免許制度に融通を利かせないと、飛び地住民の命が危ない!?

飛地の医師


 
飛び地というのは、「免許の飛び地」でもあります。どういうことかというと、A国の飛び地ではA国政府が認定する様々な免許や資格、例えば医師や弁護士、会計士、税理士、不動産鑑定士、その他なんとか士かんとか士の資格や運転免許が使えるということ。逆に言えば、A国の飛び地をぐるりと取り囲むB国の免許や資格は使えないということです。まぁ、運転免許なら国際免許を取れば良いんですけどね。

この免許の飛び地、実は飛び地で暮らす住民の命に関わる問題でもある。例えば、1999年までポルトガルの飛び地のような植民地だったマカオの場合、もし「ポルトガル領だからポルトガルの医師免許だけが有効」にしたら、マカオの医者はほとんどいなくなってしまう。

人口数十万人のマカオには1981年まで大学がなかったし、大学ができても医学部はなかったので、マカオの人が医者を志すなら、あまり役に立ちそうにないポルトガル語をせっせと勉強して、地球の裏側のポルトガル本国まで留学しなくてはならなくなる。一方、ポルトガル人の医者にしたって、はるばるマカオまでやって来て開業しようという奇特な人はまずいないし、仮にマカオで開業したところで住民の95%以上は中国人だから、患者が何を言っているのかわからない。

そこでマカオ政庁は、ポルトガルの医師免許のほかに中国の医師免許も使えることにした。これなら中国から移住してきた医師はマカオでそのまま医者になれるし、医師を志すマカオの学生もすぐ隣の中国へ留学して免許を取れば良く、わざわざポルトガル語で医学用語を勉強する必要もない。

一方で、イギリス植民地だった香港の場合、人口の95%以上が中国人と言うのはマカオと同じだが、医師免許はあくまで英連邦の免許だけが有効で、中国の医師免許は使えなかった。まぁ、英語の場合はポルトガル語と違って何かと役に立つので、英語を勉強してイギリスへ留学しようという人はいるし、イギリスまで留学しなくても英連邦だったらもっと近場のカナダやオーストラリアやシンガポールで免許を取ってもいいし、香港大学には医学部があったので留学しなくたって医者になれるということ。だから香港政庁はわざわざ特例を設けて中国の医師免許を認める必要はなかったのだ(※)。

※1997年に香港が中国へ返還された後も、「法律は変えない」という原則により、香港の医師免許は英連邦基準のものだけが有効。マカオでは99年の返還後も引き続きポルトガルと中国の医師免許が有効。
じゃあ日本の話で、沖縄をアメリカが統治していた時代はどうだったのか?アメリカ領だからアメリカの医師免許だけが有効だとしたら、戦前から沖縄で開業していた医師はすべて医者が続けられなくなってしまう。そこでマカオと同じ方式で、琉球政府はアメリカの医師免許だけでなく日本の医師免許も認めていた。当時の琉球大学には医学部はなかったが、これならアメリカまで行かなくても日本本土へ留学すれば医者になれたのだ。

しかし、これだけでは沖縄の医師は不足だった。戦前からの医師は激しい沖縄戦で犠牲になった人が多かったし、本土の大学へ留学するには経済的負担がかかる。それにマカオの場合は中国の共産党政権を嫌って不法入境して来る医師も多かったが(マカオ政庁は1990年頃まで不法入境者に永住権を与えていた)、日本の本土からアメリカ統治下の沖縄へ不法入境して住み着こうとする奇特な医師はいなかったし、いたとしても強制送還されるのがオチ。

そこで沖縄では1951年に医介輔という制度を作った。これは旧日本軍の衛生兵などの経験がある人に、認定試験を受けさせて資格を与え、診療所の開業や医療行為を認めるというもので、いわば政府公認の無免許医だ(※)。ただし正規の医師と比べると医療内容には制約があって、抗生物質や麻酔は使えず、したがって手術はできなかった。もしそういう治療の必要がある患者が来た場合には、正規の医師がいる病院を紹介しなくてはならない仕組み。また医介輔が開業できる場所は、正規の医師がいない場所に限定されたので、離島や僻地がほとんどだった。

※終戦時、沖縄には戦前の3分の1に過ぎない64人の医師しか残っていなかったという。医介輔に認定された人は126人で、これによって戦前並みの水準が確保された。このほか歯科医代わりの歯科介輔も認定された。
こうして沖縄では医介輔によって離島でも医療機関が確保され、マラリヤや風土病の撲滅などに大きな貢献を果たしたが、1972年に沖縄が日本へ返還されることが決まると、問題になったのが医介輔だった。復帰時点で沖縄には49人の医介輔が診療を続けていたが、日本の法律が適用されて日本の医師免許を持った者しか開業できなくなれば、医介輔はすべて「違法診療」となって廃業を余儀なくされ、たちまち無医村や無医島が増えてしまう(※)。
※1953年に日本へ返還された奄美群島では、28人の医介輔は2年間の猶予期間を経てすべて廃業になった。
そこで医介輔や住民たちが陳情を続けた結果、日本政府は『沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律』第100条で、沖縄の医介輔が一代限りで引き続き診療を続けることを認めた。また韓国や台湾から戦前日本の医師免許を取得した人たちを招いて、離島などでの診療に当たらせた(※)。
※沖縄に限らず、本土でも1980年代まで日本人医師が赴任したがらない僻地の診療所などで、韓国から招かれた医師が活躍していた。
一方で、返還とともに日本の国立大学になった琉球大学で医学部設置の準備を進め、1981年に第一期生が入学。彼らが卒業した87年からようやく沖縄で自前の医師が養成できるようになった。半世紀以上にわたって地域住民の健康を守り続けた医介輔は、高齢化に伴って引退が相次ぎ、現在では最後の1人が診療を続けているとか。もっとも沖縄で医師が誕生するようになっても、離島や僻地に赴任しようという人は少ないわけで、医介輔の引退に伴って無医村や無医島と化す地域が増えている。これはもはや飛び地とは関係ない問題ですけどね。


アメリカ統治時代(1968年)の沖縄・粟国島で島民を診察するアメリカの軍医。なんかほのぼのした光景にも見えますが、実はこれ、アメリカ陸軍特殊部隊による「ベトコン掃討作戦」の予行演習だったようで・・・・。「最初の夜は(島民たちに)無料で映画を見せ、見に来た人から一滴ずつ採血してフィラリア病の調査をしました」なんてこともやっていて、今だったら問題になりそうですね。詳しくは『アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動』を参照してくださいね。
 

●関連リンク

沖縄タイムス 特集 長寿の島の岐路 21世紀に入っても診療を続けた医介輔たちの紹介記事
医介輔 最後の一人 : ズームアップ・ウィークリー 読売新聞の記事です
 
 

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