Ⅸ 記事つき便箋 全65便に及ぶ飛行のそれぞれについて細微にわたる記述は避けたい。それぞれが大なり小なり生命を堵しての冒険行であった。そして、その幾つかは任半ばにして事故に遭遇するか、敵の捕虜となるかした。とはいえ、全体としてみるならば、気球による航空郵便の制度は所期の成果を十分に挙げえた。1870年9月23日から翌年1月28日までにあいだに郵政局が借り上げた気球は54隻であり、これらは総重量20トン、250万通の郵便物を輸送した。 おかげでフランス全土は籠城中のパリの様子はほぼ手にとるように細かく知ることができた。とりわけ、ツール派遣部にとって、パリと地方との共同作戦行動をとるにあたり首都との情報交換は欠かせなかった。 しかし、僅か4グラムの書簡で委細を尽くした通信が可能であるだろうか。9月26日の郵政局の政令は封書の規格を縦11センチ横7センチと定めていた。それは三つ折りにされた状態で、一枚の紙におし広げると縦20.5センチ、横37.5センチになった。9月26日の政令に引きつづき郵政局は航空便用の便箋の印刷を命令した。この公式規格は20.5×37.5センチである。表面は内側へ折り込んで封書の形にするため、そこに本文はまったく書けない。したがって、便箋の裏側のみが通信欄であった。どんなに小さな文字で書くにしても、通信量は自ずと知れていた。パリの実情を細大漏らさず地方の友人に知らせるにはこのスペースでは足りなかった。 サン=トノレ街の印刷屋ジュアジュは10月の末ごろ、「記事つき書簡、不在者新聞」という便箋を発行した。これは通常規格の形式を保ち、そのなかに籠城下の諸事実、諸会戦の模様、その他の雑記事を刷りこんでいた。もう一つの面は「気球便」と印刷されて、そこに通信文と宛名書きスペースが割かれている。最初の2ページはその週における諸事件の抜粋を含み、3ページ目が通信欄であった。この「記事つき便箋」は淡黄色の薄紙の上に時事ニュースがきわめて克明に書かれていた。これは1870年10月22日から2月22日までの4ヵ月間、毎週水曜日と土曜日に発行され、合計で40号を数えた。なかでも12月8日号からは、挿絵が入れられて記事に迫真性が加わった。第34号(2月1日)以後、それは紙質のよりすぐれた白色の用紙を使い4ページ立てとなった。1月28日の休戦協定のおかげで、通常手段での郵便業務が再開され、もはや編集者は四グラムの重量制限にとらわれる必要がなくなったのである。これは通信欄を欠いているので、もはや便箋とは言えず、正真正銘の新聞であった。2月末には政治の舞台の中心はボルドーに移っていたので、この「記事つき便箋」は廃刊となった。編集者ジュアジュはこの後なおもⅠ~Ⅷの補遺を発行しており、つごう、「記事つき新聞」の完全なシリーズは48号ということになる。 「記事つき便箋」は大成功をおさめた。これに倣って次々と類似物が世に出て21種を数えた。ために、ジュアジュはこれに抗議するほどであった。 Ⅹ パリ帰還飛行 パリを発つ気球は、包囲された首都の出来事をつぶさに地方に伝えることができた。風が東方に向かっているとき、あるいは荒天の場合を除き、ほぼ恒常的にニュースを送ることができた。しかし、パリを発つのは比較的容易であるにしても、同じ手段でパリに戻るとなると話は別。そこで、操縦性をもつ気球の建造が思いつかれた。政府の許には各方面からいろいろな名案が寄せられていた。なかには外国からさえ新案が届いた。政府はこれらが実行可能であるかどうかを検討するために、臨時輸送特別委員会を組織。委員会の構成は以下の通り。 セレ 学士院会員 ド・タスト ツール国立中・高等学校物理学教授 イザンベール ポアチエ国立中・高等学校物理学教授 ギトー ポアチエ国立中・高等学校物理学助手 フロン パリ天文台の物理学者 ティサンディエ 飛行士 リオラン 弁護士 デュリュオ= ケルヴラ 飛行士 ド・ラ・グピエール 工科大学院検査官 マリー=ダヴィ パリ天文台の気象学者 ジルベルマン フランス気象協会副会長 著名な研究者および技官から成るこの委員会はパリ帰還飛行の技術的可能性を真剣に模索した。10万個の熱気球でパリに物資を供給する、1万羽の鳩を繋いで気球をパリに導き入れる、帆、舵、プロペラ付き気球、鳥気球などの空想が次々と委員会に届いていた。委員会はいずれについても、その実用性を否定した。 操縦性をもつ気球が建造できないにしても、パリ脱出に用いられた通常の気球を使って、パリに舞いもどるという案は全く不可能というわけでもなさそうだった。実際、パリ脱出に用いられた気球はツールに溜まる一方であった。これは場所塞ぎになるばかりでなく、再使用に堪えるようにするために、ときおり膨らませて布地の接着を防がねばならないなど、保管維持に甚だ厄介な代物であった。ツールの劇場において場所塞ぎになるこれが再使用されるとなれば、一石二鳥の効果が望めた。 9月30日に気球でパリを発ったガストン・ティサンディエはツールでパリ帰還飛行の指導に当った。パリに近い幾つかの町、たとえばオルレアン、シャルトル、エヴルー、ドルー、ルーアン、アミアンなどにそれぞれ気球基地が設けられた。風がパリに吹くと、ただちに出発態勢が組まれた。首都はかなりの面積をもっており、それに外部要塞を入れると広大なスペースとなった。気球がパリ上空に到達すれば降下を開始する。もし着陸がうまく行かない場合には、積荷のみを落下させる、これが計画であった。 最初の試みはシャルトルで10月18日に行われた。気球のガス充填が始まったが、途中でガス欠をきたし充填は不十分であった。操縦士レヴィヨーが重さ十キロの郵便物とともに乗船し出発命令に備えた。ところが、はからずもこの出発に関して上層部から相反する指示が出された。レヴィヨーが命令の確認のために下船している間に、気球は突風に煽られ立木に激突、孔があいてガスが全て抜け出てしまった。こうして第一回目の実験は失敗した。その日のうちにシャルトル占領の危険が生じたので、レヴィヨーは破裂した気球を夜汽車に積んで、30キロ北に離れたドルーへ向かった。ここでもあらゆる努力をしたが、結局、ガス不足のために目的を果せなかった。彼は一旦ツールに戻り、今度は鉄道で迂回してルーアンとアミアンに行き、そこで出発に備えた。またしても順風に恵まれず、結局のところパリ帰還飛行は実現できなかった。 ツール派遣部はなおも諦めなかった。ティサンディエ兄弟、ガストンとアルベールはディジョンまで赴いて気球ジャン=バール号を取りよせ、これをルーアンに運び出発の準備に備えた。充填はうまく行き、ほどなくしてパリに向けて順風が吹きはじめた。出発は10月16日午前11時、2人の飛行士を乗せた気球はほどなく高度1200メートルに達し、風はパリの方向へそれを運びつつあった。やがて、厚い霧が立ちこめて地上からは見えなくなった。3時間ほどして現在地点を確かめるため降下した。地上にはプロイセン軍はいなかったが、彼等が降りたったのは、パリへはまだ程遠いポーズであった。彼らが霧に巻かれているうちに風向きがすっかり変わっていたのである。翌朝、ロミリー=シュル=アンデルで再び艤装をすませた気球は2人を乗せて飛びたった。が、またしても途中で風向きが変わり、今度はルーアンを飛び越してセーヌ河口付近のウルトーヴィルに落下した。そこで順風を待ったが、結局、風向きが変わらず、計画そのものを断念せざるをえなかった。 |
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