そういう精神を藩の中核に置こうというのが、細井平洲の教えであったわけです。
ただ「譲る」だけではないのです。
いまでも普通の日本人は、たとえば被災地にあっても互いを敬(うやま)い、譲り合います。
日本人の避難施設内では、暴行も略奪も起こらない。
みんなが自然と互いに協力し合います。
自衛隊の隊員たちは、被災地にあって、温かな食べ物は被災者たちに分け与え、自分は冷たい携帯口糧の缶詰を食べている。
これも、まさに「興譲」の精神です。
しかしそれらの行動は、同時にそれ以外の行動を許さない、つまり自分さえ良ければと自己の権利ばかりを主張したり、並んでいる列に割り込んだり、自分ばかりが贅沢をするといったことを一切許さないという精神的基盤の上に成立します。
武士はそのために腰に刀を二本差します。
眼の前で不条理が行われれば、みんなのために問答無用で相手を叩き切るのが責譲です。
そうすることで興譲を実現するのです。
明治以降の日本は、武士という制度が廃止となりましたが、社会にはこうした武士の存在は不可欠です。
それは犯罪の取り締まりをする警察とも、また違った、社会における大きな役割です。
その役割を担う人材を育成するために置かれたのが、かつての師範学校です。
師範学校の卒業生は、社会における立場や地位に関係なく、人の道を、世の道を説き、実行し、不正を許さないという確固とした信念を持つ人々として社会に配置されていったのです。
そしてそれが正しいこととされる文化があったからこそ、外で悪さをしている子供がいたら、近所のおっちゃんやおばちゃんが、「コラッ」と彼らを叱ったのです。
戦後は師範学校がなくなり、教育大と名前が変わりました。
結果として、街中での悪事は、目の前にあっても野放しになっています。
このこともまた、戦後社会の大きな欠陥のひとつだと思います。
「自分さえ良ければ」というのは、「思い上がり」であり「自己中」です。
相手のことを考えず、自分勝手な思い込みだけで相手を批判し中傷し断罪する。
「思い上がる」というのは、「自分が人よりも上位にある」とばかり、「相手を見下す」行いです。
カンボジアのPKOで自衛隊が出動したとき、辻本某美はピー◯ボートと称する船を繰り出して現地の自衛隊の駐屯地に行き、そこで「あなたたちはコンドームを持っているでしょ、出しなさい!」とばかり復興支援のために汗びっしょりになって働く自衛隊員のポケットを勝手にまさぐったそうです。
隊員たちが唯一の楽しみにしていた数少ない缶ビールを見つけると、「こんなものを隠してた」とのたまって、そのビールを勝手に飲んでしまった。
阪神大震災のときには、災害支援のボランティアと称して2トン車に荷物を満載して現地にはいったけれど、そのトラックの荷台から出てきたのは、印刷機とチラシ。
チラシには「災害時でも自衛隊の活動を許してはならない」と書いてありました。
要するに自分勝手な思い込みだけで、まじめに働く自衛隊員を批判し、断罪する。
これこそ思い上がりです。
その思い上がり議員が、かつて民◯党政権のときに、東日本大震災のボランティア担当大臣になりましたが、理由は「ボランティアの経験が豊富」だからなのだそうでした。
どうして「豊富」といえるのか不思議に思ったら、なんと上に述べたピー◯ボートでの経験を指していたのだそうです。
とんだ茶番です。
茶番ではありますが、世界の国家と国家の関係は、実は、こうした辻元ばりの概念のなかで動いています。
要するに「自分さえ良ければ」です。
残念ながら世界には興譲の精神も、主義もないのです。
世界における国家が、いわゆる国民が中心となる国民国家となったのは、19世紀に登場したナポレオン以降のこととされています。
それまでは、国家は国民のもの、という概念自体が、世界には存在していません。
それまでの世界を構成していた(もしかしたらいまでも構成している)のは、王による所有の概念だけです
言葉を変えると「王権」といった言葉になるのですが、要するにそれらは端的に言えば、「上の人が下の人を所有する」ということを意味します。
つまり下にいる人は、上の人にとっての私物以外の何者でもないのです。
ですから当然のことながら、そこに人権などありません。
上に立つ人は、財力と武力を独占し、財の極大化を図るために武力を用いていたものが、かつては「ネイション(nation)=国」と呼ばれるものでした。
要するに、より巨大な財力を生むために、武力を動員して、さらに自己の財を増やそうとする。
そのために領土領民を支配するし、他国に財があれば、それを奪うということが、国家の根幹になっていたわけです。
そしてそのことは現代世界においても、実は同じです。
国民国家を名乗ってはいても、あるいは正義を説いていたとしても、実態はその国のエスタブリッシュメントと呼ばれる一部の大金持ちが、自分の財をより増やすために、国民を騙し、教導し、カネと武力を用いて人々を支配し、他国の富や財を奪うことで、より一層、自己の財を増やそうとしているだけのことです。
富というのは相対的なものです。
他人よりも豊かであるというだけのことにすぎません。
おもしろいもので、焼け野原を経験した戦後の日本人は、いま、戦前の超高級セレブたちよりも、普通の庶民が良い暮らしをしています。
みんなでつくる快適な社会というものは、やればできる、その気になれば実現できるのだということを、なんと戦後の日本人は見事に証明してしまったのです。
細井平洲は、「先施の心」が大切だと説きます。
「先施」というのは、先にほどこす、ということです。
人が何かをしてくれるのを待つのではなく、まず自分から施しなさい、ということです。
自分から施すと、では誰もが喜ぶかと言うと、世の中というのは決してそのような単純なものではなくて、あちらたてればこちらたたず、かえって何かと批判の的になる。
それでも常に進んで「先施の心」を持ちなさいと細井平洲は説いたわけです。
ちなみに江戸時代には、この思想は、ある意味一般的に大きな広がりを持っていたもので、これを「施行(せぎょう)」と言いました。
人に施すことは、一見すると施した時点では自分が損をしたように感じてしまうけれど、まわりまわって自分も豊かになることができる、という思想です。
戦後、日本企業は東亜の諸国にすすんで進出しました。
それらの諸国は、先の大戦後に独立を果たした国でしたが、独立は果たしたものの、国は貧しく、いつまた国家が崩壊してもおかしくない苦しい状況にあったわけです。
そういうところに、日本企業は次々と進出し、現地の人々を雇用して、世界に向けて製品を製造していきました。
結果として、東亜諸国の経済が活性化し、人々が財力を付け、財力を付けた人々が消費者となり、企業はますます発展するという結果を招きました。
これが「先施の心」です。
19歳で米沢の藩主となり、これからどのようにしたらよいかと教えを請うた上杉鷹山に、細井平洲が説いたのが、次の言葉です。
「勇なるかな勇なるかな。
勇にあらずして
何をもって行なわんや」
まずは勇気を持ちなさい、というのです。
その勇気を持つためには、覚悟が大切です。
施行(せぎょう)を行うにしても、そこには覚悟が必要なのです。
細井平洲は、愛知県東海市荒尾町の農家の次男坊として生まれました。
享保13(1728)年のことです。
幼いころは、地元の観音寺の義観和尚について学びました。
相当な悪童で、和尚さんに叱られては、何度も木に吊るされたそうです。
きかん気の強い、ワンパク少年だったわけです。
このエピソードが、吉川英治の『宮本武蔵』の幼年時代の描写に転用され、また本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』でも、紹介されました。
それらのモデルは、いずれも細井平洲です。
元文2(1737)年、平洲は若干10歳で名古屋に出て学び、15歳で京都に遊学しました。
ところが、高名な先生方は、みんな江戸に出ていて、当時の京都にはいない。
そこで翌年には、名古屋に帰って中西淡淵に師事します。
平洲16歳のときです。
中西淡淵は、平洲に長崎遊学を進めました。
17歳で長崎に遊学した平洲は、清国人の教師に就いて漢学を学びました。
漢学の素養を身に付けた平洲は、これを実践に役立てようと、24歳で江戸に出て「嚶鳴館(ろうめいかん)」という私塾を開きました。
長屋で始めた私塾です。
世の中はそうそう甘いものではなく、若すぎる学者ということもあって、なかなか弟子がつかない。
塾は、生徒がいなければ収入がありませんし、ようやく生徒になってくれた人も、なにせ長屋くらしの貧乏な人々です。お金にならない。
それでも近所の長屋の住人や子供たちを相手に、平洲は誠実に学問を説き続けました。
人というのは、良いものはわかるものです。
誠実に学問を説く平洲のもとには、次第に多くの人が集まりはじめました。
中には、れっきとした藩の若侍たちなども、平洲の教えを求めて集うようになってきたのです。
こうして次第に平洲の「嚶鳴館」は、江戸で有名な私塾に成長して行きました。
けれど授業料の督促をしない平洲は、相変わらず貧乏なままです。
人は理屈よりも財に群がります。
この場合は、誰もが自分が得をしたいと思っていますから、中傷はありません。
けれども理屈に人が群がると、必ず起きるのが中傷です。
平洲は長崎で学問をおさめたとはいっても、もともと貧農の子です。
「たかが農民風情に学問など語る資格はない」
「所詮は学者もどきの青二才であろう」
「古今の漢書を集めただけの寄せ集めたいいとこどりの俗説にすぎない」
「学問を金もうけに利用しようとしている不届き者」
等々、平洲は盛んに攻撃を受けるようになったそうです。
平洲自身も悩みました。
自分はこのままで良いのだろうか。
数える弟子もけっして多くはない。
授業料を払える者も少ない。
貧乏しながらこのまま江戸にいて将来どうなるのだろうか。
けれど平洲は思いました。
死んだ母は、決して楽ではない生活の中で、幼い平洲のために、学費や遊学の費用を出してくれた。
「おまえは世のため人のために役立つ立派な学者に必ずなれる」
と信じてくれました。
母の恩に報いるためにも、ここでくじけてはいけない。
学問で身を立て、世の役に立とうということは、他の誰でもない、自分で決めたことです。
ならば日々前進するしかない。
どんなに苦しくても辛くても、この道を進もう。
そうした姿勢で日々を送る平洲の名は、次第に有名なものになっていきます。
そして西条藩(愛媛県)、人吉藩(熊本県)、紀州藩(和歌山県)、郡山藩(奈良県)などから、藩の賓師として迎えられるようになっていきました。
ところが次第に名声を得ても、平洲という男は、どこまでも謙虚です。
塾生が来ると、まず自分から進んで生徒たちに声をかける。
はたからみていたら、どちらが生徒でどちらが先生かわからないくらいだったそうです。
平洲は言いました。
「上の者が、下の者から働き掛けてくるべきだなどと思っていたら、お互いがにらみ合っているような状態で、下の者は寄り付けない。寄り付く心がないと、親しみを持てず、間を隔だたる。これが結局は仲たがいのもとになる。」
こうして平洲は、どんなに名声が高まっても、身近な町民から身分の高い武士に至るまで、分け隔てなく学問を説き続けました。
けっして偉ぶるというところがなかった。
こうした平洲の姿勢に、心を打たれた武士がいました。
宝暦13(1763)年、平洲が35歳になった頃のことです。
その武士が、米沢藩の家臣でした。
彼は、米沢藩の藩邸に帰ると、そこで周囲の者に平洲のすばらしさを語りました。
「平洲先生の教えは実学を重んじるものです。
経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的としています。
世の中に真に役立つ学者がいるとすれば、
それは平洲先生のことだと思います」
その話が、藩主の元に届きました。
そしてそれほどまでに立派な先生なら、次の殿様になる治憲(はるのり)の先生になってもらおうではないか、ということになりました。
それが、後の上杉鷹山です。
ここには実は藩の財政事情もありました。
米沢藩は、上杉家です。
言わずと知れた上杉謙信の家系です。
上杉家の米沢における石高は15万石です。
そこに会津藩120万石時代の家臣6000人を連れて転封されてきていたのです。
当然、藩の財政は火の車です。
やりくりをするために借財を重ねた結果、すでに藩の借金も20万両に達していました。
要するに藩には、値段の高い著名な学者を招くだけの経済的余裕がなかったのです。
けれど、そこそこ高名で立派な学者を招かなければ、藩の名にも傷がつきます。
その点、平洲先生は貧乏塾長であり、そのくせ各藩に招かれて教師を務めた実績もある。
現実問題として平洲は、上杉家にとって、ちょうど良い存在であったわけです。
こうして細井平洲は、米沢藩江戸藩邸のお抱え文学師範となりました。
そして当時14歳になる上杉治憲(のちの鷹山)の教師になりました。
平洲は、治憲公に「学思行、相須つ(がくしこうあいまつ)」と説きました。
これは
「学び、考え、実行する」
その三つが揃って、初めて学んだことになるという教えです。
そして藩の財政を立て直そうとするならば、まず、殿ご自身が手本を示すべしと説きました。
同時にすぐれた人材を育てよ、とも説きました。
鷹山は、この教えの通り、新藩主に就任するとすぐに民政家で産業に明るい竹俣当綱(まさつな)、財政に明るい莅戸善政を登用し、江戸藩邸における藩主の給料もそれまでの1500両から、いっきに209両に削減しました。
藩内に漆や桑の木を植えて、米沢の特産物を増やしました。
また、鯉の養殖を奨励しました。
こうした様々な努力によって、藩の財政は徐々に回復し、浅間山が噴火してはじまった天明の大飢饉に際しては民衆のために蔵米の放出ができるようにもなりました。
けれど鷹山自身も、自ら粥(かゆ)をすすって倹約に努めています。
藩士たちの給料は、全藩士一同が、減俸となりました。
けれどその分、すべての武士たちが自ら畑を耕し、植林をし、鯉を養殖して不足する家計をうるおすことができるようにしていきました。
こうした一連の施策の実施の根幹にあったのが「興譲」です。
「興譲」は、ただ施行(せぎょう)をするというだけではなく、そこには、「それ以外の私物化私有化を一切許さない」という「責譲」の精神が同時に備わる。
これがあってこそ、はじめて武士の仕事となります。
寛政8(1796)年、鷹山と出会ってから、32年目。
上杉鷹山は、江戸にいる細井平洲を米沢に招きました。
鷹山は、わざわざ城から10キロも離れた普門院というお寺まで、平洲を出迎えました。
そして鷹山の治世50年の間に、藩の借財は全額完納となりました。
藩の財政は完全に健全化したのです。
後年、安永9(1780)年、平洲は53歳で、徳川御三家筆頭の尾張藩に招かれました。
そして藩校明倫堂(現、愛知県立明和高等学校)の学長になりました。
百姓の小倅(こせがれ)が、徳川御三家の教育掛の学長に就任したのです。
江戸時代の身分制が、世界にあるような固定的なものでなかったということは、この一事をもってしてもあきらかです。
学長就任後も、平洲は、請われればどこにでもでかけて行って、身分の差なく、百姓町人たちにも、わけへだてなく学問の素晴らしさ、学び、考え、実行することの大切さを説き続けたそうです。
享和元(1801)年、細井平洲は、73歳でこの世を去りました。
いま、平洲の墓は、米沢市の松岬神社に、上杉鷹山とともに祀られています。
※この記事は2011年3月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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