。この現場を目撃したイギリス総領事やヨーロッパ人たちは、「さすが民族の気概がある」と張学良に敬服したそうな。。。。と、まぁ1年半かけてわかったのはこれだけでした。




避暑地

漢口のロシア租界は、300kmも離れた江西省の廬山に飛び地のような避暑地を持っていた。この避暑地はもともとロシア正教会が管理し、中国政府の権限が及ばないアヤシイ避暑地 となっていたが、ロシア革命の影響でロシア正教会は財政が苦しくなり、1919年に管理権と徴税権をロシア租界の工部局へ銀1万5000両で99年間貸与したもの。しかし翌年、中国政府が帝政ロシアの大使館・領事館の承認を取り消して、ロシア租界の工部局は中国政府の管理下に入り、ソ連政府の「租界返還宣言」を受けて、24年には中国政府がロシア租界を接収。肝心な避暑地の方も、ロシア人実業家の破産が相次いだため124区画のうち入居者は39区画しかいなくなり、25年までに17万1000両の赤字を出して、中国政府に接収された。




墓地

日本人はお墓が大好き・・・というわけじゃないけれど、蘇州や重慶などの日本租界では、租界設定の条約の中に、住民の妨げにならない租界外の静かな場所に日本人墓地を設置する権利が明記された。面積は10ムー(2000坪)で、将来不足した場合は拡張も可能とされたが、現実はほとんど利用されなかったようだ。例えば杭州の日本租界の場合、1920年時点の在留邦人はわずか18人(中国人は80人)で、当時の外務省のレポートには「火葬場及び墓地は目下、日本人会において設定の計画あるも、いまだその運びに至らず」とある。

居住者が多かった漢口の日本租界では、1kmほど離れた場所に日本人墓地が設定された。天津の日本租界では租界内に東本願寺とその墓地があったので、租界外に墓地を設定することはなかった。
 

参考資料:
鉄道院 『朝鮮満州支那案内』 (丁末出版社 1919)
『在上海帝国領事館管内状況』 (外務省通商局 1921)
『蘇杭事情』  (外務省通商局 1921)
西山栄久:編 『最新支那地図』 大阪屋号書店 1927)
『天津居留民団三十周年記念誌』 (天津居留民団 1941)
植田捷雄 『支那に於ける租界の研究』 (巌松堂書店 1941)
上原蕃『上海共同租界誌』 (丸善 1942)
『三省堂世界地図』 (三省堂 1942)
費成康『中国租界史』 (上海社会科学学院出版社 1991)
『列強在中国的租界』 (中国文史出版社 1992)
天津地域史研究会『天津史』 (東方書店 1999)
中国武漢建設網 http://www.cnwhjs.com/
天津市河西区人民代表大会常務委員会 http://www.hxrd.gov.cn/
上海市地方誌弁公室 http://www.shtong.gov.cn/
人民網 http://unn.people.com.cn/
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