| 奉天は、満州に広々と広がる平野の中にあります。奉天は渾河を持ち、この北岸に市街地が広がっていました。 そして奉天は長い歴史を持つ城郭都市で、重厚な城壁に囲まれていました。 奉天は、満州最古の都で、古くは渤海時代に瀋洲、元朝は瀋陽、清朝は首都を置いて盛京と改称し、今日の奉天の基礎を作りました。 奉天は、かつて三重の城壁で囲まれていましたが、時間の経過と共に崩壊してしまいました(満州国時代の地図では、二重の城壁しか記されていない様ですが、これが最外周で内側の城壁が失われたのか、最外周の城壁が残っていなかったのかは、判明しませんでした)。満州帝国の建設当初、城壁には、八つの門の跡が残っていました。 さて、かつての奉天の城壁内は、人力車すら通れないほどの雑然とした町並みでした。住む人が勝手に家を立て続け、ごちゃごちゃとした街となってしまいました。 満州国は奉天に大規模な都市建設を行いました。まず、城外に区画の整った新市街の建設が進められました。そして城内も都市計画にそって区画整理が進められました。 城壁に囲まれた古くからの街、そこに隣接して作られた新都市。これが並んで同居する奉天は独特の雰囲気を持っていました。 | | | |
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| では、まず古都の奉天を見てまいりましょう。 まず、数ある門の中から小西邊門です。 門のアーチに四つほど円があり、そこに文字があり、「陪都重鎭」と書いてあります(右から左へ読む)。 「陪都」とは副都のことで、首都に準ずる予備の首都、そして「重鎭」は重要な都市、要衝のことです。 つまり「陪都の重鎭」という意味になります。 奉天(今の瀋陽)は、満州族が明を滅ぼすまでの根拠地で、明を滅ぼして北京を占領し、清を立てると、北京を首都とし、同時に奉天を副都としました。 だから清代において「陪都」は奉天を指すわけです。 奉天には、今日も残っている故宮がありますが、それもこうした経緯によるものです。 ここ奉天は、かつて支那人を排した満州人による要塞都市でした。しかし清代には中国文化が主流となる、いわゆる"支那化"が進み、時の経過と共に満州人の文化は廃れ、満州語すら廃れてしまいます。これは奉天に限ったことではなく、満州国が出来たときは、満州皇帝は勿論、役人らも満州語が話せる人は、ほぼ皆無だったとのことです。 そんな中、奉天は特に産業も無いまま、歴史ある故宮も含めて、廃れ荒れていたとのことです。 | | | |
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| 先ほどの左下を見てみます。 まず右側、馬車の荷台には木の樽が載っています。 満州や中国では、入れ物に甕(かめ)を多用します。 漬物、食料、酒をはじめ、さまざまな飲み物の類はすべて甕です。樽は珍しい印象があります。 これら、たくさんが運び込まれていますが、想像しますに、これらは塩漬けの食料、肉や魚ではないでしょうか(甕に入れる場合もあるのでしょうけれども)。 あるいはセメント樽かも、と想像しました。しかし、セメントが今日あるような紙袋に入れられるようになったのは昭和以降で、樽より手軽なので急速に普及したらしいのと、セメント樽の場合、留め金・かすがいが金属の太いものでできている場合が多く、この樽とは違った形でもあり、セメント樽ではなさそうです。 また画面左側、満州特有の一輪車と、子供づれの露天商が見えます。売り物は木の実(りんご?)に見えますがいかがでしょか。 また、当時はこうした児童労働はすくなからずあったようです。 当時は総じて貧しく、日本でも、やはり今日のように豊かとは言い難い時代でもありました。 日本国内での話ですが、昭和の初頭、当時子供だった方が、村の空き地で芝居を始めた旅芸人の子供と仲良くなって、テントの裏で遊んだりしたことがあるそうです。で、親の勧めで、要らなくなった教科書をあげたら、たいそう喜んでもらえたとか。学校へ通うことはおろか教科書も買えない、そんな一団だったわけです。ある日、学校から帰ると、旅芸人はすでに出発していて、お別れの挨拶もいえなかったとか。国が貧しかった分、教科書の価値も高かったともいえると考えます。 | | | |
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| 奉天は、特徴として、古い歴史を感じさせる都であることが上げられます。 そうした印象のある写真も多く、このことから他の満州の大都市、大連、新京、ハルピンと大きく異なる特徴を感じます。 画像は重厚な城壁と整備された町並みを写したものです。 たくさんの人力車や馬車が行きかい、トラックも見えます。キャプションには 『雄大なる奉天城の城壁、大西門は交通頻繁の緩和策として城壁の中央を切り開き、新開路にした。』 とあります。 満州国設立後、活気を伴って発展している奉天ですが、比例して交通量も増えたのでしょう。 園内は奮道小西門で、路面電車が見えます。この路面電車は奉天駅からずっと伸びてきているものです。 | | | |
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| 先ほどの奉天城門付近の風景です湯気の立つ露天で食事をしています。服装から冬場の撮影の様です。食事の内容はわかりませんが、粥をすすっているように見えます。 左上に先ほどの写真の城壁が見えます。ここは路面電車も通る目抜き通りで、大勢の人々が見えます。 | | | |
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| 先ほどと同じ場所から。大きく立派な城壁は、建物よりもはるかに高いものです。 広々とした道路には、人力車、馬車、自転車が見えます。大連より自動車が少ない印象がありますが、交通量は多そうです。 街灯も見えます。また写真には写っていませんが、この通りに信号機を設置した写真もあり、それは道路の真ん中に立っているデザインです。 | | | |
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| 奉天城内にて最も繁華な四平街の風景、城内の繁華街です。 どっしりと重厚な、中国風のビルが立ち並んでいます。 大勢の人々が行きかっています。 電線が煩雑に配置されております一方で、街灯はみあたらず、未だ施工されていないようです。 | | | |
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| 奉天城内の四平街です。大商店の集う城内でもっとも人が集う繁華街です。 こちらには街灯が見えますが、電柱と一緒に煩雑に立っている印象があります。 | | | |
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| さきほどの画面右下をクローズアップします。 興順百貨商場と読め、デパートであることがわかります。 | | | |
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| 「満州人街の繁栄」とキャプションにあります。白黒に後から色をつけた彩色写真です。当時の色をどこまで反映して色が塗られているかはわかりませんが、おそらくビルや看板など目立つ色合いで、それを反映させたか、と想像しています。 この大勢の人々がどやどやと行きかう感じが写真でのこっているのも、奉天ならでは、とも感じます。 | | | |
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| 先ほどとおなじ建物です。 通りを見下ろすベストアングルで、大勢の満州国民らが行きかっているのがみえ、四平街と四平街百貨店周辺の賑わいがわかります(脚立か何かの上から撮影しているのでしょうか)。 | | | |
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| 広い通りに中国風デザインのビルが立ち並び、はるか遠くには城門と思われす壁と屋根が見えます。 歩道もある広い道路には大勢の人力車が行きかっています。 右上のスタンプに奉天吉順絲房百貨商場とあり、訪問時のスタンプでしょう。もしかすると、その百貨商場で購入した絵葉書かもしれません。 左にある背の高い建物は、スタンプと同じ円形のドームが頂上にありますので、これが吉順絲房百貨商場でしょう。 さて通りの上、左右の建物の間に電線がいくつもはられているのが見えますでしょうか(画面中央を左右に横切って黒い線が移っています)。しかも電球が並んでぶら下げられています。夜間には通りを覆う電飾になったのでしょう。 | | | |
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| ぎっしりと建物が立ち並んでいます。瓦葺の屋根には、すべて煙突が見えます。 右上、通りに門が見えます。 | | | |
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| では城内のさまざまな門をみてみましょう。 歴史を感じさせる重厚な門がいくつもあります。 さて、この門の左側の柱に、電線がいくつも縛り付けるように固定されているのが見えますでしょうか(電線の束が二つ見えます)。右側にも電線があり、壁に影が映っているのでお解かりいただけるかと思いますが、塀の上に置いてあるようにもみえます。 旧来からある街に急に電化されたため、こうした煩雑な電線の這い回しとなっているのでしょう。 | | | |
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| 商人の馬車が通過するところです。 キャプションには、門の名称の記載がありませんでしたが、城内にはこうした門がいくつもあり、町並みを写した写真には、多くの門が見えます。これらの門は、区画整理にあたって修復がなされたそうです。 | | | |
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| 同じく城内の門で、よく似たデザインです。 人が多く行きかい、雑然とした感じがします。 右上、仁丹の看板と靴が描いてある看板が見えます。 | | | |
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| 奉天の、かつての盛況を感じさせる西塔です。 上には草が生え、荒れています。 土台には彫刻が施され、頂上にも傘と像が載せられており、凝ったつくりです。 | | | |
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| では、今度は新市街地をみてみます。 まずは奉天駅とプラットフォームを。 右義側に見えます、ドームの付いた駅舎は今日も現役で駅舎を勤めています。 | | | |
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| 旅客列車が奉天駅へ到着したところです。8両編成です。 機関車、そしてその後ろは郵便車と思われますので、残り6両が客車でしょう。 影が長く伸びています。もしかして早朝の到着でしょうか。 | | | |
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| 奉天瀋陽駅です。ドームのある特徴のある駅舎です。 ちなみにこの駅舎は、今日も取り壊されず利用されています。 奉天駅前は、騒々しい馬車(マーチョ)や洋車(ヤンチョ)の呼び声で満ちていたそうです。写真にも写っています。満州の主要な交通手段のひとつでもあるので、どの都市でも駅前は同じです。が、ハルピンは写真でみるかぎりタクシーが並んでいましたし、新京のバス停がありました。 馬車がぎっしりというのは、奉天らしさなのかもしれません。 奉天駅からは奉天公園ロータリーに続く浪速通り、千代田通り、平安通りがあります。 左端に路面電車が通っています。電車や架線の支柱は大連等の都市と同じデザインに見えます。 奉天駅は、駅舎の二階が待合室でした。さらに画像の駅舎直ぐ右にある一階建ての建物も待合室で、これは三等待合室です。 奉天駅から東側、写真の手前側にのみ市街地が広がっております。 この駅の向こう側は、鉄西と呼ばれる工業地帯です。大小さまざまの工場が立ち並び、消防署や小学校なども出来ます。この鉄西は、市街地建設に若干遅れて発展したようで、最初は火葬場やお墓がありました。 写真でも駅の向こうに、かすんでいますが、建物の並びが見えます。 この工業地帯は発展を続け、奉天は工業都市として発展します。 | | | |
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| 奉天駅川から広場、そして新しい市街地を見ています。駅前を中心に、堂々のビルが立ち並び、活気を感じます。先ほどまでみてきました城壁の外はロータリーもある区画整理の行き届いた市街地で、奉天駅は城壁のある旧市街地からみて新市街地の反対側にあります。 先ほどの写真で右下に見えていたビルは、左端にあります。おそらく駅舎からの撮影でしょう。 正面に見えます大通りが浪速通りです。遠くまでまっすぐの幅広い道路が伸びています。 今日の車社会でも充分な幅の道路です。 向かって右側のビルの中に、ジャパンツーリストビューローがあります。主要な都市の駅前にはほぼ、ジャパンツーリストビューローの支店があります。 | | | |
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| 先ほどのビルを別の角度から。日本語の看板が増えており、先ほどの写真よりは時間が経過している様です。 | | | |
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| さらに右側のビルをピックアップしています。 ジャパンツーリストビューローの看板が見えます。また上の階の窓には日よけが追加になっています。 満州の大都市、ハルピンや新京や大連にはそれぞれの街の雰囲気がありましたが、こちら奉天も、奉天ならではの雰囲気があったようです。当時の文章にも『一種の言ひ得ない圧迫の様なもの、それがこの都のもつ幾千年の歴史の力であつたかもしれない。』とあります。 | | | |
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| では奉天の市街地を駆け足で見てみます。 当時の書籍に『瀋陽の日本人町はその立派さに西洋の旅客も驚かせる。55メートル幅の淡々たる大道路に赤レンガ、中央広場を取り巻いて、ヤマトホテル、病院、医科大学、公会堂、警察署、正金銀行などの高層美麗な堂々たる建物が並ぶ。』 とあります。まさに計各都市、新市街です。 これは、奉天以外の主要都市でも同じで、東京市長の都市行政顧問であったベヤード博士(関東大震災後の帝都復興事業にも参加した都市計画の第一人者)も、満州視察で『日本国内は貧弱なのに、満州は欧米に劣らず道路衛生教育施設のごときは、はるかに新式である。』と驚いています。 | | | |
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| 満鉄の建物でしょうか。鉄路総局とあります。 ただ満鉄の奉天支局は別の建物です。最初はこの建物が満鉄の総局であったものと思われます。 | | | |
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| 奉天駅からまっすぐ伸びる浪速通りの先に大きなロータリーが設けられており、このロータリーにそって満鉄医院があります。先ほどの建物と同じデザインで、もしかすると建物を流用したのかもしれません。 この画像ではロータリーとロータリーに面した赤く塗られた棟だけが見えますが、この左右と後ろに数棟の病棟がある、非常に大きな病院です。またこれに隣接して満州医科大学と医科大学付属の寄宿舎がありました。 | | | |
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| 満鉄の病院です。 手前には自動車と人力車が見えます。 | | | |
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