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2019-03-18

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「水清ければ魚棲まず」ということば、
 釣りをはじめると、しみじみ思うようになります。

 あんまり清く透明な水のところには魚がいません。
 それと同じように、「あまり清廉すぎると、
 人に親しまれず孤立してしまうこと」を、
 このことばは意味しているようです。
 『新明解故事ことわざ辞典』を買ったので、
 なにかと助かります。

 清いとは、どういうことを表しているのか。
 実際には、きれいな水の流れのなかにいる魚も、
 いないわけではないのです。
 だけど、たしかにあんまり魚影は濃くないよなぁ。
 同様に、すっごくピュアな組織だってありますよね。
 そして、そこに人がいないというわけじゃない。
 歴史のなかにも、純粋な青年たちの組織とか登場します。
 ただ、そこには、笑顔とか、ふくよかさとか、
 豊かさみたいなものが見えないように思います。

 どこまでも「清い」ことを突き詰めていくと、
 生きものの気配がなくなるのではないでしょうか。
 逆に「清からず」の状態の水というのは、
 プランクトンからはじまって小エビや小魚、藻、水草、
 エビや小魚を食べる魚という具合に、
 水に「生態系」ができているんじゃないかなぁ。
 大もとのところに、ちょうどよく微生物がいる感じ。
 それは「清い」とは言いにくいですもんね。

 つまり「水清ければ、命少し」ということか。
 釣りをしていて思ったのは、そういうことでした。
 倫理やらルールやらで一貫した「清い」組織には、 
 「生きもののいのち」が宿りにくいのではないか。
 そう考えると、このことわざ、腑に落ちる気がします。
 ま、逆に微生物が繁殖し過ぎると、
 「生きもののいのち」のバランスが崩れるのですが、
 それはつまり「濁りすぎ」ということですよね。

 よく「清濁併せ呑む」とか言いますが、
 これは、なかなか簡単なことじゃなさそうです。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
かつては歌謡曲というものが、まさに「清濁」でしたよね。


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