貫一は二男であったこともあり、僅か6歳で縁戚の若林家の家督相続をした。時に、明治28年4月20日、貫一が日生尋常小学校へ入学した直後であった。従って、若林貫一と姓は変わったものの、芳田家の一員として育てられ、成人した。
写真資料の葉書は、貫一が兄・利七(本名辰治)へ宛てて書いたものであり、貫一が27年間の生涯で認めた唯一の葉書である。この葉書を書いたのは明治43年10月20日で、21日の消印がある。この時、貫一は独身で、『林兼商店』(後の『大洋漁業』)の社員であった。この葉書を投函した時、貫一は韓国釜山港牧之嶌へ出張していた。『信原商店』は釜山で魚介類を扱う問屋であったと思われる。
葉書裏面に船の絵が描かれているが、船乗りとして大きな夢を抱いていたのであろう。この船を見ると、日本の国旗を掲げ、マストには『〒』の旗が翻っている。貫一は数年後に林兼が所有する船の船長になっている。この船の絵を描いたのは貫一が20歳の時である。文面はいかにも男子らしく、自身の無沙汰を詫び、兄の無事を問い、自身相変わらず仕事に打ち込んでいることを告げ、心配御無用、とのことを認めた簡素なものである。
この葉書を貫一の両親はじめ兄や姉妹、親類の者などが見たり、読んだりしたことであろう。貫一が結婚する2年前のことであり、一正の影も形も無い時である。然しならが、100年後に孫兵衛がこの葉書を見ているからには、2年後に迎えた『妻・をかん』も、5年後に生まれた『一正』も、いつかこの葉書を見たに違いない。
たった一枚の葉書ではあるが、貫一との関係、時間差、距離の違いなどでも読んだ人、見た人の感慨には当然の差異があるのだが、…