庶民の魚に強権発動で関税をかけ続けるアメリカに、島ぐるみで怒り爆発
飛地の秋刀魚
本の代表的な大衆魚といえば、やっぱりサンマ。漢字で「秋刀魚」と書くように、秋ともなれば安くてうまいサンマを食べたくなるものですが、そうは問屋が卸さない・・・いや問屋も怒りを爆発させたのが飛び地の現実、異民族支配というもの。脂がのった美味しいサンマが獲れるのは北日本の沿岸だ。そこで沖縄では本土から運ばれたサンマを売っているのだが、沖縄がアメリカに統治されていた頃、つまりアメリカの飛び地みたいだった時代、アメリカは「日本から輸入される鮮魚は『外国製品』だ」ということで布令を出し、20%もの輸入関税(物品税)をかけてしまった。
アメリカの都合で沖縄を占領し続けておいて、サンマのような庶民の魚にまで輸入関税をかけるとはヒドイ話だが、そもそもアメリカ側が出した物品税の布令の中には「サンマ」という項目がなかったから不当徴収だと、サンマ輸入業者が物品税を徴税していた琉球政府を相手取って起こしたのがサンマ裁判だった。
琉球政府の裁判所(中央巡回裁判所)は輸入業者の訴えを認めて、サンマに課税していた約4万6000ドルの物品税を払い戻すよう命じる判決を下し、琉球政府もこれを了承。「これからはサンマが安く食べられる!」と沖縄住民が喜んだのもつかの間、米国民政府は突然布令を改正して物品税の項目にサンマを加え、なおかつ布令改正前に遡及してそれまでに納付された物品税も適法と見なすことにしてしまった(※)。
※アメリカ統治時代の沖縄で、植民地で言えば総督に当たる最高権力者が高等弁務官で、総督府に相当する政府が米国民政府。さらにその下で沖縄住民による自治政府のような存在だったのが琉球政府で、そのトップは主席。あくまでサンマに税をかけようというアメリカ側のやり方を、別の輸入業者が不当だとして訴えたのが第二サンマ裁判で、過去に遡って課税するのは「法律不遡及」の原則に反するし、「不当な財産の剥奪からの保障」を定めたアメリカ大統領の行政命令にも違反するから、サンマに課税した物品税を返せと主張した。訴えられた琉球政府は「アメリカ側が出した布令や法令に対して、琉球政府の裁判所には審査権がないから、米国民政府が改正した布令がたとえ大統領の命令に反していても、琉球政府は従うしかない」と反論していたが、中央巡回裁判所は1965年10月に下した判決で、琉球政府の裁判所にも法令審査権はあるとしたうえで、「サンマへの課税を遡及させるのは無効」だとして法令改正以前の物品税を払い戻すように命じた。
沖縄人の裁判官(琉球政府の裁判所)が下した判決で、サンマへの課税は2度続けて敗訴したわけだが、怒ったワトソン高等弁務官は「琉球の裁判所には任せておけない」と、66年6月に米国民政府裁判所への移送、つまりアメリカ側の裁判所でアメリカ人の裁判官が裁くように命令した。
ちょうどその頃、1965年11月に行われた立法院(琉球政府の議会)選挙でトップ当選した友利隆彪氏が、開票直前に「立候補資格なし」とされて当選無効にされた事件が起きていた。その理由は友利氏がかつて選挙自由妨害罪で罰金50ドルの判決を受けたことがあり、「重罪や破廉恥罪に処せられた者は立候補できない」という布令に抵触したというものだったが、他の候補者は不法滞在罪や戦時刑法違反で罰せられたことがあっても当選を認められたのに、沖縄の祖国復帰(日本返還)を掲げた沖縄社会大衆党の候補者だった友利氏が資格取り消しと言うのは、アメリカ側による政治弾圧だと反発が高まり、中央巡回裁判所では「参政権に対する不当な制限だ」と布令の無効と友利氏の当選を認める判決を下していた。ワトソン高等弁務官はこの友利裁判も米国民政府裁判所への移送するよう命令した。
琉球側の裁判所の判決が気に食わないと、高等弁務官が強権を発動してアメリカ側の裁判所に案件を移してしまうことは、沖縄の司法権や自治権の侵害、さらには沖縄住民の基本的人権に対する侵害だと映った。さらにアメリカ統治時代の沖縄では米軍兵士による交通事故や暴行事件がアメリカ側の軍裁判所で裁かれ、被害を受けた住民の訴えが退けられてしまうという事件が繰り返されていた。サンマへの課税や本土復帰を要求する議員の当選資格も、アメリカ側の裁判所が裁いたら、アメリカに都合の良い判決が下されるに違いないという危機感も広がった。
かくして沖縄では、それまでの祖国復帰要求運動とあいまって裁判移送反対の声が急速に巻き起こった。全ての沖縄人裁判官が抗議声明を出し、琉球政府の立法院や市町村議会も抗議決議を挙げ、抗議集会には数万人の住民が集まるなど、サンマ裁判・友利裁判の問題はまさに島ぐるみ闘争と呼ばれるほどに拡大した。
6.20 琉球政府の全裁判官が裁判移送命令に抗議声明。琉球法曹会も裁判移送命令の撤回を決議
6.21 琉球立法院が「移送命令は民主主義に反し県民の裁判権を侵害する」と、裁判移送命令の撤回と司法自治の拡大要求を決議
6.23 裁判移送撤回要求県民大会を開催。沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)はに本の衆院議長へ直訴
6.28 28団体が「裁判移送撤回要求共闘会議」を結成
6.29 裁判移送撤回要求の座り込み開始
6.29 琉球立法院、裁判移送命令撤回を要求する日米両政府あて決議を採択
7.7 日弁連が裁判移送命令に抗議声明
7.8 裁判移送撤回要求県民大会を開催
8.1 裁判移送撤回要求県民大会を開催
8.16 裁判移送撤回共闘会議が沖縄訪問中の森総務長官に裁判移送命令の撤回を請願。復帰協は沖縄の即時無条件全面返還を直訴
9.21 復帰協が裁判移送撤回の要請を立法院議長、行政主席、米領事館に行なう
10.4 裁判移送撤回要求県民大会が開かれ徹夜で座り込み
10.5-10.6 米民政府裁判拒否抗議集会
10.10 宮古島で米民政府裁判拒否の郡民大会
11.2 新アンガー高等弁務官に対する抗議(裁判移送問題)大会67年春の祖国復帰要求デモ(那覇)。異民族支配はまっぴら!ですね沖縄住民による抗議の嵐を前に、ワトソン高等弁務官は「布令無効判決を容認すれば米国の琉球における義務を放棄することになる」「沖縄の民主主義は20年だが、私は50年以上民主主義を経験している」と強気の発言を繰り返していたが、反米運動の拡大を恐れたアメリカ政府によって更迭されてしまい、代わって着任したアンガー高等弁務官(※)の下で、サンマ裁判と友利裁判は66年12月に米国民裁判所で判決が下された。
アメリカ人の裁判官は、友利氏の当選を認め、サンマに対する課税は「物品税の課税項目は一例を挙げたものに過ぎず、『サンマ』という項目がなくても課税は有効」だと払い戻し請求を退けたが、琉球政府の裁判所による法令審査権は認めることになった。
※新任の高等弁務官の着任式では、牧師によって祝福される慣わしがあったが、アンガー高等弁務官は着任式で平良牧師に「神よ、このアンガー高等弁務官を最後の統治者とならせたまえ」と祈られてしまった。またアンガー高等弁務官は「沖縄の自治権拡大に努力する」と記者会見で発表したが、12月にアメリカ国務省の沖縄問題調査委員会がまとめた報告書では、自治権の拡大は暫定的なもので、5年以内に何らかの形で沖縄を日本へ返還すべきと提言された。沖縄の本土復帰運動といえば、米軍基地に対する反発に焦点が当てられがちですが、サンマ裁判のような異民族支配による理不尽さも、沖縄の住民にとって祖国への復帰を求める大きな原動力となったわけですね。
※アメリカ統治時代の沖縄については、飛び地の運営実態や『守礼の光』、奄美群島、委任統治領と信託統治領も参照してくださいね。
●関連リンク
米軍統治下の沖縄における司法の実践 琉球大学の与那覇新氏による論文(PDFファイル)
沖縄県公文書館―高等弁務官たち 歴代の高等弁務官の紹介