ポルトガルが残したメシの種は、南蛮渡来のフォークダンス
飛地踊り
本場オリジナルの踊り 音が出るので注意 ![]()
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マラッカ(左)とマカオ(右)のポルトガル風ダンス飛び地には飛び地独特の文化があるのかといえば、とりあえず「飛地踊り」のようなものがあります。
かつてポルトガルの小さな植民地だった場所、つまりインドのゴア・ダマン・ディウや、マレーシアのマラッカ、中国のマカオには、それぞれポルトガル風のフォークダンスが根付いていて、現在でも盛んに踊られているとか。
例えばディウにはMando、Vira、Verdigaoなどのダンスがあって、カトリック教会を中心に集まっている数千人のポルトガル系住民が、フェスティバル等で踊っている。
マラッカは1641年にオランダが占領し、1824年からはイギリス領になって、ポルトガルは350年以上前に撤退しているのだが、現在でもユーラシアンと呼ばれるポルトガル系住民のコミュニティがあって、ポルトガル風のダンスを伝承し続けている。マラッカのダンスにはBranyoとFarapeiraがあって、タンバリンを叩いてテンポの速いFarapeiraは若者向き。Branyoはマレー人の間にも伝わって、Jogetと呼ばれるマレーシアの国民的なダンスになっている。
マカオには土生葡人(土着ポルトガル人)またはマカニーズと呼ばれるポルトガル系住民が1万人ほど暮らしているが、彼らの間で葡萄牙土風舞というダンスが伝承されている。
大航海時代に伝わった踊りなので、各地のダンスはそれぞれ異なっているようだが、歌はどれもポルトガル語。そして女性は本場のポルトガルから伝わった赤いプロバンススカート.を穿いて踊るのも共通だ。
もっともプロバンスの生地は、大航海時代にポルトガル船がインド更紗をヨーロッパへ伝えたのが始まりで、そのインドの更紗も、2000年前に中国からインドへ技術が伝わったのが起源とか。となると、ポルトガル風ダンスの赤いスカートの生地は、中国→インド→ヨーロッパ→インド→中国と、ユーラシア大陸を1往復したことになるのかも?
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ゴア(左)とダマン(右)のポルトガル風ダンス。マラッカやマカオよりは本場に近い?それにしても、ポルトガルの植民地にはなぜダンスが定着したのかというと、それはポルトガル系住民が定着したから。大航海時代のポルトガルは、船に女性が乗ることを禁止していたので、アジアへ渡るポルトガル人は男性ばかりだった。当然のことながら、ポルトガルから来た男性は現地女性と結婚するようになりる。ポルトガル政府も、混血の子供に父親が持っていた爵位の継承などを認めるなどして、意図的に現地女性との結婚を奨励した。こうしてポルトガル植民地では、現地に根を下ろしたポルトガル系住民が形成されて、ポルトガルによる支配を支え続けたのだ。
この点、イギリス人は植民地へも妻同伴で赴任して、子供が生まれればイギリス本国へ送り返して教育を受けさせ、任期が終わればイギリスへ戻って老後を過ごすというスタイル。だからイギリス人は植民地が独立すれば一斉に本国へ引き揚げていなくなってしまうが、ポルトガル人は植民地が独立したり占領されても、何百年間も代々現地で生まれ育って来たから、「見ず知らずの土地」であるポルトガルへは戻れない。
かくしてポルトガルの旧植民地では、とっくにポルトガル領ではなくなっても、ポルトガル語を話しポルトガル系としてのアイデンティティを持つ現地住民たちが残って、ポルトガルのダンスをはじめ、伝統文化を継承し続けているのだ。
そしてダンスが盛んなもう1つの理由は、ポルトガルの植民地だった場所にはロクな産業がなく、観光客を呼ばないとメシが食っていけないので、ポルトガル風ダンスを政府や観光協会が積極的に支えて、観光の目玉の1つとしているから。例えばシンガポールや香港も観光客誘致をしているが、イギリスの統治下で国際的な貿易港や金融センターとして十分発展しているので、わざわざダンスを売りにする必要はないが、マラッカやマカオは発展しなかったので、観光客が来るか来ないかは死活問題と言うこと。
日本もかつて台湾や朝鮮を植民地にしていましたが、たかだか数十年の支配だったし、日本人はほとんど引き揚げてきたので、例えば台湾で盆踊りが続いている・・・なんてことはありません。ただしここまでは残した(※)ようなので、あともう一歩だったかも?
※音が出るので注意!艶かしい映像付きもありますよ。