XIII マイクロフィルム しかし、この数でも需要を満足できなかった。前にみたように、パリで「記事つき書簡」が大成功をおさめたのは、首都のニュースを地方に伝達するのに印刷業者がそれを代行し、便箋の小さな欄に大量の情報を詰めこむことができたからである。パリで試された経験がよりすぐれた処理法を生みだした。 パリ在住の発明家フェルニク、写真家ダグロンとその女婿ポアゾーらはさらにすぐれた写真縮写法を考案し、これを国防科学委員会に報告。これを用いると、1ページの大版『官報』は透明フィルムのなかでは、僅か一ミリ四方のスペースしかとらなかった。つまり、史上初のマイクロ・フィルムがここに誕生したのである。11月11日、ランポンは発明家たちと契約書を交わし、この発明の即時実用化を目指した。 ランポンの指示に基づいて、中部フランスのクレルモン=フェランでマイクロ・フィルム製版の仕事に着手すべく、ダグロンらは翌11月12日、気球ニエプス号に機材を積んでパリを発った。第八節でみたように、この気球は不幸にしてプロイセン軍の銃撃を受けて大破し、捕獲された。フェルニクとダグロンは逃げる途中で互いに離れ離れになりながらも、姿をくらまし辛くも逮捕を免れたが、残念なことに機材を放棄しなければならなかった。フェルニクはツールのステーナケルスの許に出頭し、パリの電信局長ランポンとの間に締結した契約書を呈示し、自分たちに与えられた特命を報告した。ところが、ステーナケルスはこれを承認しなかった。彼は、パリ政府が認めたこの約定と任務をツール派遣部に対する権限侵犯と判断した。その契約書が事業の利益配分の点で発明家を厚遇していることも長官の気に入らなかった。遅れてツールに到着したダグロンも同じような冷淡な態度に出会した。 写真機材の喪失、派遣部からの冷遇という二重の困難にもかかわらず、その技術の卓越を確信していた彼らは、派遣部の翻意を促すべくその後何度も交渉した。実際、これまでの方法では一羽の鳩で約2000通の通信文しか運べないのに対し、彼らの方法ではその30倍、実に6万通以上を一度に運ぶことができた。とはいえ機材を失ったので、この画期的方法を派遣部に実演してみせることもできなかった。これは彼らにとって不幸であったばかりでなく、フランスにとっても損失であった。戦後の議会査問委員会でも取りあげられているように、もしこのときすんなりと採用されていれば、そして、もし機材が失われず、時間の空費がなかったとしたら、パリ政府とツール派遣部の意志疎通、首都の市民と地方の同胞の連絡はもっとスムーズに運び、戦争の展開はまた異なったものになったはずである。 11月29日、ド・ラフォリは決断を下した。派遣部は、ランポンとこれら発明家との間で締結された契約を一部修正し、利益配分について発明家の取り分を幾分縮小した。 一方、ダグロンとフェルニクは、気球の捕獲で失った機材の最重要部分に代わるものを工夫して拵えあげ、一つ一つ障害を取り除いた。失ったのと同じ機種のカメラがボルドーのアマチュア写真家から届けられた。パリにしかない化学物資は気球便でまもなく到着。発明家たちがパリを発ってから約1ヵ月が空費されたが、ようやく12月15日からこのマイクロ写真法による郵便業務が始まった。この事業はまもなく順調に軌道に乗り、それは休戦協定の成立時まで続いた。郵便物の滞貨はたちまちのうちに片づけられた。 印刷はマーム印刷所が受けもち、撮影はツールの写真家ブレーズが担当。通信文は印刷活字九ポを使って、87×23センチの紙の上に3縦列に印刷された。この用紙は一枚当たり約200通の通信文をおさめるが、印刷の鮮明度に応じて九枚または16枚毎に、縦横三枚あるいは四枚ずつ並べられてパネルに固定し写真撮影された。したがって、38×60センチのフィルム1枚に収録しうる通信文は1800通または3200通ということになり、1羽の鳩が1回で運ぶことのできる量は概算2万~6万通にもなった。 細心の気遣いにもかかわらず、陽画は全て成功したというわけではなかった。トウゴマのコロジオンの被膜で作られたフィルムはその材質の悪さのせいで、乾燥すると形が変わって皺が寄り、このためにかなり多くが失敗に帰した。原版は顕微鏡による点検をパスすると、鳩係に引き渡された。 11月10日の国防政府の法令は、料金1フランでの 「返信葉書」方式の採用を認可した。これは、予め名宛人になされた4つの質問に対し、「はい」、「いいえ」の答えだけで返答する葉書である。たとえば、パリ在住のジャンがマルセイユのルイ・ポール(Louis Paul)に安否を尋ねようとするとき、次のような方法に従う。 先ずジャンはパリの郵便局でこの葉書を買う。これには予め8つの欄が印刷されている。①葉書番号(郵便局で記入)、②名宛人の所在地、③名宛人の氏名のイニシアル、④差出人の住所、⑤~⑧前記4つの質問に対する回答欄。 ジャンは先ず最初に、②欄に「マルセイユ」、③欄に「PL」(ルイ・ポールのイニシアル)、④欄にposte restante[局留郵便]と記入する。 次いで、彼は別の便箋に四つの質問を書く。1、元気か。2、金が必要か。3、私の弟が捕虜になっていたら「はい」と、もし負傷していたら「いいえ」と返事せよ。4、彼が元気だったら「はい」と、不幸にして戦死していたら「いいえ」と返事せよ。 この質問状と葉書が一緒に気球によって、名宛人のマルセイユのポールの許に運ばれる。 この手紙を受けとったポールは四つの質問について、葉書の⑤~⑧欄を「はい」「いいえ」「いいえ」「いいえ」の答えで埋める。ポールはこの葉書をマルセイユの郵便局にもっていき、そこで一フランの切手を貼って投函する。 この葉書はマルセイユからボルドーに転送される。ボルドーでは別の紙に郵便局員が「局留郵便」、ONNN(O=Oui、N=Non)とタイプで打つ。 返信葉書1枚につき僅か1行からなるこの文は3万~4万行つまり3万~4万通毎に纏められて、1枚のボードの上に貼られる。そして、われわれが前にみた方法でマイクロ写真化され、伝書鳩でパリに送られる。 伝書鳩郵便が始まった頃は、通信文は単に丸めるだけで鳩の尻尾に括りつけられたが、郵便局と電信局が統合されてからは、鳩放出係ジョルジュ・ブレイがそれを改善した。彼は、通信文を尻尾に固定する絹糸がフィルムを痛めることに気づいた。彼は、がちょうまたは大烏の羽根の端を切断して使ったチューブにフィルムを入れることを考案した。このようにすれば、フィルムを痛めることもなければ、これを雨に晒す心配もなくなった。さらに、後に開発されたフィルムは薄紙に比べて軟らかさ、軽さ、耐久性の点ですぐれていることが分かった。それを細心の注意をもって丸めれば、簡単に針の太さほどに細くすることができ、その上に別のフィルムを重ね巻きにすることさえできた。 チューブが尾翼に固定されると、ただちに放出が始まった。放出係は鳩を機関車で、パリに最も近い地点まで、時にはプロイセンの前哨の傍まで運んでこっそり放出した。最初、オルレアンが出発拠点となったが、この町が敵の攻撃に晒される危険性が出てきたので、ポアティエに移設された。オルレアンからパリまでは直線距離で約120キロメートルにすぎないが、ポアティエからとなると、300キロにもなり、その分だけ鳩の飛行距離が延びた。不利は明白であった。実際、この年の冬はことのほか厳しく、厳冬期にはセーヌ川が凍結するほどであったから、この寒さは鳩の飛行にとって大きな障害であった。寒さは鳩の呼吸を圧迫し、疲労を早めた。短い日照、大地を覆う雲、靄のかかった空気はこの哀れな使者をしばしば迷い子にした。鳩はしばしば出発を拒絶し、そうでない場合でも、すぐさま舞い降りてきた。 鳩の敵は長い道程と寒さばかりではなかった。砲声と銃声がこれらを怯えさせ、その道から逸れさせた。また、その幾つかが猛禽の爪の犠牲となった。伝書鳩通信を予知したプロイセン軍は、調教した鷹を途中で待ち伏せさせた。 包囲末期の1月7日、厳冬のピーク時には放出された62羽の鳩のうち、わずか3羽のみがパリに戻ってきた。至急報は番号で処理されていたから、パリでは不着の鳩の数は把握されていた。同一の通信文を積んだ鳩が複数であったとしても、ただ1羽のみがパリに到着すればよかった。パリ籠城期の全体を通じて、パリを気球で発った363羽の鳩のうち、実際に302羽が放出された。そのうち、郵政局と電信局の統合の行われた10月16日以前に54羽が使われていた。伝書鳩郵便が本格化するのは、それ以降のことであり、それからは鳩の到着はほとんど毎日のこととなった。すなわち、47便の出発に248羽の鳩が使われた。よって、同じ郵便物が平均五羽の鳩に託された勘定になる。放出された302羽の鳩のうち無事パリに到着したのは59羽のみである。したがって、パリに届かなかった通信物もたくさんあることになる。 生け捕りにされた鳩もあった。11月12日、気球ダゲール号が積んでいた鳩はプロイセン軍の手に落ち、ルーアンから敵によって託された至急報を携えて12月9日にパリに戻ってきた。この至急報はルーアン、オルレアン両市の陥落とロアール軍の大敗、ブールジュ、ツール市の包囲の可能性を仄めかした。この至急報の署名者にアリバイがあったのとチューブの結び方の違いとで、この情報がプロイセン起源であることが看破された。それはもちろん、パリ市民の間に落胆と士気沮喪を撒き散らすための謀略であった。 |
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