あとがき (1) 「ネズミ1匹くぐれまい」と豪語するプロイセン軍を嘲け笑うかのように、パリ攻囲のほとんど全期間を通じて、首都と地方の通信はほぼ恒常的に維持されていた。火と鉄の狭い環をくぐり抜けるために用いられた手段の大胆さと新奇さとは当時の常識を超えるものであったに違いない。大空は当時にあってはまったくの盲点であったのである。 普仏戦争が独仏首脳の当初の思惑を裏切って長引いた主たる理由は、われわれがこれまでみてきたような通信の確保にあった。プロイセン軍の執拗な監視、妨害活動が続いたにもかかわらず、気球と鳩による通信でパリが外界と繋がっていたという事実はこの点からみてまことに意義深いと言わねばならない。籠城期間中、パリは地方や外国の情勢を概ね正確に把握していた。一方、地方とヨーロッパ諸国の同情と注視を浴びていたこの首都は気球郵便のおかげで、己れの状態をこれらに知らせることができた。郵便物はおろか新聞類までもヨーロッパ中に配布することができたから、パリの状況は各国ではよく理解されていた。ロアール軍の勢威が最も強かったときには、パリ軍との間に共同の軍事作戦が企図されるほどであった[実行はされなかったが]から、この情報面ではパリはさして不自由しなかった。 もし、パリがこの手段をもたなかったとしたら、プロイセン軍の仕掛けた情報戦の餌食となって疑心暗鬼のうちに内部崩壊を早め、もっと早い時期に開城していたことは間違いないところである。メッス、ル・アーヴル、トゥールなどの都市がこの例である。また、パリの国防政府の首脳部そのものに、最初からさほどの抗戦継続の意欲が見られなかっただけに、なおさらそうである。12月末、堰を切ったように独軍による猛烈なパリ砲撃が始まる。しかし、この砲撃で実際に犠牲となった者はそれほど多くない。また、饑餓地獄については、さすがに1871年1月下旬になると深刻化するものの、少なくとも70年末まではさほど極端なものではなかった。パリが長くもち堪えたのは、今までみてきたような情報連絡の維持があったからである。季節の影響で鳩が飛びたたず伝書鳩通信が間遠になり、食糧が底を尽き、あらゆる脱出戦がことごとく失敗し、また地方軍が次々に敗北したのを知って、ようやくパリは武器を置いた。 とはいえ、パリと地方の連繋を過大評価することもまた戒めねばならないだろう。ツール政府派遣部の閣僚ガストン・クレミューは戦後の議会査問委員会の陳述でこう述べている。 「ツール政府とパリ政府との間に完全な一致は決してなかった。なぜというに、統一が我々に欠けていたからであり、われわれは非常に困難な形でしか通信することができなかったからである」と。 問題なのは確実な通信手段、とりわけ地方からパリに向けての通信方法に限界があったことである。通信は全体としてみるならば、一方通行であった。そのために、軍事共同作戦を実行に移せなかった。11月初旬のロワール軍によるクールミエの戦勝の好機を活かしきれなかった。 第二に、クレミューも述べているように、パリ政府とツール派遣部との間に確執があり、両者の関係はパリ攻囲期全体を通じてしっくりいっていなかった。この徴候は随所に見られる。たとえば、パリ総督トロシュはパリ西方への出撃の秘密作戦を胸に抱いていたが、これをついにツール政府に伝えることができなかった。またパリ開城後の国民議会選挙実施をめぐっての足並みの乱れもここより発する。また通信問題に戻るが、本稿でみたように、マイクロ写真技術の実行の使命を帯びたダグロンとフェルニクがツールで経験した冷遇も、元をただせばこの確執に真の原因がある。 (2) パリ=地方間の通信の維持は戦局の決定的転換には至らなかった。それは否定できない。しかし、繰り返し述べるように、それは少なくとも戦争の継続をもたらした。独仏両国に災厄と人的損失を増やし、戦勝国プロイセンの要求をエスカレートさせた。それは二重の負担をフランスにもたらしたわけである。犠牲はとりわけパリで大きかった。4ヵ月余の耐乏生活を味わったパリその意味で、地方とは異なった運命を強いられたのであり、そこから発する政治的結果も、また地方とは異なったものになる。われわれがパリ籠城期に対して寄せる関心も、実はそうした問題意識に発している。 ギリギリの極限状況まで堪えることによって、パリ内部の社会的矛盾はますます増幅された。この矛盾が外戦を内戦(パリ・コミューン)に転化する酵母の役割を果した。この閉ざされた4ヵ月余の間に、アンリ・ルフェーブルのいう「パリにおける社会機構の解体」が進んだ。九月四日革命は不徹底であり、一つの妥協に終わった。戦争の継続という課題が旧体制の分解を中途半端なものにした。この革命では、社会の上層部のみが打撃を受けたに過ぎない。旧体制の軍人、警察官、行政官の多くは臨時政府の諸機関の中に滑りこんでいく。 しかし、パリの長期の籠城生活が次第にこの曖昧さを暴き、これを告発し、政府をますます窮地に陥れていく。国防政府は保守派と革命派の攻撃に晒されて無為無策を繰り返す。この間にパリの内部にあっては交換・商品・貨幣流通すら麻痺し、経済生活は解体し、失業が猛威を奮う。経済の解体は政治的緊張をますます深刻化する。社会生活それ自身が崩壊しはじめる。既存の社会が上から下へと崩れて行くのに対して、下から上へと向かう新たな再構成が根を拡げていく。籠城期にこのような過程が進行したとすれば、開城後のパリの政治生活も周知のように、地方とはまったく異なった軌跡を描く。これが1871年3月のコミューン革命に連なるものである。 したがって、パリがフランスの他の都市と同様にもっと早期に降伏していたら、そして、もし飢え、寒さ、疫病、砲撃の恐怖があれほどに猛威をふるわなかったとしたら、前述の「社会解体」は不徹底なものに終わり、その運命はまた別物になっていたことは容易に想像できよう。戦火を被った町、それを免れた町いずれも勝機のない戦争からの離脱を願っていた。戦闘におけるパリの特殊状況がこの町の戦争離脱を遅らせ、結果として政治的意味あいにおける、首都の(フランスからの)孤立をもたらした。したがって、首都がこのような孤立を味わうことなく、もっと早く地方といっしょになって敗戦処理の課題に没頭していたら、内に向かっては地方とともに戦後復興に没頭し、そして外に向かっては、地方といっしょになってドイツに対する復讐に思いを馳せていたであろうし、民衆がこれほど“内部の敵”政権担当者にたてつくことはなかったであろう。 このことは他の都市と比較してみるといっそうはっきりする。パリの九月四日革命に引きつづきリヨンやマルセイユにおいても騒擾が発生した。しかし、これは長く続かなかった。そして、これらの都市は71年3月のパリ蜂起に際しても首都の後を追ったが、数日で崩壊した。それは、これらの都市に蓄積された社会的矛盾のエネルギーが、長期の孤立と耐乏生活を強いられたパリのそれと比べて格段に小さかったからではないだろうか。……この意味で首都はフランスによって包囲されていた。パリが城門を開いたのは1871年1月28日。そして、それが再び武装し孤立の籠城生活に戻るのに50日すら要しなかったのである。 |
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