| さて、こちらからは満州の女性の画像を紹介いたします。 ファッションを嗜む女性の姿が写しだされています。 | | | |
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| 『サクサンの本場のせいか、この女性は着ているものも上等で綺麗な気がする。』 モガとはモダンガールのことです。 後ろの人物はチャイナドレスに見えます。髪型は当時の流行でしょうか、ボブヘアーです。 サクサンは、別途、産業でも紹介しております満州の蚕です。 手前も女性のようで、こちらはズボンにも見えますが、画像が不鮮明でわかりません。 | | | |
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| 満州の近代婦人 『派手な絹のストツキングにシヨート・ボツブの満州の近代婦人』 とキャプションにあります。 足元からこだわりのファッションで、ストツキングには刺繍もみえます。 同じ頃、日本でもお見合いの相手を気に入った男性が、デートに誘うのに上等の足袋を持っていたという話もあり、足元からのファッションは日本も満州も同じの様です。 ボツブとはボブヘアー(ボッブ)のことで、どうやらこうしたショートヘアーが流行したようです。 さらに、キャプションには女性像についても触れられています。 『時代の波は何もかもを推進した、かつて纏足をしてまでも小さい足を誇った人達が、今度は反対に足に大を誇る次代が来るとは誰が保証し得よう。うららかな日を今日も微笑む乙女達よ。』 こちらの写真の女性はいずれも纏足ではありません。一方で、なかなか良い靴に見えますがいかがでしょうか。 | | | |
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| 折角ですので、足元をクローズアップしてみます。 戦前からストッキングが普及し始めました。当時はシルク(絹、生糸)製です。 満州でも欧米から輸入して導入か、と思われます。一方、足袋で有名な福助(フクスケ)が戦前に生産を行っており、もしかすると満州でも福助製のものが普及していたかもしれません。 かつて洋服のストッキングは、今日の様に丈夫ではなく、大変、丁寧に扱われました。 このストッキングについて、助言をいただきました。こちら。 『ストッキングは痛めない様に履く時は手袋をして丁寧に扱い、ガーターベルトでとめていた時代です。絹製です。おかげで日本が潤った時代がありました。そして切れたら繕って、手洗いし、と丁寧に扱ったものです。』 | | | |
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| 『一抹の憂いを眉間に秘めているところ、満州美人の特徴がある。 紙は断髪、手には細い腕時計、見たところ彼女は満州のモダンガールだが、固有の憂いは、憂鬱は拂われぬ(はらわれぬ)。頭上の樹につられたのは満州人愛養のひばりの籠。知らず 佳人樹下の小鳥にその思いを語るか否か。』 美人の産地として描かれる満州での撮影です。 どちらかというと、あまり被写体として乗り気ではなさそうに見える女性とは対象に、キャプションには相当な思い入れが読み取れます。 さて、彼女は腕時計をしております。こうした身につける時計は、当時もなかなか安価なものではなく、また小さいサイズも商品が限られました。時計は男性の場合、大抵は懐中時計であり、これは手のひらほどのサイズでした。 こちらの腕時計は随分と小さく、相当高価なものと思われます。 また服の柄ですが、明るい色の☆型が並んでおり、花柄の多いチャイナドレスでは珍しく思われます。 比較的、派手なモダンガールといったところでしょうか。 | | | |
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| ポーズをつけるチャイナドレスの女性で、安東での撮影です。 今で言えば、太めの体型ではありますが、長い間、女性の理想像は太っていることでした。これは太るほど食べられるということが大変な贅沢であった事からなのだそうです。 | | | |
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| 今度は絵画です。 満州国旗の色で満州族の象徴である黄色のチャイナドレスで、襟元には花があります。 髪はボブヘアーです。 こちらはほっそりというか華奢な体つきとなっています。 リアルに描こうとしたのでしょうか。 | | | |
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| もう一枚、絵画を。 こちらもほっそりした女性です。 | | | |
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| キャプションには『散歩』とだけあります。 満州国の美人絵葉書のひとつで、これをみましてもあまり太った人は居ないことがわかります。 左から二番目(奥側)の女性のみ洋装です。 あとはチャイナドレスで、右端の女性は花柄です。 一番手前の女性はカメラ目線で笑っています。満州国設立後はカメラがさほど珍しくもなくなっているのかもしれません。 また良く見ると皆さん、腕時計をしています(腕飾りではなさそうです)。意外な普及率です。 別途、当HPで掲載しております日本の戦時中~戦前の写真では腕時計の見えない人も多く、婦人用の小型腕時計はこちら満州の方がお洒落として定着していたとも言えます。また大いに、お洒落を楽しんでいるとも感じます。 ぜんまい仕掛けの当時の時計は当然、ぜんまい仕掛けですので、女性用の小さくて繊細な腕時計は、さぞ高価であったものと思われます。現在の時計と違い、濡らすことも落とすこともできない時計です。さぞ大切にしたことでしょう。 愛しい妻子にそれを買い与える男性の愛情が伝わってくるようです。 これらチャイナドレスは、写真でも肌理の細かい(光沢のある)布です。色もとりどりです。また写真の様に着飾って散歩するのが流行っており、当時、満州におられた女性も、美しいチャイナドレスに、子供心にもため息をついて見惚れたとあります。 ちなみに、資料によっては太平洋戦争に入った頃から戦時の雰囲気を反映してチャイナドレスの色も暗くなったのでは、とする資料もありますが、写真で見る限り、その傾向は見出せません。 チャイナドレスにお詳しい方の情報から。 『太ももの上まで脇があいていて、商売の人は素足を見せていたようですが、おとなしい家庭女性は下に、いまでいうスパッツのようなもの、クウズとも言ったのをはいてました。』 チャイナドレスのスリットからは素足は見えないわけです。 | | | |
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| 小高い場所にたたずむ女性。 背景は松花江、そして遠くには吉林の街並みがあるのですが、小さくて判別できません。 さて、こちらもチャイナドレスの女性です。 彼女の右手にはハンドバックが見えます。大きさも小さく大して物を入れられそうにはなく、ファッション目的のバックだといえます。 日本でもバッグのファッションは大正時代からあります。 モガ(モダンガール)が小さなバッグを持っているのは写真でも見かけますが、さほど普及はしていない様ですし、こちらのバッグほど凝ったデザインでもありません。 もしかすると満州の女性のほうがファッションはすすんでいたかもしれませんね。 | | | |
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| こちら、花をつむ女性も、上等そうな鞄と、小さな腕時計をしています。 さてチャイナドレスについて、助言をいただきましたので、こちらに紹介いたします。 『当時のチャイナドレスの礼装は現在のものよりずっとスリットが深く、おしとやかにしていないととんでもないところが丸見えになったそうですが、昔の中国女性は着こなしていたそうですから凄い話です。 十年前(2000年ごろ)、知人の結婚披露宴に出席した中国女性が着ていたすばらしいドレスについて、 「素材はこれでいいんだけど、ホントは結婚式出るならスリットもっと深いね。でもここ日本だし、今若い人動き方知らないからみんなこれになったね。」 と言っていました。 スリットが深いのが正装で、浅いと略礼服であるようです。そして伝統が忘れられて正装が着こなせなくなってきてしまった、と言う事情らしいです。 ちなみに列席者である彼女のドレスの生地は黒地に落ち着いたゴールドの総刺繍で、スリットの深さは腿の半分くらい、ご紹介の写真にも見られる深さです。しかし写真は街着ですものね。身幅も広く動きやすそうです。』 チャイナドレスのスリットにも意味と歴史があり、またそれは今日では廃れつつあることがわかります。 | | | |
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| チャイナドレスについて、興味深いお話を伺う機会がありましたので、こちらに紹介いたします。 『日本人国民学校の女生徒達は、近所の同じ年頃の満人のクーニャン達のチャイナ服に憧れ、同じような服を着たがっていたそうです。学校の運動会にチャイナ服を着て参加したり、・・・それほど魅力があったのでしょうね。』(クーニャン:姑娘、娘さんの意味)。 『当時の日本人の女の子は高学年になるとチャイナ服をこのんで着用していたそうです。』 『日本人女性にもチャイニーズドレスは人気があり、これはお店で誂えて着ていました。20歳代だった従姉妹の美しいドレス姿が思い出されます。』 満州国があった当時、在満邦人が、地元のチャイナドレスをお洒落だとして積極的に取り入れていたことがわかります。 『チャイニーズドレスは、日本でも女は裁縫を習うのが普通だったように、みんな家庭で縫ってました。靴も手作りです。 確かに日本でも、昭和40年後半まで婦人雑誌には服装の型紙がオマケについていて、家族の服を縫える様になっていました。満州の女性も、お洒落には労を惜しまなかったことがわかります。 | | | |
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| チャイナドレスのご婦人で、公園での撮影です。 上等そうな鞄をお持ちです。 | | | |
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| こちらは先の女性の令嬢とのことです。 こちらも上等そうな鞄を手に持っておられます。 いずれかの都市の、満鉄関連の公園でしょうか、左に満鉄のマークが見えます。 | | | |
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| 右から二番目、三番目の方がチャイナドレスで、おそらく日本での撮影です。またチャイナドレスは今日のものとおよそデザインが同じです。 さてシンプルなチャイナドレスの贅沢は、なんといってもその生地の良し悪しにかかっていました。遠く西洋からも布地を輸入し、それを買い求めてチャイナドレスに仕立てていました。 こちらの画像も2名ともフラッシュの光に映える布地で、相当に良い生地と考えます。記念撮影にあたり、張り切って相当に高価な物を仕立てたとも想像します。 満州国要人や仕事で日本に暮らす満洲国民は少なくなく、なかには相当なお金持ちもいました。満州国の学友のところへ遊びに行ったら、豪邸に門番が居たという話も伺った事があります。 チャイナドレスはもともと満州の地域のもので、それが中国全体に流行ったのだそうです。詳細は被服関連のサイトに詳しくありますので、参考まで。 | | | |
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| 上田としこ著の漫画「フイチンさん」から主人公フイチンさんです。 鮮やかに色彩溢れる満州の女性像です。 (アース出版の表紙を参考の為、引用しております)。 | | | |
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| 再びチャイナドレスです。 右側の人は左腕に腕時計をしており、また大変小さなデザインです。 左側の女性は腕に時計と、耳飾をつけています。 左に座っている女性の服は、黒い部分以外は下が透けて見えるデザインでは無いでしょうか。白黒で判りにくいのですが、足回りは特に下の布地が見えているように見え、斬新なデザインです。戦後、日本で流行った納涼スケスケルックのはしりでしょうか。 | | | |
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| 『富貴大児は実生活の理想である。唐子そのままの愛らしい子等を見よ』 児童の服装が良くわかります。 右側の一番大きな女の子は、チャイナドレスです。また幾何学模様が施されています。 子供にもファッションが行き届いている様です。 | | | |
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| 満州国では様々な工業がおき、多くの工員が雇われました。 その中のひとつ、撮影場所は不明ですが、真空管工場です。 基本的な組み立ては手作業で行われています。作業内容ですが、電熱線を切りそろえているようにも見えます。 社会が豊かになり、産業が盛んになると自然とこうした社会参加の機会は増え、女性達は仕事をし、お洒落など豊かに消費を楽しんでいる様にも見えます。 第二次大戦後直ぐ、タイムライフ誌には女性をターゲットにした広告がいくつも掲載されます。戦後、経済発展を歩み始めたアメリカで、女性が消費の主人公になったともいえます。 日本でも大正時代には、モダンガールが銀座を闊歩しました。 生産活動の参加と、消費への参加、何時の時代も何処の国でも、女性に近代化の姿を見出せる、と考えます。 満州から一旦離れてみましても、いわゆる"格差"は階層の差で生じるものであって、多くの国では同じ階層であれば女性のほうが男性より良い生活をしているといえ、男女差が格差ではないことが判ります。またそれは、近代化の進むかつての満州も例外ではないことと理解出来ます。 | | | |
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| 田舎の道を一輪タクシーに乗る女性です。お洒落なパラソルが目を引きます。 片方に2名、もう片方は1名で、バランスが悪いのか、一輪車を押すおじさんは大変そうに見えます。 女性はモガ風です。 町へ遊びに繰り出すところでは、と想像していますが、それにしてものんびりした風景です。 | | | |
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| 『満州は気候の良い行楽期間というものが割合に短い それで秋晴れのすがすがしい日には家族打ちそろって村から町へ出る 和かな車の姿を見かける』 こちらも町へ繰り出すところでしょうか。キャプションには家族とあります。 左端に座っている、頭が半分だけでているのはつるつるに剃り上げており、これは少年のようです。 が、それいがいは皆、女性に見えますが、如何でしょうか。 女性同士で集まって町へ遊びにいくところと感じます。髪型もそれぞれいろんな整え方をしています。女性があつまってお出かけ、というあたり、今日の女性並みに行動は自由で会ったとも感じます。 ただ、町まではまだかなり時間がかかるのか、表情にはなんとなく疲労の雰囲気がみてとれます。 | | | |
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| ではここから、満州絵葉書の中から、いろんな女性プロマイド風写真を見てまいります。 まず蒙古の女性から。 『広き額は豊頬に女性美をあらわさんとする。豊かなる人相の中に愛嬌潜むその目ざし。 母性的蒙古美人』 | | | |
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| 朝鮮美人図 満州には朝鮮半島からの移住者も多く、かれらは朝鮮文化を守り、暮らしていました。 ご覧のブロマイド風写真(スタジオ撮影の様です)も、彼らの民族衣装です。 | | | |
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| 西洋風な印象の服装です。 またふちに毛皮があしらってあるようです。 | | | |
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| 同じくモダンガール。 意随分と華奢な印象をうけます。 | | | |
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| この写真のキャプションには『支那』とあり、当時の中国(支那、中華民国)の軍隊です。満州国ではありませんが、近代的な女性の姿ということで紹介してまいります。 またこれは上海の女学生で組織した歩兵部隊です。軍服は腕章をしている以外、階級章らしきものも見えません。 これは満州国設立後の書籍では満州物と一緒にされているものを、複数回見かけました。満州絵葉書として扱われているケースもあります。満州国とその隣の国とを同じ国としてひとくくりにし、区別していないとも理解されますが、如何にも勇ましい女性兵士ということで、好んで用いられたのかもしれません。 ちなみにこの写真は、日本人(日本兵)が個人のカメラで撮影したものだ、とする資料があります。 当時、カメラは貴重品でしたので、上手く取れた写真はあちこちに広く出回ったのでしょう。 さて彼女が構えているライフルですが、逆光で真っ黒く写っているため、どのライフルかの特定は出来ませんでした。 推定となりますが、イギリス陸軍の制式小銃であったエンフィールドSMLE ライフルに似ている様にも見えます。特徴として照門(リアサイト)の後ろに突起がある、引き金(トリガー)の前に黒い影となって要る部分があり弾倉(マガジン)と思われる、などが特徴として挙げられます。 当時の中国軍は、アメリカの機銃、ドイツのライフルやヘルメットを輸入していました。イギリスからもライフルを購入していたのかもしれません。 写真は、髪もきっちりそろえているなど、いかにもやらせな感じです。 | | | |
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| 旺盛な食欲を感じさせる風景です。 お皿には複数のおかずも見え、食事には恵まれていたようです。 これは普通のスナップ風ですね。 この上海の例以外に、満州や当時の中国で女子軍は、どのくらいの数があり、どの程度配備されていたかは不明です。 先日の中国建国60周年記念の大軍事パレードには大変な数の部隊が行進をしましたが、女性民兵部隊も参加していました。また北朝鮮軍事パレードも女性部隊の行列がありました。大陸には、伝統として女性部隊があるのでしょうか? 欧米では、かなりの数が組織されていました。 イギリスでは国防義勇軍補助部隊(ATS)英海軍婦人部隊(WRNS)空軍婦人補助部隊(WAAF)が、 米軍では陸軍婦人補助部隊(WAAC)陸軍婦人部隊(WAC)、 さらに独軍でも陸軍補助婦隊や国防軍補助婦隊が軍務についていました。 日本軍も婦人軍属というのがあった様です。 参考:http://nishiha.fc2web.com/hantani/ | | | |
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| 当満州写真館でホロンバイルを紹介いたしましたが、白黒画像ですので色合いはわかりませんでした。 こちらの絵で見ますと、随分と明るい色であることがわかります。 | | | |
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| ハルピンでの撮影、 ロシア人の楽しそうなお買い物風景です。 | | | |
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| 『水草の如く西から東へ東から西へ 流浪のたびを続けるロシヤ女の歌は 哈爾濱の路上に哀愁を唆る。』 これらの写真を見ますと、ロシア人は自由にのびのびと生きている様に見えます。 | | | |