| 軍閥闘争の激しい政情不安な中華民国からは大勢の移民が満州へ移住した、と当時の書籍にあります。 『満州の民には支那、特に山東地方(中華民国三東省)からの移住土着したものが多く居る。 彼らの多くはツバメのごとく、春に来て冬に故郷に帰っていく。が、そのうち幾分かづつはそのまま土着して、荒れ野を勝手に耕し土着農民となり、ある者は労働者となって要る。 写真は彼らの大群が大連へ上陸し汽車を待つ間の憩い。』 ぎっしりと見渡す限りの人です。疲労と不安が彼らの表情に見られます。 | | | |
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| 大連から奥地へ向かう移民 大連日本橋でしょうか。 歩いている人々は、何名かあちこちを見ながら歩んでおり、 やはり不安を感じている風に見えます。 | | | |
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| 『果てしの無い広野のみちを、妻は子を背負い、夫は家財道具を背負って黙々と巡りいく。』 長い列をなして、移民が移動しています。荷物も最小限の様です。 皆、黙々とうつむき加減で前を向いて進んでいる様です。 | | | |
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| 『彼らはまず大急ぎで写真の様な住居を作る。アンペラ(日覆い)の屋根と床。』 地べたに簡易なテントを立てて住まいとしている様子です。 そのテントの背は低く、暗そうで、そして大変粗末に見えます。 | | | |
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| 地べたに粗末な棲家です。 屋根の素材は、薦 (こも) や布、などいろいろなものが寄せ集めになっています。。 子どもは坊主か、あるいは短く切られている様です。 恐らくは衛生面からでしょう。髪の毛を短く刈り込んで、しらみ(虱)などが付くことを避けるわけです。 | | | |
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| 『北満広野の開拓者は蒙古人やロシア人ではない。山東や河北から年々移動してくる六十万から八十万の居住民によるものである。 耕作には先ず家が必要だ。 泥で家屋が塗り上げられ、その家が4~5件集まれば、銃眼を持つ物見やぐらが築かれ、やがて砂漠に一筋の道が踏みつけられる。』 北満州への移住の例です。 銃眼とあり、ここから銃が撃てることがわかります。これは匪賊対策の防御で、自らの生活を守るため武装し、家屋に要塞としての機能を持たせていることがわかります。 こうした泥の家は、満州の広野ではわりとあったのでしょうか。兆南方面でも、こうした泥の家が撮影されています(兆南の兆は、本来はさんずいに兆です)。 | | | |
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| 牡丹江周辺は、朝鮮半島移民らによる稲作が盛んでしたが、中華民国(いわゆる支那)からも多くの移民が満州で農業を始めていた様です。 手前に水田が、そして壁を持つ大きな家が見えます。 | | | |