租界もどきの怪しい特殊地域
●主な満鉄附属地の国籍別人口 (1937年11月現在)
鉄道付属地 新市街 公使館区域 避暑地 貿易圏 非公認共同租界 戦前の中国には、租界のほかにも欧米列強や日本が支配権をもつ租界と似たようなアヤシイ特殊な地域がいろいろ存在していました。
鉄道附属地戦前の中国では、主な鉄道は外国資本が経営していた(現在でもこの会社だけが残ってます)。列強各国が争って清朝から鉄道敷設権を獲得したわけで、鉄道会社には単なる鉄道経営以外にもさまざまな特権が与えられていたが、その中でもロシアが満州(中国東北部)で建設した東清鉄道は、鉄道附属地(Railway zone)という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域の設定が認められていました。
★東清鉄道付属地
東清鉄道はバイカル湖から中国領内の満州里、ハルピン、牡丹江などを通ってウスリー川へ至る路線。1896年にモスクワで結ばれた露清同盟密約で建設が決まったもので、現在のシベリア鉄道はロシア領内だけを通っているが、当時はこの東清鉄道がシベリア鉄道の一部だった(ロシア領内だけを通るシベリア鉄道が開通したのは1916年)。つまりロシアにとってはモスクワと沿海州を結ぶ大動脈であり、自国内を走るのと同じような条件で鉄道を建設しようとしたわけ。東清鉄道は1903年に全通したが、1898年にはロシアが関東州を租借したため、ハルビンから分岐して長春、奉天を経由し大連へ向かう南部線も建設された。
鉄道附属地で認められる「絶対的かつ排他的な行政権」とは、本来は鉄道の建設や運行に必要な敷地の土地管理権のこと。しかしロシアはこれを徹底的に拡大解釈して、鉄道警備のための軍隊の駐留権や警察権、司法権、徴税権、郵便局や電話局の運営などの通信権、インフラ整備や衛生、教育、事業認可などの行政権・・・・などなど、鉄道附属地をほとんど租界と変わらないようにした。司法権も、当初は「ロシア人による犯罪はロシア側が裁き、中国人による犯罪は中国側で裁く」という不平等条約に基づいた治外法権と同じだったが、ロシアは吉林省の将軍と交渉して、鉄道附属地に住む中国人もロシア側が裁けるように権限を拡大したので、租界以上に中国政府の権限が及ばないようになった。
その鉄道附属地だが、どうせ駅構内や線路など鉄道用地のことを指すのだろうと思うと大間違い。密約には「鉄道の建設経営および保護のために必要なる土地」とあったが、ロシアはこれも拡大解釈して、機関車が使う石炭を掘るための炭坑や、枕木を作るための森林、砂利を掘るための河原・・・と、あちこちの土地を附属地にしてしまい、さらに「鉄道の利用促進のため」ということで、主な駅の周りには広大な商業用地や工業用地も確保。沿線最大の中心都市だったハルピンでは、市街地全体が鉄道附属地といっても良いほどだった。
ハルビンの地図(1919年) 「租借地境界線」と書いてあるのが、実は鉄道附属地の境界線で、旧市街の傅家甸を除いて全て付属地。当時はすでに東支鉄道です
各附属地の行政は東清鉄道民政部が担当していたが、1908年から主要都市で東清鉄道の監督の下での自治制が敷かれることになり、ハルピンや満州里、ハイラル、昴々渓、横道河子、博克図、綏芬河では、国籍に関係なく年間10ルーブル以上の納税者が選挙で選出する市議会と市役所が設置された。
★中東鉄道(東支鉄道)付属地
ハルビンの鉄道付属地
1912年に清朝が滅亡して中華民国が成立すると、東清鉄道は東支鉄道または中東鉄道と呼ばれるようになったが(英文名はいずれもChinese Eastern Railwaysで同じ)、17年のロシア革命でボルシェビキ(後のロシア共産党)が政権を握ると大打撃を蒙った。中東鉄道のロシア人労働者や駐屯部隊の兵士たちは労兵ソビエト(評議会)を組織して赤軍(革命軍)を支持し、白軍(旧帝政軍)支持の白系ロシア人の経営陣と対立。中東鉄道ではストライキが頻発し、ストに怒ったチェコ軍団(※)がハルビンで布告を出して、鉄道や附属地を武力支配しようとするなど混乱が続き、列強各国のシベリア出兵により、シベリア鉄道は日本軍が、中東鉄道はアメリカ軍が一時管理した。※チェコ軍団=チェコは当時オーストリア帝国の領土で、チェコ人はオーストリア軍として第一次世界大戦に参加したが、オーストリアの敗戦によるチェコスロバキアの独立を夢見て、5万人のチェコ兵が同じスラブ系民族のロシア軍に投降。連合軍に加わって東部戦線で戦っていた。しかしロシア革命の勃発でロシアがドイツと停戦したため、チェコ軍団はシベリア鉄道で沿海州へ向かい、日本、アメリカを経由し地球をほぼ一周してフランスの西部戦線に加わることに決定。ところがシベリア鉄道の運行が混乱してなかなか先へ進めなかったため、怒ったチェコ軍団は沿線各地で反乱を起こしながらウラジオストク(浦塩)へ集結。反革命政権の主力になった。日本や米英仏などがシベリアへ出兵したのは、当初は「チェコ軍団の救援」が大義名分。革命政権によってサンクトペテルブルグの本社が閉鎖された中東鉄道は、本社を北京に移して経営陣はシベリア各地に成立した白軍政権側が握っていたが、1919年にオムスク(東ウラル)の全ロシア臨時政府が崩壊すると後盾を失った。一方で民族自決、不平等条約撤廃の世論に押された中国側は、これを契機に中東鉄道附属地の回収に乗り出した。モスクワで新たに成立したソ連政府が「帝政ロシアが中国で獲得した租界や権益、治外法権などの特権を放棄する」と発表したため、これに力を得た中国は、1920年9月に帝政ロシア大使館の承認を取り消し、天津と漢口のロシア租界を接収。翌月には中東鉄道の監督権を取得した。オムスク政権の総動員令で中東鉄道沿線の白軍がシベリアへ狩り出され、治安が悪化したことを理由に中国側は1920年3月に駐屯権と警察権を回収し、10月には司法権を回収。次いで21年には中東鉄道が運営していた郵便局を、22年には電信局を接収した。また21年、中国側は中東鉄道の附属地を東省特別区に指定して行政長官を任命し、自治体のない附属地での行政権を接収した。
1924年に中国政府はソ連を承認したが、直奉戦争に勝って中国政府を支配した満州の軍閥・張作霖は、ソ連による後盾を強化しようと奉ソ協定を結んで中東鉄道を中ソ合弁とし、白系ロシア人の経営陣はソ連から派遣された幹部に入れ替わった。中東鉄道の経営範囲は商業活動に限定され、これにより、鉄道用地以外の土地は中国側へ返還されて、中東鉄道附属地は消滅。この後もハルビンなどでは東清鉄道以来の自治制が続いていたが、26年にはロシア人議員が過半数を占めていたハルピン市議会で「議会での公用語をロシア語から中国語へ変更する議案」が否決されると、市議会と市役所を解散させ、中国人主体の市自治会(議会)と市政局を設置した(※)。
※解散前の市会議員 ロシア人34人 中国人18人 日本人5人 英米仏各1人その後、1929年には張学良軍(前年に「満州某重大事件」で爆死した張作霖の息子)が中東鉄道の全面接収を狙ってソ連軍と衝突する事件が起きたが、結局ソ連は内政を優先させるために中東鉄道を売却を決定。当初は中国政府へ売却を打診していたが、32年に満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の北満鉄道とも呼ばれるようになり、35年にソ連は1億4000万円で満州国(実際には日本)へ売却。満州国鉄となって、その管理・運行は満鉄へ委託された。
解散後の市自治会議員 中国人40人 ロシア人2人 その他の外国人6人(民族別の議席数をあらかじめ規定)東支鉄道(旧東清鉄道)路線図(1933年)
満州国建国当初の地図(1933年) 「東支鉄道」が縦貫しています
東清鉄道付属地で使われていた紙幣(1917年) 華俄道勝銀行(ルソ・アジア銀行=露清銀行)が発行。いかにもって感じのデザイン●関連リンク
ハルピンの白系ロシア人 函館日ロ交流史研究会の会報より
ハルビンのロシア人教育~高等教育を中心に~ 中東鉄道が1920年代に建てた大学などについて(PDFファイル)
シベリア出兵 第一次世界大戦について詳しいサイトです★安奉線付属地
安奉線とは、朝鮮との国境の安東(現在の丹東)と満洲の鉄道の要衝・奉天との間の路線で、日本・朝鮮と満洲・中国を結んだ陸の大動脈。日露戦争中に日本陸軍が軍用軽便鉄道として建設し、1907年に満鉄へ譲渡されて本線並みに改軌された。
この安奉線も沿線に約500万平方mの附属地を擁していた。もっともこれは清朝との条約に基づいた附属地ではなく、日露戦争中に日本軍の「実力」で買収・接収したもの。日本はこのうち半分弱を「やっぱり不要」だとして清朝に買い取りを打診したが、清朝は「附属地すべて返さない限り応じられない」としたため、そのまま既成事実として満鉄に引き渡された。
★満鉄付属地
さて、日露戦争で日本がロシアを破ったため、日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄道南部線の長春~大連間とその支線を譲り受け、1906年に国策会社の南満州鉄道(満鉄)を設立して経営を引き継いだが、沿線の鉄道附属地もそっくり引き継ぎ、「満鉄附属地」と呼ばれるようになった。満鉄になってから附属地はさらに拡大された。なにしろ鉄道附属地は租界と違って「ここからここまでを附属地とする」という定めはなく、中国側との協議なしに設定することができたのだ。満鉄が中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。逆に満鉄が「この土地はもういらない」と中国人に売却したり賃借停止した土地は、附属地から外れて中国側の行政に戻ることになった。このため、各駅の附属地面積は増減を繰り返していた。
炭坑の町・撫順の附属地は60平方kmに達したというから日本なら1つの市がすっぽり入ってしまうほどの広さ。沿線の主要都市では鉄道開通前からあった城内(旧市街)を除けば、市街地の大半が満鉄附属地となったが、その大部分は鉄道とは関係ない土地で、奉天(現在の瀋陽)の満鉄附属地は面積11・6平方kmのうち、実際の鉄道用地は7%にすぎなかった。このように満州では都市住民の多くが中国側の管轄が及ばない附属地の住民となり、とりわけ日本人やロシア人など外国人のほとんどは附属地で暮らしていた。
満州南部の地図(1933年) 「南満州鉄道」と「安奉線」があります
満鉄路線図と主な附属地があった駅 赤線が満鉄の路線
奉天の地図(1933年) 撫順の地図(1933年) 遼陽の地図(1919年) 「新市街」と書かれた場所が満鉄付属地満鉄附属地では軍隊は関東軍が、警察は大連にあった関東州庁が、司法は各都市の日本領事館が担当し(※)、満鉄は土木、衛生、教育などの行政を担当した。満鉄は公園、図書館、病院を運営し、小中学校はもちろん大学(満州医科大学)まで経営した。これらの経費は満鉄附属地の住民から税金を徴収して充てたのだが、そのかわり住民は中国側へ国税や地方税を納税しなくて良かったので、かえって税金は安かった。行政運営は満鉄の地方部が行ったが、小さな附属地では駅長が担当し、つまり駅長さんが「市長」を兼ねていたようなもの。附属地ごとに議会に代わる諮問機関として地方委員会が設置され、当初は満鉄がメンバーを任命していたが、後に一定額以上の税金を収めた附属地住民による選挙が実施されるようになった。
※鉄道附属地の内外に関わらず、日本人に対する司法権は中国との不平等条約によって日本側にあったが、附属地内に住む中国人への司法権は、本来なら中国側にあった。しかし東清鉄道と同様に日本は「実力」で司法権を及ぼしていた。附属地内に住む中国人が附属地の外で犯罪を犯した場合や、附属地外の中国人容疑者が附属地へ逃げ込んだ場合は、中国側警察の求めに応じて日本側の警察が容疑者を中国側へ引き渡すこともあったが、この辺の取り扱いはかなり曖昧。1926年に奉天の附属地に住んでいた張作霖の第五夫人(中国人)が家賃を滞納したことで、日本人大家に家財道具を差し押さえられたことを不服として奉天の日本国領事裁判所で起こした訴訟では、「奉天の如き鉄道都市は法の空虚地帯なり」と、ギブアップ宣言とも言える判決が出た。ところが1932年に満州国が成立すると、絶大な治外法権を持つ満鉄付属地は日本の「友邦」たる満州国の首を絞めかねない存在になった。なにしろ満州国は首都・新京をはじめ主要都市の中心部はことごとく満州国の法律が及ばず、そこに住む住民や企業も満州国に税金を払わずに満鉄に納税していた。このため満鉄が年間3億円の売上げを稼ぎ、列車の運航経費や付属地でのインフラ整備などの費用を差し引いても5000万円近い利益を上げて、その大部分を日本の株主へ配当金として支払う一方で、主要都市で税金を集められない満州国の税収は年間4000万円足らずに過ぎず、アヘンの専売などの収入を加えても国家歳入は1~2億円程度だったのだ。結局、日本政府にとっても満鉄付属地は非常に厄介な地域になり、こちらで書きましたが、1937年に満州国へ返還されることになります。
内地人 朝鮮人 満州国人 外国人 人口総数 瓦房店 2551 47 4637 0 7234松樹 95 0 1778 0 1873熊岳城 686 0 2376 0 3061蓋平 265 10 1475 0 1750大石橋 3411 186 3644 0 7241海城 1024 41 1367 0 2432営口 4769 554 2015 4 7342鞍山 21316 622 20701 38 42677遼陽 4403 224 5331 12 9970蘇家屯 4699 28 1686 0 5413奉天 70073 1727 21217 513 93530鉄嶺 2928 131 1636 0 4695開原 2244 1793 16196 0 20233昌図 318 78 2397 0 2793双廟子 151 10 2961 0 3122四平街 6917 806 13324 17 21064郭家店 178 21 3647 0 3846公主嶺 4878 637 8259 0 13774范家屯 494 7 3523 0 4024新京 34115 3180 27448 280 65023本渓湖 1797 154 1919 0 3848橋頭 965 0 31 0 996連山関 340 0 198 0 538鶏冠山 676 42 1032 0 1750安東 16271 14674 46306 13 77264撫順 25028 4519 81588 34 111169※公費賦課区(満鉄が住民から税金を徴収していた附属地)のみ掲載。他に中間区(満鉄が税金徴収を免除していた附属地)が13ヵ所(?)存在した
※内地人=日本本土出身の日本人、つまり現在の「日本人」。 満州国人=漢民族、満族、蒙古族など、現在の「中国人」
出典:南満洲鉄道総裁室地方部残務整理委員会『満鉄附属地経営沿革全史』 (龍渓書舎 1977年4月)奉天の鉄道付属地●満鉄が新京(長春)の附属地で徴収していた各種税金所得税(年額)
所得税 (所得に応じて5円~2146円)
道路使用税 (住民から一律徴収)各種営業税(月額)
芸妓税(芸者から徴収) 3円 舞妓税(舞妓から徴収) 1円
酌婦税(風俗嬢から徴収) 1円50銭+売上げの3%
俳優税(芸能人から徴収) 1?2円+売上げの3%
演劇興行税 売上げの3% 寄席興行税 売上げの5%
行商税(行商人から徴収) 1円+売上げの1%
貸家税 家賃の2% 先物取引税 取引額の2%
自家用車登録税 15円 営業車登録税 3円
バストラック登録税 4円 自家用馬車登録税 6円
荷馬車登録税 1円 大八車登録税 90銭
オートバイ登録税 1円80銭 自転車登録税 90銭
自家用人力車登録税 3円 営業用人力車登録税 70銭
屠殺税出典:渡部奉綱 編 『長春事情』 (南満洲鉄道長春地方事務所 1932年7月)
★2つの鉄道付属地があった町:長春鉄道院の『朝鮮満州支那案内』で、「長春駅日露連絡列車」と説明がある写真。このページの一番上の地図を見るとわかるように、長春には満鉄と東清鉄道(後に東支鉄道)の2つの鉄道付属地があった。満鉄の付属地は長春駅前で、東清鉄道の付属地は北側の寛城子駅前だ。
でも当時の長春駅の地図を見ると、かなりアヤシイと思います。さて、どうして?日露戦争の前は、奉天からハルビンへ向かう鉄道は一直線に敷かれていて、寛城子駅が長春の最寄駅だったのだが、日露戦争後にロシアは寛城子駅から南の鉄道を日本へ譲ることになり、満鉄が経営することになった。しかし東清鉄道のレールの幅はロシア式の広軌(1520mm)だったのに対して、満鉄は獲得した路線のレールの幅を、中国本土や朝鮮と同じ標準軌(1435mm)に直したので、列車の直通運転はできなくなり、乗り換えが必要になった。
そこで満鉄は1907年に寛城子駅と市街地(城内)との間に新しく長春駅を建設し、ここを2つの鉄道の乗換駅にした。長春~寛城子の間は満鉄と東清鉄道のレールが並んで敷かれ、東清鉄道も長春駅まで乗り入れを開始。一方で、貨物は寛城子駅で積み替えを行った。同時に満鉄は長春駅の南側の土地を買収して新たに日本側の鉄道付属地を作った。長春駅は1912年に吉長鉄道(吉林~長春)も乗り入れてターミナル駅として発展したが、寛城子駅の方は市街地との間を長春駅で分断されてしまい、ロシア側の付属地にはロシア兵と鉄道職員が住むだけで寂れてしまった。
やがて35年にソ連が北満鉄道(東清鉄道→東支鉄道の後身)を満州国へ売却すると、満鉄は長春改め新京以北のレール幅も1435mmへ改軌して、大連・奉天からハルビンへの直通運転をスタート。新京駅でいちいち方向転換していては面倒なので、新京駅の東側から北へ向かう新線を建設して、S字形で直行できるようにした。一方の寛城子駅はロシア人がいなくなり、新京から内モンゴル方面へ向かう京白線のローカル駅に転落して、ますます落ちぶれてしまったのでした。
長春の地図(1919年) 2つの付属地(点線で囲まれた部分)があります。長春駅の北側に「長春日露連絡停車場」も
新京の地図(1943年) 新京駅の東側に新線が開通。この頃はすでに付属地は廃止されていますが、「地名」として残っている様子
新市街営口の地図(1919年) 上が新市街、下が旧市街
安東の地図(1919年) 道路が碁盤の目になっているのが新市街「新市街」と言ったら新しい市街地。それがどうして飛び地なの?・・・とまぁ、普通はそう考えるわけですが、戦前の満州には日本が租界同様に支配していた新市街というのも存在していました。
このアヤシイ新市街があったのは、遼寧半島の付け根にある営口という港町。営口から遼河を遡った牛荘は古くから満州一帯の海の玄関口として貿易が盛んな場所で、清朝は牛荘を開港場に指定したが、ここに租界を作ろうとしたイギリスは、牛荘より河口に近く貿易に便利な営口を「牛荘」だと称して領事館を設置した。しかし営口も河口に土砂が堆積して大型船が入りにくくなったことや、冬は港が凍結してしまうこと、ロシアがダルニー(後の大連)を開発して玄関口がこちらへ移ったこと、そしてイギリスが租界を作るために借りた土地は地盤沈下で沈んでしまったことなどで、結局イギリス租界は作られず徐々に寂れていった。
ところが日露戦争が始まると営口は日本軍の上陸拠点となり、営口の町外れにあった駅一帯には、新しい町ができて多くの日本人が住み着く。中国人やイギリス人が住む港に面した古くからの営口に対して、駅前の新しい日本人街は「新市街」として発展するようになった。
日露戦争が終わると、日本は清朝に圧力をかけて奉天、営口、安東などに日本租界を開設することを認めさせたが、結局租界を作るのはやめてしまった。なぜかというと、1つは営口に古くから進出していたイギリスが日本に乗じて租界を作り、満州に本格進出してくるかもと懸念したこと。そしてもう1つの理由は軍部が反対したから。租界の行政は領事館つまり外務省が担当することになるが、軍部は新市街を満鉄附属地にして、自分たちの息がかかった満鉄を通じて支配したいという思惑があった。
こうした軍部と外務省との対立の結果、新市街はとりあえず租界でも満鉄附属地でもないタダの新市街となったが、日本政府が組織した居留民団が行政を掌握して租界と変わらない統治を行った。これに対して中国側はたびたび抗議していたが、日本はそれを無視し続けた。しかし満州の開発が進むと、営口港はやがて満鉄が経営する撫順炭鉱や鞍山鉄鋼所の重要な積出港となり、1923年に新市街は満鉄附属地に編入されています。
ちなみに日本が支配したアヤシイ新市街は、鴨緑江を挟んで朝鮮との国境に位置する安東(現在の丹東)にもあって、ここも営口の新市街と同じように日露戦争の時に建設され、1923年に満鉄附属地となりました。
左は1942年の地図。右は安東新市街の鎮江山公園へ花見に集まった日本人居留民(1936年)●関連リンク
文化人シリーズ 野口英世も営口の保健所で働いていたんですねぇ
中国営口 営口市の公式サイトの日本語版
公使館区域公使館区域の地図(清朝末期) 中国語
公使館区域の地図(1912年) 英語
公使館区域の地図(1937年) 日本語
北京市街地と公使館区域の地図(1919年) 日本語1913年の地図。宮城の右下に東交民巷があります大使館や領事館の敷地が治外法権なのは古今東西当たり前ですが、その当たり前の範囲を逸脱していたのが戦前の中国というもの。かつて北京には、列強諸国が大使館の敷地を越えて共同管理するアヤシイ治外法権ゾーンが存在していた。北京で各国の大使館が集まっていたのは東交民巷という東西1・2km、南北600メートルの一角。もともとここには明朝の時代に中国へ朝貢していた国々(朝鮮、蒙古、安南、ミャンマー)の屋敷があり、「四夷館」などと呼ばれていたが、清朝末期に中国が欧米諸国に開国すると、列強各国は相次いでこの一角に大使館を建てた。しかし1900年、尊皇攘夷ならぬ扶清滅洋(清を助け西洋を滅ぼす)を掲げた義和団の乱(北清事変)が起き、東交民巷の大使館はマニ教(→明教→白蓮教)の流れを汲む義和拳のカンフー軍団に襲撃されて焼き討ちされてしまう。各国の大使館員と北京在住の外国人はいったん北京を脱出するが、間もなく列強8ヵ国(日独英仏米露伊墺)の連合軍が北京を占領し、清朝は降伏。翌年にオランダ、ベルギー、スペインも加えて結ばれた講和条約では、「清朝には大使館の特権を守る能力がない」とされて、東交民巷一帯には連合軍が駐屯して列強各国が管理し(※)、中国人の居住は禁じられることになった。
※公使館区域の駐屯兵力については、列強各国で軍事委員会を組織し、当初の割り当ては日本400、露350、独300、英250、仏250、墺250、伊200、米100と決められた。また条約で清軍は北京から海岸にかけての砲台を撤去し、12ヵ所に列強各国軍が駐屯できることになった。こうして東交民巷の周りは塀で囲われて各国軍の駐屯地が作られ、中国人住民が立ち退かされた跡地には各国の銀行や商社、郵便局、教会などが相次いで進出。周辺の道路はマルコポーロ路、ハート路、明治路・・・などと改称して、すっかり租界さながらに変わった。公使館区域の行政は、当初は明治路を境に、東側は日独伊西墺白の6ヵ国が、西側は米露蘭の3ヵ国がそれぞれ共同管理して、イギリスだけは自国の大使館と兵舎を単独管理していたが、ヤヤコシイということで1914年には列強10ヵ国が共同で事務公署という行政機関や警察を作り、地税や建物税、営業許可税などを徴収したほか、「中国人の車両通行料」として北京の警察署から補助金を取り立てた。議会に相当するものとして行政委員会があり、各国外交団から3人、民選で2人の計5人で構成された。※行政委員会の民選委員は、21歳以上の不動産所有者か年間25ドル以上の納税者が選挙で選び、任期は1年。ただし行政委員会の決議は、各国代表者が個別に同意した後、外交団の承認を得なくてはならず、外交団は必要とあらば公使館区域の規則を随時修正することができた。公使館区域の周囲には「防衛のため」として空き地が作られたが、いつしかここには怪しい安ホテルや旅館、飲み屋などが建ち並び、外人を目当てに集まる娼婦のたまり場と化してしまった。本来なら中国人の居住は禁止されているはずだが、事務公署はそれを黙認し続けていた。また辛亥革命後の中国政府(北洋政府)は軍閥による連立政府でゴタゴタが続いていたが、公使館区域は政争に敗れた軍閥や政治家にとって手軽な亡命スポットと化した。ふつう亡命するならどこかの国の大使館の敷地に入らなければならないし、亡命を断られることだってあるのだが、当時の北京ではとりあえず公使館区域へ行ってホテルにも泊まれば、中国政府の軍や警察は入って来れないので、特定の国の大使館の許可を得なくても気軽に亡命することができたという次第。かくして公使館区域の高級ホテルは、失脚した軍閥や政客、官僚たちであふれていたようだ。その後1927年に南京で国民政府が成立し、列強各国はやがてこれを承認して大使館を南京へ移したが、その後も大使館なき公使館区域は治外法権のまま残り、事実上の共同租界となった。1941年に日本が真珠湾攻撃で米英に宣戦布告すると、大使館区は実質的に日本軍が支配し、そして1943年、日本は大東亜共栄圏の発揚を狙って2月から3月にかけて汪兆銘政権(日本軍占領地域で発足した中国の親日政権)へ租界を返還することを決定し、公使館区域も消滅することになりました。
公使館区の入口で警備するオーストリア兵(左)、政争に敗れた中国の軍閥たちが「お手軽亡命」していた六国飯店(ホテル・デ・ワゴンリッツ)(右)
・・・というような歴史を踏まえて、文化大革命では東交民巷を「反帝路」に改名して気勢を上げる紅衛兵の皆さん(1966年)
避暑地廬山一帯の地図(1912年) CHIU-CHIANGは九江、KU-LINGは避暑地の中心街があった姑嶺(英語)
武漢(武昌+漢口)と廬山、鶏公山(1927年)「夏の軽井沢には東京から行楽客がどっと押しかけ、あたかも東京の飛び地みたいになってしまう・・・・」とか、そういう類の話じゃありません。戦前の中国には、中国政府の権限が及ばない租界同様のアヤシイ避暑地があったのだ。クーラーや冷蔵庫はなく氷を作るのも大変だった時代、アジアへやって来た白人たちは夏の暑さにバテてしまい、熱病で死ぬ者も少なくなかった。そこで各植民地では、高原や水辺の涼しいところに白人支配者専用の避暑地を作り、夏はそこで過ごしたもの。香港のビクトリア・ピークもいまでこそ単なる観光地&高級住宅街だが、かつては白人だけしか住めない避暑地だった。
しかし中国はとりあえず植民地ではなかったし、19世紀半ばまでは清朝が条約で認めた開港場にしか外国人は居住できなかった。それでも何とかして避暑地を作ろうと考えた白人がいた。1885年頃、江西省の廬山という風光明媚な高原にやって来たイギリス人の宣教師はすっかりこの場所が気に入り、地元の中国人からこの場所を永久借用して避暑用の別荘を建て始めた。この建物は完成する前に「毛唐嫌い」の地元民たちに壊されてしまうが、やがて中国が日清戦争で敗れると、清朝に外交圧力をかけて廬山一帯に外国人が土地を購入して避暑地とすることを認めさせた。こうしてイギリス人のほかアメリカ人やロシア人の宣教師、そして商人たちも続々と廬山に別荘を建てるようになった。このような外国人の避暑地は杭州郊外の莫干山や、湖北省と河南省に跨る鶏公山、そして北京や天津にほど近い海岸沿いの北戴河にもできた。
租界でさまざまな特権を享受しながら暮らしていた外国人が、避暑地でも同様の特権の下で暮らしたいと考えるのも当然のこと。これらの避暑地では別荘を購入した外国人で構成する避暑協会やキリスト教会が行政運営を行い、廬山では避暑協会による独自の警察も作られた。こうして中国政府の行政権限が及ばないアヤシイ避暑地になっていったのだが、廬山避暑地のうちロシア正教会が管理していた土地は1919年にロシア領事館へ管理権が移り、漢口(現在の武漢)のロシア租界の飛び地となってしまう。
杭州と莫干山(1927年)もっともこれらの避暑地は、ロシア租界の飛び地を除けば租界とは違って民間人や民間組織が支配するものだったし、もとからそこに住んでいた中国人から税金を徴収したり、裁判所を作って支配することはなかった。外国人が自治組織を作って中国政府の介入を拒んだというのが実態だった。廬山の避暑地には、1917年8月の調査で1733人の外国人(うち英国人678人、米国人672人、ドイツ人153人、日本人28人)が暮らし、他に別荘などに住み込みで働く中国人が1126人いた。避暑協会は、別荘地所有者から土地税として年25元、家屋税として年15元、店舗所有者からは営業税として年5~10元、別荘居住者から人頭税として年1元、観光客から通行税として1元を徴収し、道路整備や衛生管理、警察署や図書館などの運営経費に充てていた。避暑地では中国通貨のほか香港上海銀行(イギリス系)や台湾銀行(日系)の紙幣が通用し、九江のイギリス租界で乳製品製造を営む元宣教師のイギリス人が発行する小額額面の手形が、「独自通貨」のように使われていたらしい。アヤシイ避暑地に隣接して、外国人相手や中国人観光客向けの商売をする中国人街が生まれ、こちらには約2000人が住んでいた。
やがて1920年代後半になり、反英暴動を契機に全国的な租界回収運動が盛り上がると、避暑地にやって来る外国人の数は激減し、避暑協会も崩壊寸前となってしまう。こうして1935年までに租界もどきのアヤシイ避暑地は姿を消して、ふつうの避暑地に戻った・・・かと思いきや、これらの避暑地はやはり外人が目をつけただけあって快適な場所のようで、北戴河は今も中国共産党要人の避暑地になっているし、廬山には蒋介石や毛沢東の別荘がありました。蒋介石が抗日戦争に向けて国民に檄を飛ばした1937年の「廬山講話」や、毛沢東が極左路線を諌めた将軍を批判して文化大革命のきっかけとなった59年の「廬山会議」は、中国の近現代史を大きく左右することになったわけで、アヤシイ避暑地は中国政府の手に戻っても、やはりアヤシイ場所なのでした。
そういえば、1888年(明治21年)に軽井沢を避暑地として最初に目をつけて別荘を建てたのもイギリス人の宣教師。当時の日本は外国人に領事裁判権などの治外法権を認めていたわけで、6年後に治外法権が撤廃されていなかったら、軽井沢は日本政府の権限が及ばないアヤシイ避暑地になっていたかも知れませんね。
かつて中国に存在したアヤシイ避暑地
居住開始 清朝の公認 行政運営者 変遷 廬山 1885年頃 1895年 避暑協会とロシア正教会 1925年中国政府がロシア租界の飛び地を接収、
1927年避暑警察を接収、36年残りの地域の行政権を回復北戴河 1893年 1898年 複数の避暑協会 1932年中国政府が行政権を回復 莫干山 1898年 避暑協会 1928年中国政府が行政権を回復 鶏公山 1903年 1907年 教会 1935年中国政府が行政権を回復
●関連リンク景徳鎮・廬山 風光明媚な場所だけど、冬はやっぱり寒そうですね
人民中国 世界遺産めぐり 廬山は世界遺産に登録されたそうで
中国国家観光局 鶏公山は「こんな涼しいところは仙人の世界ではないか」と古代の漢詩でも詠われたとか
中国 莫干山 風景旅遊名勝網 莫干山も「国家レベルの風景名勝重点区」だそうな(中国語―簡体字)
中山道 歴史巡りドライブ 2 明治末年には軽井沢の外国人別荘の数は日本人の3倍以上になっていたとか・・・・危なかったですね
貿易圏中国西部の地図(1943年) 貿易圏が存在したのは、新疆省の廸化(ウルムチ)、搭城(タルバガタイ)、伊犂(イリ)、喀什喝爾(カシュガル)
カシュガル市内の地図(1941年) 城壁の北側にロシアの領事館、病院、銀行、墓地が集中する一角が旧貿易圏
現在のウルムチ市内の地図 貿易圏の飛び地の名残りの「羊毛湖」が現存。貿易圏があったのは華僑飯店のあたり?
現在のイーニン市内の地図 市医院のあたりがかつてのロシア人街
1910年代のウルムチ市内の地図。一番南の城壁外の集落が貿易圏貿易圏といっても、最近トレンドの関税を撤廃して貿易障壁をなくし自由な貿易を進める云々の「自由貿易圏」とかじゃありません。かつての中国には、列強の軍隊が駐屯し中国の行政権が及ばない一角で貿易を進めるという、租界もどきのアヤシイ貿易圏がありました。租界はもともと貿易拠点として設けられたものだから、沿海部や大きな川の畔にあった。しかし貿易は船だけで行うのではないわけで、内陸部の国境なら馬やロバやラクダを使って貿易する。そんな場所での貿易拠点として設けられたのが貿易圏で、内陸も内陸、砂漠の果てのオアシスに存在していた。
かつて西域と呼ばれた新疆は、はるか昔からシルクロードを通じて中央アジアとの交易が盛んだった。しかし中央アジアは18世紀から19世紀にかけて相次いでロシアの支配下に入り、ロシアはさらに新疆へも勢力を伸ばしつつあった。そんな中で1851年にロシアと清朝が結んだ通商章程に基づき、国境に近いイリ(現在のイーニン)やタルバガタイの町に、ロシアが設置したのが貿易圏(または貿易亭、売買圏子)で、19世紀末までにカシュガルや新疆省の省都・廸化(現在のウルムチ)にも開設された。
貿易圏は塀で囲まれた一角で、ロシアの商館や倉庫、住宅、教会などが建ち並び、後には銀行や電信局、郵便局も設置され、独自の通貨も発行した。内部ではロシア人による自治権や関税免除などの特権が認められ、現地のロシア領事館が直接インフラ整備や行政運営を担当した。限りなく租界と似たような感じだが、租界には埠頭や桟橋などの設備があったのに対して、貿易圏では交易で使う馬やラクダのために付近に牧草地の飛び地があったのがミソ。さらにウルムチの貿易圏では、商品となる羊の毛皮を洗うために河原の飛び地も設定された(※)。
※当初は毛皮を洗うだけで建物などを建ててはならないという規定だったが、ロシア商人たちはそんな規定は無視して大きな溜め池を作り、毛皮加工工場を作ってしまった。現在この溜め池はその名も「羊毛湖」と呼ばれる行楽スポット。貿易圏には当初ロシア人だけが住んでいたが、後に中国人や現地のウイグル人、カザフ人などとも雑居するようになった。しかしロシア側の行政権はあくまでロシア人に対してしか及ばなかった点も租界とは異なる。もっともウイグル人やカザフ人はロシア領内にも住んでいて、彼らはロシア人の交易隊と一緒に貿易圏へ来れば「ロシア国民」としてロシア領事館の管轄下に入った。また、ロシア領事館は現地のウイグル人、カザフ人にロシア国籍を取るように薦め、ウイグル人たちも関税免除の特権を利用するために、ロシア国籍を取得する者が相次いだ。こうして各地のロシア領事館は「ロシア国民の保護」を口実にして、貿易圏の外にも支配を広げていった。貿易圏はもともと貿易のための拠点だったが、それで終わらないのが列強の性というもの。1855年にタルバハタイの貿易圏が暴徒に焼き討ちされる事件が起きると、清朝は被害を受けたロシア人に賠償するとともに、各貿易圏に50人のロシア兵駐屯を認めた(※)。以後、貿易圏はロシアの軍事拠点にもなり、1864年から起きたウイグル人の反乱に乗じて、ロシアは71年にイリやタルバガタイ地方を占領。81年のイリ条約で返還されたものの、清朝はイリ西部からバルハシ湖にかけての地域をロシアへ割譲するハメになった。
※1907年に新疆一帯を偵察旅行した日本陸軍の日野少佐の記録によれば、ロシアが「領事館の護衛兵」として駐屯させていた騎兵は、イリ200騎、カシュガル60騎、ウルムチ40騎、タルバガタイ30騎だったという。さて、ロシア革命後に新たに成立したソ連政府は、すべての租界の放棄を宣言、新疆各地の貿易圏も1924年に中国へ返還されて消滅した(※)。さすが「国境を越えた、労働者の祖国」ソ連は太っ腹だと思いきや、30年代に入るとスターリンは盛世才などの軍閥と手を結んで新疆を勢力下に置き、さらに1944年にはソ連軍を出動させて実質的に傀儡国家の東トルキスタン共和国 を作ったが、その拠点となったのは、かつて貿易圏があったイリやタルバガタイだったのでした。※返還後の貿易圏は白系ロシア人(ソ連の共産党政権を嫌って亡命したロシア人)の町となり、外国人からはファクトリア(商館区域)、地元の中国人からはヤン・ハン(洋行)と呼ばれた。白系ロシア人の多くは戦後、中国も共産党政権になったのでロシアへ帰国したが、現在でもイリ地区を中心に1万5000人が中国の「ロシア族」として居住している。(クリックすると拡大します)
中国から独立する前のモンゴルの庫倫(現在のウランバートル)の地図
露国領事館の周りに「露国租界」と称する一帯がありますが、これもどうやらロシアの貿易圏?イーニンでの一日 踊りがイイですね
シルクロード旅行記 カシュガルの写真がたくさんあります
中国鉄血連盟社区 歴史中的不平等条約(1) 貿易圏の設置を定めた「通商章程」などの史料があります(中国語)
烏魯木斉新十景評選 ウルムチに世界最大の国際バザール(別名:民族旅遊貿易圏)がオープンしたそうで・・・(中国語)
非公認共同租界租界は中国と外国との条約で設置されるものですが、中国各地には外国人住民たちが列強各国の承認を得ないまま作ってしまった非公認のアヤシイ共同租界もどきが存在していました。
★芝罘第一区
山東半島の地図(1921年) 煙台(芝罘)にたくさんの航路が集まっているのがわかります
芝罘(煙台)一帯の地図(1912年) 英語
芝罘の市街図(1919年) 「萬国委員會」や「第壹區支那警察署」があります芝罘とは現在の山東省煙台で、青島と並ぶ山東半島有数の港町。あまり知られていないけど、631年に初めての遣唐使が上陸したのが芝罘でした。
1858年の天津条約で、山東半島では登州が開港されることになったが、外国人たちは登州は不便だと勝手に芝罘へ住み着いてしまった。フランスは1861年を占領して芝罘にフランス租界を作ろうと清朝と交渉を始めるが、イギリスが猛反発したため66年に断念して撤退。その後、外国人居住者たち、自主的に共同委員会(General Perpose Committee)を組織して、道路や排水溝、街灯の整備に着手し、その費用負担として外国人居住者から固定資産税(評価額の0.7%)や人頭税(年10ドル)の徴収を始めるが、条約に基づいて設置された租界の行政機関ではなく、あくまで任意の組織(いわば町内会みたいなもの)だから、「税金」の取りたては強制できず、払わない住民に対しては、その住民の領事館へ「何とかしてよ」と頼むくらいしかできず、中国人住民には課税することはできなかった。
そこで共同委員会では、芝罘に共同租界を設置してもらおうと、1897年に上海の共同租界をモデルにした規約案を作り、列強各国の領事団に陳情。列強各国もこれに賛成して中国側との交渉に乗り出そうとするが、翌年2月にドイツが猛烈に反対したため足並みが乱れて断念。フランスが66年に撤退した際、中国側に「芝罘に租界設置を認める場合は、純然たる公共的なものにすること」という条件を付けていたので、租界は共同租界しか作れなかったし、共同租界を作るには列強諸国が揃って行動しなければ不可能だった。ドイツが反対したのは山東半島に独自の拠点を築こうと狙っていたため。ドイツは自国の宣教師が殺されたことを口実に、3月に膠州湾(現在の青島)を租借地として認めさせ、イギリスも7月に威海衛を租借地にした。山東半島はいちやく列強の勢力争いの最前線になっていた。
1899年には日米英が音頭を取って再び芝罘に共同租界を作ろうと根回しを始めるが頓挫。1904年に外国人居住者たちはコロンス共同地界をモデルに、中国人の参政権も認めた規約案を作って領事団に陳情し、今度はドイツも賛成したため中国側と交渉を始めた。しかし中国側が「在住外国人の希望に甚だしく反する」対案を出してきたため、領事団はどう抗議しようかと作戦会議を開いたところ、アメリカ領事とドイツ、ロシア領事が言い争いを始めたため、これもウヤムヤになってしまった。
外交交渉が一向に進展しないことに業を煮やした芝罘の外国人たちは、それまでの共同委員会に代わり、1910年に中国人有力者らを加えた行政機関として万国委員会(International Committee)を組織して、中国人にも課税。列強諸国の承認をまだ得ていなかったため、芝罘共同租界ならぬ「芝罘第一区」と命名し、外国人と中国人各6人からなる国際委員が市政運営を始めたが、警察権については他の租界とは違ってとりあえず中国側の警察に任せることにした。列強諸国はイギリス領事が万国委員会を公認するように呼びかけたが、アメリカ領事は「中国人を市政運営に加える方式は、中国人が外国人を圧迫する結果につながるから反対」だと拒否。万国委員会は17年にも領事団に公認を願い出るが、イギリスとスウェーデンが賛成したものの、日米が反対して失敗。こうして芝罘第一区は列強からも承認が得られないまま、事実上の共同租界として機能し続けた。
やがて不平等条約とその象徴たる租界の撤廃を求めて中国人のナショナリズムが高揚すると、中国の行政権が及ばない租界もどきの芝罘第一区も目の敵にされ、1930年に万国委員会は中国側の芝罘市政府が接収。国際委員は芝罘市の第一区に関する諮問機関としてしばらくは存続したようだ。
結局のところ、芝罘第一区は条約を無視して外国人が勝手に住み着いたところからスタートし、列強同士の足の引っ張り合いで共同租界として公認されずに終わった。しかし公認されなかったおかげで画期的な一面もあった。芝罘第一区の最高議決機関は年1回開かれる納税者総会だったが、その参加資格は外国人、中国人を問わず(1)芝罘第一区の住民、(2)芝罘第一区に不動産を所有する者、(3)芝罘第一区の外に住む外国人、のうち万国委員会に納税している者。そして納税者総会の権限は、(1)一般公共事務処理に関する議決、(2)予算・決算の承認、(3)国際委員の選出だった。上海やコロンスの共同租界とは違って、議決内容に領事団の承認は必要とせず、拒否権もなかったから、租界の内外を含めて当時の中国では唯一マトモな民主主義(しかも直接民主主義!)が実践されていたということになります。
現在の寧波の地図 「市政府」の辺りがかつての城内。江北公園一帯の川沿いがかつての江北バンド
租界もどきだった頃の江北バンド19世紀に租界ができてから発展した上海とは違い、寧波は古くからの貿易拠点。かの豊臣秀吉も朝鮮半島を征服した後は、「明を攻略して寧波に居城を移し、インド征服の指揮を執る!」と公言していたほどだ。その寧波はアヘン戦争後の南京条約で開港場となり、寧波の城内(城壁都市)から川を挟んだ江北岸に外国人が住み着くようになった。1861年に太平天国の乱で寧波が襲撃されると、数万人の難民が江北岸へ逃げ込み、フランスは清軍の寧波奪還を援助する代わりにフランス租界の設置をもくろむが、アメリカが反対して断念。しかし江北岸の行政権は外国人たちの手に移り、領事団による警察署(外国人の署長、部長、警部2人と中国人巡査12人で構成)などが作られ、運営経費を賄うために江北岸に住む外国人や中国人から徴税を始めた。1898年には江北岸のインフラ整備や衛生行政を行う工程局が発足し、江北岸の埠頭で積み下ろしをする貨物から税を徴収し、中国人4人と外国人5人(うち1人は中国政府に雇われた外国人公務員で理事長)からなる理事会が運営するようになった。こうして江北岸一帯は中外共同のアヤシイ共同租界もどきとなって、上海共同租界の中心地・バンド(外灘)にあやかって江北バンド(江北岸外灘)と呼ばれるようになったが、工程局は1927年に北伐でやってきた国民政府軍に解散させられ、中国政府が行政権を取り戻すことになりました。
寧波的夜色如此迷人 「上海の外灘より古い寧波老外灘」ということで、最近は江北岸をレトロな観光地として売り出したところ、台湾から国民党御一行が視察に来たとか・・・(中国語)
福州の地図(1930年頃) 川の南岸が共同租界もどき
福州は福建省の省都だが、ここも南京条約で開港場となり、川沿いの倉前山一帯にイギリス人が住み着くようになった。1855年にイギリス領事館が建設されると、他の列強各国の領事館や商館、学校、教会なども付近に建つようになり、倉前山は外国人の居住区と化していった。福州に住む外国人たちは、62年に「福州公路信託部」という自治組織を結成し、倉前山で道路や墓地の建設、環境整備を行ったほか、一時は自分たちの警察も設置した。しかし未公認の租界もどきなので、住民から税金を徴収するわけにはいかず、インフラ建設の財源は倉前山の道路を通る人から年3元(乗馬する人は6元)、沿道の企業からは年25元を徴収して充てていたようだ。
1860年代にイギリスの教会が中国人に焼き討ちされる事件が起きると、外国人の怒りを静めるために福州の中国側役人は倉前山の麓に70万坪の敷地を提供し、外国人住民はここに競馬場を開設。当初は中国側に地代として年1000両を払っていたが、外国人たちが福州の将軍を競馬観戦に招いて歓待したところ、ご機嫌になった将軍は地代の免除したうえ、競馬場は「中国人立ち入り禁止」の治外法権エリアとすることを認めた。
福州には1897年の条約で別に日本租界の設置が認められていたが、こちらは結局作られずじまい。外国人による共同租界もどきは太平洋戦争勃発でイギリス人らが引き揚げる1942年まで続いた。
トムソン写真の世界 1870年代の「福州租界」の写真があります。実際には租界もどき
通商場とは、中国政府が外国人の居住や企業活動のために指定した地区のことで、現在の中国でいう「対外経済開発区」等のたぐい。19世紀末期になると、清朝もさすがに租界によって中国の主権が脅かされる危険性を憂慮して、租界をこれ以上増やさないために、自ら進んで外国人のための居留地や商業地区を設置することにした。特に外国人に道路建設やインフラ整備を任せると、「道路建設費用の調達のため」と称して住民から税金を集めたり、「交通整理のため」と称して警官を派遣したりし始め、行政権や警察権さらには司法権まで奪われてしまうので、清朝は地方政府にあらかじめ道路やインフラ整備を行わせ、中国側が行政権を確保した上で外国人を住まわせるようにした。このような通商場(または商埠地、公共居留地)は、杭州、蘇州(江蘇省)、重慶(四川省)、三都澳(福建省)、長沙、岳州、常徳(湖南省)、蕪湖(安徽省)、奉天(遼寧省)、長春、間島(吉林省)、南寧(広西省)、済南、周村(山東省)など各地に開設され、租界の形成を未然に防止する役割を果たした。
当時の清朝は財政難で、鉄道や海運、鉱山開発や近代工業の建設を官督商弁(政府監督下で民間に経営を委託する半官半民的な方式)で進めていたが、じゃあ通商場の開発・運営も民間活力導入でやってみようと試したのが、直隷省(現在の河北省)の秦皇島。ここは秦の始皇帝が不老長寿の薬を探しに来たという伝説からその名がついたという古い港町だが、清朝では1898年に秦皇島を開港するにあたって、炭鉱の開発や鉄道の経営(天津~山海関)を行い「官督商弁」の成功例と言われていた開平鉱務局に、あらかじめ秦皇島の土地を買い占めさせ、道路や埠頭の整備も行わせて、開平鉱務局が通商場の行政管理を行うことで、外国人に実権を握らせない体制を整えた。
ところが、そうは問屋が卸さないのが列強の抜け目ないところ。義和団の乱が発生すると、イギリスは動揺した開平鉱務局の総弁(理事長)に保護を与えることと引き換えに全ての株式を買収してしまう。こうして秦皇島の港や通商場は、周辺一帯の鉱山とともに1901年からイギリス人の支配下に渡り、慌てた清朝はイギリスへ代表を派遣して交渉したが、時すでに遅し。中国政府は1912年に開平鉱務局を他の官営鉱山と合併させて中英合弁に改め、ようやく秦皇島の行政権や警察権、司法権を取り戻したが、これによってさらに多くの鉱山でイギリス人が特権を得ることになってしまいました。
「以前の清朝の風水による立ち入り禁止区域」なる謎の場所が・・・(左)。1940年の秦皇島の市街地図。海岸には日英仏の兵舎もあったとか(右)
参考資料:
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南満州鉄道『南満州鉄道案内』 (満州日日新聞社 1917)
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手島喜一郎:編 『営口事情』 (営口実業会 1920)
『安東誌』 (安東県商業会議所 1920)
西山栄久:編 『改訂最新支那分省図』 (大倉書店 1921)
『蘇杭事情』 (外務省通商局 1921)
一宮房治郎 『支那開港場誌』 (東亜同文会調査編纂部 1922)
『在九江帝国領事館管轄区域内事情』 (外務省通商局 1923)
西山栄久:編 『最新支那地図』 大阪屋号書店 1927)
『東支鉄道を中心とする露支勢力の消長(上・下)』 (南満州鉄道ハルビン事務所運輸課 1928)
『租界ニ於ケル行政組織竝土地制度』 (外務省条約局第二課 1930)
渡部奉綱 編 『長春事情』 (南満洲鉄道長春地方事務所 1932)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
シー・ウォルター・ヤング 『南満州鉄道附属地に於ける日本の管轄権』 (南満州鉄道資料課 1933)
『治外法権撤廃並満鉄附属地行政権の調整乃至委譲に対する満洲国側の準備 』 (満州国総務庁情報処 1936)
『満州国現勢 康徳4年版』 (満州弘報協会 1937)
満鉄調査部 『北部新疆地誌』 (南満州鉄道 1938)
植田捷雄 『増補 支那租界論』 (厳松堂書店 1939)
『世界地理第3巻 北支』 (河出書房 1940)
『世界地理第5巻 支那辺境』 (河出書房 1941)
植田捷雄 『支那に於ける租界の研究』 (厳松堂書店 1941)
『支那に於ける外国行政地域の慣行調査報告書』 (東亜研究所 1942)
『三省堂世界地図』 (三省堂 1942)
高橋貞三 『満州国基本法』 (有斐閣 1943)
スミグノフ 著 ; 須田正継 訳 『アルタイ紀行』 (日光書院 1946)
『関東州租借地と南満州鉄道付属地(前編)』 (外務省条約局法規課 1966)
南満洲鉄道総裁室地方部残務整理委員会 『満鉄附属地経営沿革全史(上・中・下)』 (龍渓書舎 1977)
日野強 『伊犂紀行』 (芙蓉書房 1980)
新疆社会科学院歴史研究所 『新疆地方歴史資料選輯』 (人民出版社 1987)
励声 『新疆俄国租借地研究』 (『新疆大学学報 哲学社会科学版』 1989第2輯)
費成康 『中国租界史』 (上海社会科学学院出版社 1991)
東方民族網 http://www.e56.com.cn/index.asp
中華民国中央研究院近代史研究所档案館 http://archwebs.mh.sinica.edu.tw/foreign/